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第4話 目覚めと違和感
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第4話 目覚めと違和感
意識が浮上する感覚は、いつも唐突だ。
深い水の底から、無理やり引き上げられるような重さ。耳鳴りが先に戻り、次に痛みが戻り、最後に「自分」という輪郭が戻ってくる。
「……っ」
喉から漏れたのは、声にならない息だった。
まぶたが重い。開こうとすると、頭の奥で鈍い痛みが跳ねる。まるで、誰かに石で殴られたあとを内側から押されているような感覚だ。
――生きている。
その事実を、まず理解した。
次に分かるのは、匂いだった。薬草と消毒液の混じった、教会特有の清潔すぎる匂い。鼻の奥がつんとする。ここが王城ではなく、治療施設か修道院の一室だということは、すぐに察しがついた。
「……ステラ様?」
控えめな声。
ぼやけた視界の端で、人影が揺れる。白い衣の少女が、椅子から立ち上がるのが見えた。
「……よかった……! 目を覚まされたのですね……!」
声の主は、クレア・グレコだった。
その名前を認識した瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。身体の痛みとは違う、もっと嫌な種類の反応。理由は分からない。ただ、無意識が「警戒しろ」と告げている。
「……ここは……?」
喉がひどく渇いている。声がかすれる。
「教会の療養室です。階段で……その……事故に遭われて……」
事故。
その言葉が出た瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
階段。背中。衝撃。落下。
――事故?
ステラは、瞬きをした。記憶が曖昧だ。だが、完全に空白ではない。断片的な映像が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
近すぎた距離。
急に迫った気配。
背中に走った、はっきりとした力。
それを「事故」と呼ぶには、あまりにも――。
「……大変でしたね」
クレアはベッドの横に腰掛け、そっと手を伸ばしてくる。触れそうで触れない、絶妙な距離。
「婚約破棄に、追放の処分……あまりにも、酷ですもの。きっと……心が耐えきれなかったのでしょう……」
その言葉に、違和感がはっきりと形を持った。
心が耐えきれなかった?
――誰の?
自分が?
ステラはゆっくりと視線をクレアへ向けた。クレアの表情は、心配と同情で完璧に整えられている。けれど、その瞳の奥にあるものが、どうにも噛み合わない。
「……私は……」
言葉を探す。探しながら、頭の中で別の声が響いた。
――おかしいやろ。
その声は、妙に生々しかった。
ステラは一瞬、思考が止まった。
今の声は、誰だ?
「ステラ様……?」
クレアが不安そうに覗き込む。
「……お身体、まだお辛いですよね。無理なさらないでください。……ほら、皆さまも、そうおっしゃっています」
皆さま。
誰のことだろう。
「ステラ様は、優しすぎたのです。だから……だから、こんなことに……」
優しすぎた。
その言葉は、今まで何度も言われてきた。褒め言葉のようでいて、責任を押し付ける便利な言葉。優しすぎたから悪い。優しすぎたから壊れた。だから仕方がない。
その理屈に、これまで疑問を持たなかったわけではない。けれど、疑問を口に出すことはなかった。
――口に出したら、空気が壊れる。
そうやって、ずっと飲み込んできた。
「……」
頭が、痛む。
だが、それ以上に、頭の奥で何かがぐらぐらと揺れていた。まるで、古い扉が内側から叩かれているような感覚。
「……ステラ様?」
クレアの声が、少しだけ強くなる。
「今は……休まれた方が……。あまり考えすぎると……」
その瞬間。
頭の中で、はっきりと「別の記憶」が割り込んできた。
――考えすぎ?
――アホ言いな。
聞き慣れないはずの言葉なのに、やけにしっくりくる。
ざらついた声。遠慮のない調子。上品さの欠片もない。
――考えなあかん時に考えんから、えらい目に遭うんやろ。
「……?」
ステラは、無意識に眉を寄せた。
誰だ。
誰の声だ。
けれど、問いを立てる前に、記憶が雪崩のように流れ込んできた。
狭い路地。
鉄板の音。
粉と油の匂い。
騒がしい人の声。
遠慮なく笑って、遠慮なく怒って、遠慮なく喋る自分。
――あれ?
その記憶は、今のステラの人生とは、まったく噛み合わない。
公爵令嬢でもない。
聖女でもない。
王城でもない。
なのに、やけに現実感がある。
ステラは、思わず口を開いた。
「……ステラ?」
自分の名前を呼んだはずだった。
だが、口から出た言葉に、自分で凍りついた。
「……うちが?」
声が、違う。
上品でも、慎み深くもない。
どこまでも素の、飾らない響き。
クレアの目が、わずかに見開かれた。
「……え?」
ステラ――いや、ステラの口が、勝手に動いた。
「……ステラ? うちが?」
一拍、間が空く。
そして、困惑と混乱が入り混じった声で、続きが零れ落ちた。
「……えらいハイカラな名前やな……」
クレアの表情が、明らかに固まる。
ステラは、まだ自分が何を言っているのか分かっていない。ただ、頭の奥で笑う声があった。
――せやから言うたやろ。
――名前からして、場違いや言うて。
最後に、決定打の一言が、自然にこぼれた。
「……クッキーは、売っとらへんで?」
しん、と。
療養室の空気が、完全に凍りついた。
クレアは、言葉を失ったまま、ステラを見つめている。
その視線の奥にあるのは、同情ではない。
困惑でもない。
――恐怖だ。
ステラは、まだ知らない。
この瞬間、
「黙って耐える公爵令嬢」は終わり、
「うるさい浪速のおばちゃん」が、
確かに――目を覚ましたことを。
意識が浮上する感覚は、いつも唐突だ。
深い水の底から、無理やり引き上げられるような重さ。耳鳴りが先に戻り、次に痛みが戻り、最後に「自分」という輪郭が戻ってくる。
「……っ」
喉から漏れたのは、声にならない息だった。
まぶたが重い。開こうとすると、頭の奥で鈍い痛みが跳ねる。まるで、誰かに石で殴られたあとを内側から押されているような感覚だ。
――生きている。
その事実を、まず理解した。
次に分かるのは、匂いだった。薬草と消毒液の混じった、教会特有の清潔すぎる匂い。鼻の奥がつんとする。ここが王城ではなく、治療施設か修道院の一室だということは、すぐに察しがついた。
「……ステラ様?」
控えめな声。
ぼやけた視界の端で、人影が揺れる。白い衣の少女が、椅子から立ち上がるのが見えた。
「……よかった……! 目を覚まされたのですね……!」
声の主は、クレア・グレコだった。
その名前を認識した瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。身体の痛みとは違う、もっと嫌な種類の反応。理由は分からない。ただ、無意識が「警戒しろ」と告げている。
「……ここは……?」
喉がひどく渇いている。声がかすれる。
「教会の療養室です。階段で……その……事故に遭われて……」
事故。
その言葉が出た瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
階段。背中。衝撃。落下。
――事故?
ステラは、瞬きをした。記憶が曖昧だ。だが、完全に空白ではない。断片的な映像が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
近すぎた距離。
急に迫った気配。
背中に走った、はっきりとした力。
それを「事故」と呼ぶには、あまりにも――。
「……大変でしたね」
クレアはベッドの横に腰掛け、そっと手を伸ばしてくる。触れそうで触れない、絶妙な距離。
「婚約破棄に、追放の処分……あまりにも、酷ですもの。きっと……心が耐えきれなかったのでしょう……」
その言葉に、違和感がはっきりと形を持った。
心が耐えきれなかった?
――誰の?
自分が?
ステラはゆっくりと視線をクレアへ向けた。クレアの表情は、心配と同情で完璧に整えられている。けれど、その瞳の奥にあるものが、どうにも噛み合わない。
「……私は……」
言葉を探す。探しながら、頭の中で別の声が響いた。
――おかしいやろ。
その声は、妙に生々しかった。
ステラは一瞬、思考が止まった。
今の声は、誰だ?
「ステラ様……?」
クレアが不安そうに覗き込む。
「……お身体、まだお辛いですよね。無理なさらないでください。……ほら、皆さまも、そうおっしゃっています」
皆さま。
誰のことだろう。
「ステラ様は、優しすぎたのです。だから……だから、こんなことに……」
優しすぎた。
その言葉は、今まで何度も言われてきた。褒め言葉のようでいて、責任を押し付ける便利な言葉。優しすぎたから悪い。優しすぎたから壊れた。だから仕方がない。
その理屈に、これまで疑問を持たなかったわけではない。けれど、疑問を口に出すことはなかった。
――口に出したら、空気が壊れる。
そうやって、ずっと飲み込んできた。
「……」
頭が、痛む。
だが、それ以上に、頭の奥で何かがぐらぐらと揺れていた。まるで、古い扉が内側から叩かれているような感覚。
「……ステラ様?」
クレアの声が、少しだけ強くなる。
「今は……休まれた方が……。あまり考えすぎると……」
その瞬間。
頭の中で、はっきりと「別の記憶」が割り込んできた。
――考えすぎ?
――アホ言いな。
聞き慣れないはずの言葉なのに、やけにしっくりくる。
ざらついた声。遠慮のない調子。上品さの欠片もない。
――考えなあかん時に考えんから、えらい目に遭うんやろ。
「……?」
ステラは、無意識に眉を寄せた。
誰だ。
誰の声だ。
けれど、問いを立てる前に、記憶が雪崩のように流れ込んできた。
狭い路地。
鉄板の音。
粉と油の匂い。
騒がしい人の声。
遠慮なく笑って、遠慮なく怒って、遠慮なく喋る自分。
――あれ?
その記憶は、今のステラの人生とは、まったく噛み合わない。
公爵令嬢でもない。
聖女でもない。
王城でもない。
なのに、やけに現実感がある。
ステラは、思わず口を開いた。
「……ステラ?」
自分の名前を呼んだはずだった。
だが、口から出た言葉に、自分で凍りついた。
「……うちが?」
声が、違う。
上品でも、慎み深くもない。
どこまでも素の、飾らない響き。
クレアの目が、わずかに見開かれた。
「……え?」
ステラ――いや、ステラの口が、勝手に動いた。
「……ステラ? うちが?」
一拍、間が空く。
そして、困惑と混乱が入り混じった声で、続きが零れ落ちた。
「……えらいハイカラな名前やな……」
クレアの表情が、明らかに固まる。
ステラは、まだ自分が何を言っているのか分かっていない。ただ、頭の奥で笑う声があった。
――せやから言うたやろ。
――名前からして、場違いや言うて。
最後に、決定打の一言が、自然にこぼれた。
「……クッキーは、売っとらへんで?」
しん、と。
療養室の空気が、完全に凍りついた。
クレアは、言葉を失ったまま、ステラを見つめている。
その視線の奥にあるのは、同情ではない。
困惑でもない。
――恐怖だ。
ステラは、まだ知らない。
この瞬間、
「黙って耐える公爵令嬢」は終わり、
「うるさい浪速のおばちゃん」が、
確かに――目を覚ましたことを。
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