婚約破棄追放された公爵令嬢、前世は浪速のおばちゃんやった。 ―やかましい?知らんがな!飴ちゃん配って正義を粉もんにした結果―

ふわふわ

文字の大きさ
5 / 30

第5話 飴ちゃんと恐怖

しおりを挟む
第5話 飴ちゃんと恐怖

 療養室の空気は、凍りついたまま動かなかった。

 クレア・グレコは、まばたきすら忘れたようにステラを見つめている。つい数秒前まで、慈愛と同情を完璧に貼り付けていた顔から、色という色が抜け落ちていた。

「……ス、ステラ……様……?」

 声が裏返る。名前を呼ぶだけで精一杯だ。

 ベッドの上のステラは、自分の発した言葉の余韻を、遅れて理解し始めていた。胸の奥がざわつく。頭の中で、何かが一斉に喋り出している。

 ――なんやここ。
 ――白すぎるやろ。
 ――病院? いや、寺?
 ――ていうか、頭めっちゃ痛いわ。

 思考が騒がしい。にもかかわらず、不思議と混乱はない。むしろ、ずっと締め付けられていた何かが、外れた感覚があった。

 ステラは、ゆっくりと上体を起こした。身体はまだ重いが、動けないほどではない。クレアが慌てて止めに入る。

「だ、だめです! まだ安静に……!」

「ええって」

 返事は即座だった。

 クレアの手が、ぴたりと止まる。

「……え?」

「起き上がるぐらいで死ぬかいな。大丈夫や」

 言い切り。遠慮の欠片もない声音。

 ステラは自分の手を見た。細くて白い、令嬢らしい手だ。だが、その動かし方は、どう見ても長年家事と商売をやってきた人間のそれだった。

「……はあ」

 ため息が、自然に出る。

「えらい目に遭うたなぁ……」

 クレアは一歩、無意識に後ずさった。

 ――おかしい。

 この女は、今まで自分が知っていたステラではない。

 泣かない。
 謝らない。
 怯えない。

 そして、こちらを責めもしない。

 それが、逆に怖い。

「……ステラ様……あの……」

 クレアは、必死に言葉を探した。

「ご自分が……何をおっしゃっているのか……分かっていらっしゃいます……?」

「分かっとるで?」

 即答だった。

「せやけどな」

 ステラは首を傾げる。

「分かってることと、言わんことは別やろ?」

 クレアの喉が、ごくりと鳴った。

 意味が分からない。
 いや、意味が分からないふりをしているだけかもしれない。

「……お怪我の影響で、混乱なさっているのです。今は、無理にお話を……」

「混乱?」

 ステラは、きょとんとした顔をしたあと、ぷっと吹き出した。

「はは。混乱て」

 次の瞬間、表情がすっと変わる。

「なあ、あんた」

 声は低くない。荒くもない。
 ただ、逃げ場を与えない調子だった。

「さっきから、えらい心配してくれてるみたいやけど」

 クレアの心臓が跳ねる。

「……うちは平気やで」

 ステラは、にこっと笑った。

 その笑顔は、これまで誰も見たことのない種類のものだった。上品で柔らかいが、同時に遠慮がなく、腹の内を隠していない。

「心配してくれて、おおきに」

 そこで、ステラは――自分でも自然すぎる動作で――胸元に手を入れた。

 懐。

 クレアの視線が、思わず追う。

 次の瞬間。

 ころり。

 ステラの掌に、小さな包みが現れた。

「……え?」

 それは、飴だった。

 透明な紙に包まれた、素朴な飴玉。

「飴ちゃん、やろうか?」

 クレアの思考が、完全に停止した。

 ――なに?
 ――今……どこから?
 ――公爵令嬢の懐から……?

「え、あ、あの……」

 クレアの声が震える。

「……そ、それは……?」

「ん?」

 ステラは飴を指先で転がしながら、不思議そうに首を傾げた。

「ただの飴やけど?」

 そう言って、クレアの方へ差し出す。

「もらっとき。砂糖入っとると、頭回るで」

 一瞬、クレアはそれを毒だと疑った。

 反射的に、一歩下がる。

「……い、いえ……その……」

 疑念が顔に出たのだろう。ステラはすぐに察した。

「ああ」

 軽く頷く。

「毒ちゃうで」

 さらりと、当たり前のように続ける。

「そんなん入れたら、後始末めんどいやろ」

 クレアの背筋に、ぞわりと寒気が走った。

 ――今の言い方。

 冗談のようでいて、妙に現実的だった。

「……あ、あなた……」

 声が掠れる。

「……わたくしの……心を……?」

「読んでへん、読んでへん」

 ステラは、ひらひらと手を振った。

「顔に書いてあっただけや」

 飴を持ったまま、少しだけ身を乗り出す。

「なあ。あんた」

 クレアは、逃げたかった。
 だが、足が動かない。

「人が落ちたあとでな」

 声は穏やかなまま。

「いっちゃん怖いんは、誰が突き落としたかやない」

 クレアの呼吸が浅くなる。

「――誰が、最初に“事故”って決めたかや」

 その一言で、クレアの心臓が凍りついた。

 ステラは、飴を一つ、机の上に置いた。

「まあ、ええわ」

 あっさりと言う。

「今はな」

 クレアは、恐る恐るステラを見る。

 その顔には、怒りも復讐心もなかった。
 あるのは、余裕だ。

「今は、まだ」

 ステラは、くいっと肩を回す。

「うち、目ぇ覚めたばっかりやしな」

 にっと笑う。

「……せやから」

 飴を指で転がしながら、最後にこう言った。

「今日は、これで勘弁しといたる」

 その瞬間、クレアははっきりと理解した。

 ――この女は、気づいている。

 ――そして、まだ言っていないだけだ。

 恐怖で喉が詰まり、言葉が出ない。

 クレアは、耐えきれず、深く頭を下げた。

「……し、失礼いたします……!」

 そう言って、ほとんど逃げるように療養室を出ていった。

 扉が閉まる。

 しん、と静寂が戻る。

 ステラは、ベッドに腰を下ろし、ふうと息を吐いた。

「……やれやれや」

 頭の中の声が、笑った。

 ――初日から飛ばしすぎや。

「せやな」

 ステラは、掌に残った飴を見つめる。

「でもまあ」

 ころり、と口に放り込む。

「うるさい方が、性に合っとるわ」

 甘さが、舌に広がった。

 それは、これから始まる騒がしい人生の――
 最初の味だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです

ほーみ
恋愛
 「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」  その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。  ──王都の学園で、私は彼と出会った。  彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。  貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。

【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?

ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。 卒業3か月前の事です。 卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。 もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。 カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。 でも大丈夫ですか? 婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。 ※ゆるゆる設定です ※軽い感じで読み流して下さい

花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果

藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」 結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。 アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。 ※ 他サイトにも投稿しています。

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい

よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。 王子の答えはこうだった。 「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」 え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?! 思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。 ショックを受けたリリアーナは……。

婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました

ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」  大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。  けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。  王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。  婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。  だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。

【片思いの5年間】婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。

五月ふう
恋愛
「君を愛するつもりも婚約者として扱うつもりもないーー。」 婚約者であるアレックス王子が婚約初日に私にいった言葉だ。 愛されず、婚約者として扱われない。つまり自由ってことですかーー? それって最高じゃないですか。 ずっとそう思っていた私が、王子様に溺愛されるまでの物語。 この作品は 「婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。」のスピンオフ作品となっています。 どちらの作品から読んでも楽しめるようになっています。気になる方は是非上記の作品も手にとってみてください。

処理中です...