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第5話 飴ちゃんと恐怖
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第5話 飴ちゃんと恐怖
療養室の空気は、凍りついたまま動かなかった。
クレア・グレコは、まばたきすら忘れたようにステラを見つめている。つい数秒前まで、慈愛と同情を完璧に貼り付けていた顔から、色という色が抜け落ちていた。
「……ス、ステラ……様……?」
声が裏返る。名前を呼ぶだけで精一杯だ。
ベッドの上のステラは、自分の発した言葉の余韻を、遅れて理解し始めていた。胸の奥がざわつく。頭の中で、何かが一斉に喋り出している。
――なんやここ。
――白すぎるやろ。
――病院? いや、寺?
――ていうか、頭めっちゃ痛いわ。
思考が騒がしい。にもかかわらず、不思議と混乱はない。むしろ、ずっと締め付けられていた何かが、外れた感覚があった。
ステラは、ゆっくりと上体を起こした。身体はまだ重いが、動けないほどではない。クレアが慌てて止めに入る。
「だ、だめです! まだ安静に……!」
「ええって」
返事は即座だった。
クレアの手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
「起き上がるぐらいで死ぬかいな。大丈夫や」
言い切り。遠慮の欠片もない声音。
ステラは自分の手を見た。細くて白い、令嬢らしい手だ。だが、その動かし方は、どう見ても長年家事と商売をやってきた人間のそれだった。
「……はあ」
ため息が、自然に出る。
「えらい目に遭うたなぁ……」
クレアは一歩、無意識に後ずさった。
――おかしい。
この女は、今まで自分が知っていたステラではない。
泣かない。
謝らない。
怯えない。
そして、こちらを責めもしない。
それが、逆に怖い。
「……ステラ様……あの……」
クレアは、必死に言葉を探した。
「ご自分が……何をおっしゃっているのか……分かっていらっしゃいます……?」
「分かっとるで?」
即答だった。
「せやけどな」
ステラは首を傾げる。
「分かってることと、言わんことは別やろ?」
クレアの喉が、ごくりと鳴った。
意味が分からない。
いや、意味が分からないふりをしているだけかもしれない。
「……お怪我の影響で、混乱なさっているのです。今は、無理にお話を……」
「混乱?」
ステラは、きょとんとした顔をしたあと、ぷっと吹き出した。
「はは。混乱て」
次の瞬間、表情がすっと変わる。
「なあ、あんた」
声は低くない。荒くもない。
ただ、逃げ場を与えない調子だった。
「さっきから、えらい心配してくれてるみたいやけど」
クレアの心臓が跳ねる。
「……うちは平気やで」
ステラは、にこっと笑った。
その笑顔は、これまで誰も見たことのない種類のものだった。上品で柔らかいが、同時に遠慮がなく、腹の内を隠していない。
「心配してくれて、おおきに」
そこで、ステラは――自分でも自然すぎる動作で――胸元に手を入れた。
懐。
クレアの視線が、思わず追う。
次の瞬間。
ころり。
ステラの掌に、小さな包みが現れた。
「……え?」
それは、飴だった。
透明な紙に包まれた、素朴な飴玉。
「飴ちゃん、やろうか?」
クレアの思考が、完全に停止した。
――なに?
――今……どこから?
――公爵令嬢の懐から……?
「え、あ、あの……」
クレアの声が震える。
「……そ、それは……?」
「ん?」
ステラは飴を指先で転がしながら、不思議そうに首を傾げた。
「ただの飴やけど?」
そう言って、クレアの方へ差し出す。
「もらっとき。砂糖入っとると、頭回るで」
一瞬、クレアはそれを毒だと疑った。
反射的に、一歩下がる。
「……い、いえ……その……」
疑念が顔に出たのだろう。ステラはすぐに察した。
「ああ」
軽く頷く。
「毒ちゃうで」
さらりと、当たり前のように続ける。
「そんなん入れたら、後始末めんどいやろ」
クレアの背筋に、ぞわりと寒気が走った。
――今の言い方。
冗談のようでいて、妙に現実的だった。
「……あ、あなた……」
声が掠れる。
「……わたくしの……心を……?」
「読んでへん、読んでへん」
ステラは、ひらひらと手を振った。
「顔に書いてあっただけや」
飴を持ったまま、少しだけ身を乗り出す。
「なあ。あんた」
クレアは、逃げたかった。
だが、足が動かない。
「人が落ちたあとでな」
声は穏やかなまま。
「いっちゃん怖いんは、誰が突き落としたかやない」
クレアの呼吸が浅くなる。
「――誰が、最初に“事故”って決めたかや」
その一言で、クレアの心臓が凍りついた。
ステラは、飴を一つ、机の上に置いた。
「まあ、ええわ」
あっさりと言う。
「今はな」
クレアは、恐る恐るステラを見る。
その顔には、怒りも復讐心もなかった。
あるのは、余裕だ。
「今は、まだ」
ステラは、くいっと肩を回す。
「うち、目ぇ覚めたばっかりやしな」
にっと笑う。
「……せやから」
飴を指で転がしながら、最後にこう言った。
「今日は、これで勘弁しといたる」
その瞬間、クレアははっきりと理解した。
――この女は、気づいている。
――そして、まだ言っていないだけだ。
恐怖で喉が詰まり、言葉が出ない。
クレアは、耐えきれず、深く頭を下げた。
「……し、失礼いたします……!」
そう言って、ほとんど逃げるように療養室を出ていった。
扉が閉まる。
しん、と静寂が戻る。
ステラは、ベッドに腰を下ろし、ふうと息を吐いた。
「……やれやれや」
頭の中の声が、笑った。
――初日から飛ばしすぎや。
「せやな」
ステラは、掌に残った飴を見つめる。
「でもまあ」
ころり、と口に放り込む。
「うるさい方が、性に合っとるわ」
甘さが、舌に広がった。
それは、これから始まる騒がしい人生の――
最初の味だった。
療養室の空気は、凍りついたまま動かなかった。
クレア・グレコは、まばたきすら忘れたようにステラを見つめている。つい数秒前まで、慈愛と同情を完璧に貼り付けていた顔から、色という色が抜け落ちていた。
「……ス、ステラ……様……?」
声が裏返る。名前を呼ぶだけで精一杯だ。
ベッドの上のステラは、自分の発した言葉の余韻を、遅れて理解し始めていた。胸の奥がざわつく。頭の中で、何かが一斉に喋り出している。
――なんやここ。
――白すぎるやろ。
――病院? いや、寺?
――ていうか、頭めっちゃ痛いわ。
思考が騒がしい。にもかかわらず、不思議と混乱はない。むしろ、ずっと締め付けられていた何かが、外れた感覚があった。
ステラは、ゆっくりと上体を起こした。身体はまだ重いが、動けないほどではない。クレアが慌てて止めに入る。
「だ、だめです! まだ安静に……!」
「ええって」
返事は即座だった。
クレアの手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
「起き上がるぐらいで死ぬかいな。大丈夫や」
言い切り。遠慮の欠片もない声音。
ステラは自分の手を見た。細くて白い、令嬢らしい手だ。だが、その動かし方は、どう見ても長年家事と商売をやってきた人間のそれだった。
「……はあ」
ため息が、自然に出る。
「えらい目に遭うたなぁ……」
クレアは一歩、無意識に後ずさった。
――おかしい。
この女は、今まで自分が知っていたステラではない。
泣かない。
謝らない。
怯えない。
そして、こちらを責めもしない。
それが、逆に怖い。
「……ステラ様……あの……」
クレアは、必死に言葉を探した。
「ご自分が……何をおっしゃっているのか……分かっていらっしゃいます……?」
「分かっとるで?」
即答だった。
「せやけどな」
ステラは首を傾げる。
「分かってることと、言わんことは別やろ?」
クレアの喉が、ごくりと鳴った。
意味が分からない。
いや、意味が分からないふりをしているだけかもしれない。
「……お怪我の影響で、混乱なさっているのです。今は、無理にお話を……」
「混乱?」
ステラは、きょとんとした顔をしたあと、ぷっと吹き出した。
「はは。混乱て」
次の瞬間、表情がすっと変わる。
「なあ、あんた」
声は低くない。荒くもない。
ただ、逃げ場を与えない調子だった。
「さっきから、えらい心配してくれてるみたいやけど」
クレアの心臓が跳ねる。
「……うちは平気やで」
ステラは、にこっと笑った。
その笑顔は、これまで誰も見たことのない種類のものだった。上品で柔らかいが、同時に遠慮がなく、腹の内を隠していない。
「心配してくれて、おおきに」
そこで、ステラは――自分でも自然すぎる動作で――胸元に手を入れた。
懐。
クレアの視線が、思わず追う。
次の瞬間。
ころり。
ステラの掌に、小さな包みが現れた。
「……え?」
それは、飴だった。
透明な紙に包まれた、素朴な飴玉。
「飴ちゃん、やろうか?」
クレアの思考が、完全に停止した。
――なに?
――今……どこから?
――公爵令嬢の懐から……?
「え、あ、あの……」
クレアの声が震える。
「……そ、それは……?」
「ん?」
ステラは飴を指先で転がしながら、不思議そうに首を傾げた。
「ただの飴やけど?」
そう言って、クレアの方へ差し出す。
「もらっとき。砂糖入っとると、頭回るで」
一瞬、クレアはそれを毒だと疑った。
反射的に、一歩下がる。
「……い、いえ……その……」
疑念が顔に出たのだろう。ステラはすぐに察した。
「ああ」
軽く頷く。
「毒ちゃうで」
さらりと、当たり前のように続ける。
「そんなん入れたら、後始末めんどいやろ」
クレアの背筋に、ぞわりと寒気が走った。
――今の言い方。
冗談のようでいて、妙に現実的だった。
「……あ、あなた……」
声が掠れる。
「……わたくしの……心を……?」
「読んでへん、読んでへん」
ステラは、ひらひらと手を振った。
「顔に書いてあっただけや」
飴を持ったまま、少しだけ身を乗り出す。
「なあ。あんた」
クレアは、逃げたかった。
だが、足が動かない。
「人が落ちたあとでな」
声は穏やかなまま。
「いっちゃん怖いんは、誰が突き落としたかやない」
クレアの呼吸が浅くなる。
「――誰が、最初に“事故”って決めたかや」
その一言で、クレアの心臓が凍りついた。
ステラは、飴を一つ、机の上に置いた。
「まあ、ええわ」
あっさりと言う。
「今はな」
クレアは、恐る恐るステラを見る。
その顔には、怒りも復讐心もなかった。
あるのは、余裕だ。
「今は、まだ」
ステラは、くいっと肩を回す。
「うち、目ぇ覚めたばっかりやしな」
にっと笑う。
「……せやから」
飴を指で転がしながら、最後にこう言った。
「今日は、これで勘弁しといたる」
その瞬間、クレアははっきりと理解した。
――この女は、気づいている。
――そして、まだ言っていないだけだ。
恐怖で喉が詰まり、言葉が出ない。
クレアは、耐えきれず、深く頭を下げた。
「……し、失礼いたします……!」
そう言って、ほとんど逃げるように療養室を出ていった。
扉が閉まる。
しん、と静寂が戻る。
ステラは、ベッドに腰を下ろし、ふうと息を吐いた。
「……やれやれや」
頭の中の声が、笑った。
――初日から飛ばしすぎや。
「せやな」
ステラは、掌に残った飴を見つめる。
「でもまあ」
ころり、と口に放り込む。
「うるさい方が、性に合っとるわ」
甘さが、舌に広がった。
それは、これから始まる騒がしい人生の――
最初の味だった。
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