9 / 30
第9話 修道院に、異物が混ざる
しおりを挟む
第9話 修道院に、異物が混ざる
修道院の朝は、驚くほど早い。
鐘が鳴る前から、空気が動き出す。風が回廊を抜け、石壁に溜まった冷気を攫っていく。ステラ・ダンクルはその音で目を覚ました。
「……朝かいな」
寝台の上で身を起こし、窓の外を見る。山の稜線が薄く白み始めている。王都では考えられないほど、静かで、素朴な朝だ。
――静かすぎるんが問題やけどな。
「せやな」
小さく返事をして、ステラは身体を伸ばす。昨日感じた痛みは、かなり引いていた。むしろ、妙に身体が軽い。
視線を落とすと、机の上に置いた鉄皿が目に入る。昨夜、飴が淡く光ったあの皿だ。
「……夢やなかったんやな」
そっと指先で触れると、ほんのりとした温もりが残っている。
――聖女の奇跡言うたら、普通は癒やしとか光とかやろ。
――なんで“加熱”やねん。
「知らんがな」
ステラは鼻で笑った。
「うちが欲しかったんやから、しゃあないやろ」
そのまま、懐を探る。いつもの感触。飴玉が、確かにある。
コンコン、と控えめなノック。
「ステラ様、朝のお祈りのお時間です」
若い修道女の声だ。昨日、飴を渡したあの子や。
「はいはい、今行くで」
身支度を整え、廊下へ出る。修道院の朝は規則正しく、誰もが決められた動きしかしない。だが、その整然とした列の中で、ステラだけが少し浮いていた。
歩き方が違う。視線が違う。何より、表情が違う。
「……ステラ様」
修道女が小声で呼びかけてきた。
「なに?」
「あの……昨日の……」
「飴?」
修道女はこくんと頷く。
「美味しかったです」
「そらよかった」
ステラは何でもないことのように言い、祈祷室へ入った。
祈りが始まる。神への感謝、赦し、従順。何度も聞いた文句だ。
ステラは目を閉じるが、心は別のところにあった。
――この修道院、飯は誰が作っとるんや?
視線を薄く開けると、修道女たちの手は荒れている者が多い。料理、洗濯、掃除。すべて人力だ。
――粉も、油も、ありそうやな。
祈りが終わり、食堂へ移動する。
朝食は薄い粥と黒パン。味気ないが、空腹は満たせる。
「……」
ステラは黙って一口食べ、しばし考え込んだあと、立ち上がった。
「なあ」
院長に声をかける。
「はい、ステラ様?」
「台所、使ってええ?」
一瞬、食堂の空気が止まる。
「……理由を、お聞きしても?」
「腹減っとる人が多そうやから」
正直な答えだった。
院長はじっとステラを見つめる。測るような視線。危険人物か、それとも単なる変わり者か。
「修道院の規律に反することは、許されません」
「火ぃ使わんでもええで」
ステラは即座に返した。
「ちょっと温めるだけや」
その言葉に、院長の眉が僅かに動く。
「……何を?」
「鉄の皿」
「……?」
説明するだけ無駄やな、とステラは悟った。
「とりあえず、見てから決めて。あかんかったら、すぐやめるさかい」
院長は長い沈黙の末、ため息をついた。
「……一刻だけです」
「おおきに!」
その返事の勢いに、修道女たちがざわついた。
台所は、石造りの古い部屋だった。かまどはあるが、朝の仕事はすでに終わっている。
ステラは鉄皿を台の上に置き、懐から飴を一つ取り出した。
「さて……」
皿の中央に、そっと置く。
指先が、また淡く光る。
「……え?」
見ていた修道女たちが、息を呑む。
鉄皿が、じんわりと赤みを帯びた。
「ほら」
ステラは肩をすくめた。
「ちょっと、あったまるやろ」
「……聖女の奇跡……?」
誰かが呟いた。
「ちゃうちゃう」
ステラは即座に否定する。
「奇跡言うほどやない。便利なだけや」
その言葉が、逆に異様だった。
普通なら、奇跡を誇り、神を讃える。だがステラは、まるで新しい鍋を試すかのような態度だ。
「油、ある?」
戸惑いながらも、修道女が差し出す。
「粉は?」
「ありますが……」
「よし」
ステラの目が、きらりと光った。
――ほらな。
――揃っとる。
その日、修道院の台所に、今までになかった匂いが立ち込めた。
焦げる寸前の小麦粉の香り。油の弾く音。
修道女たちは、呆然とそれを見ていた。
「……これ、なんですか?」
「粉焼きや」
「……」
「失敗したらお粥に戻すさかい、安心し」
出来上がったそれは、形も不格好だった。だが、湯気は確かに“温かさ”を伝えていた。
一口、修道女が恐る恐る食べる。
「……美味しい……」
その声が、広がる。
院長は遠巻きに見ながら、静かに呟いた。
「……この修道院に、異物が入りましたね」
ステラは、にっと笑った。
「せやで」
飴を一つ、院長の前に置く。
「これから、ちょっとだけ騒がしなるわ」
修道院の静寂に、
確かに“異物”が混ざり始めていた。
修道院の朝は、驚くほど早い。
鐘が鳴る前から、空気が動き出す。風が回廊を抜け、石壁に溜まった冷気を攫っていく。ステラ・ダンクルはその音で目を覚ました。
「……朝かいな」
寝台の上で身を起こし、窓の外を見る。山の稜線が薄く白み始めている。王都では考えられないほど、静かで、素朴な朝だ。
――静かすぎるんが問題やけどな。
「せやな」
小さく返事をして、ステラは身体を伸ばす。昨日感じた痛みは、かなり引いていた。むしろ、妙に身体が軽い。
視線を落とすと、机の上に置いた鉄皿が目に入る。昨夜、飴が淡く光ったあの皿だ。
「……夢やなかったんやな」
そっと指先で触れると、ほんのりとした温もりが残っている。
――聖女の奇跡言うたら、普通は癒やしとか光とかやろ。
――なんで“加熱”やねん。
「知らんがな」
ステラは鼻で笑った。
「うちが欲しかったんやから、しゃあないやろ」
そのまま、懐を探る。いつもの感触。飴玉が、確かにある。
コンコン、と控えめなノック。
「ステラ様、朝のお祈りのお時間です」
若い修道女の声だ。昨日、飴を渡したあの子や。
「はいはい、今行くで」
身支度を整え、廊下へ出る。修道院の朝は規則正しく、誰もが決められた動きしかしない。だが、その整然とした列の中で、ステラだけが少し浮いていた。
歩き方が違う。視線が違う。何より、表情が違う。
「……ステラ様」
修道女が小声で呼びかけてきた。
「なに?」
「あの……昨日の……」
「飴?」
修道女はこくんと頷く。
「美味しかったです」
「そらよかった」
ステラは何でもないことのように言い、祈祷室へ入った。
祈りが始まる。神への感謝、赦し、従順。何度も聞いた文句だ。
ステラは目を閉じるが、心は別のところにあった。
――この修道院、飯は誰が作っとるんや?
視線を薄く開けると、修道女たちの手は荒れている者が多い。料理、洗濯、掃除。すべて人力だ。
――粉も、油も、ありそうやな。
祈りが終わり、食堂へ移動する。
朝食は薄い粥と黒パン。味気ないが、空腹は満たせる。
「……」
ステラは黙って一口食べ、しばし考え込んだあと、立ち上がった。
「なあ」
院長に声をかける。
「はい、ステラ様?」
「台所、使ってええ?」
一瞬、食堂の空気が止まる。
「……理由を、お聞きしても?」
「腹減っとる人が多そうやから」
正直な答えだった。
院長はじっとステラを見つめる。測るような視線。危険人物か、それとも単なる変わり者か。
「修道院の規律に反することは、許されません」
「火ぃ使わんでもええで」
ステラは即座に返した。
「ちょっと温めるだけや」
その言葉に、院長の眉が僅かに動く。
「……何を?」
「鉄の皿」
「……?」
説明するだけ無駄やな、とステラは悟った。
「とりあえず、見てから決めて。あかんかったら、すぐやめるさかい」
院長は長い沈黙の末、ため息をついた。
「……一刻だけです」
「おおきに!」
その返事の勢いに、修道女たちがざわついた。
台所は、石造りの古い部屋だった。かまどはあるが、朝の仕事はすでに終わっている。
ステラは鉄皿を台の上に置き、懐から飴を一つ取り出した。
「さて……」
皿の中央に、そっと置く。
指先が、また淡く光る。
「……え?」
見ていた修道女たちが、息を呑む。
鉄皿が、じんわりと赤みを帯びた。
「ほら」
ステラは肩をすくめた。
「ちょっと、あったまるやろ」
「……聖女の奇跡……?」
誰かが呟いた。
「ちゃうちゃう」
ステラは即座に否定する。
「奇跡言うほどやない。便利なだけや」
その言葉が、逆に異様だった。
普通なら、奇跡を誇り、神を讃える。だがステラは、まるで新しい鍋を試すかのような態度だ。
「油、ある?」
戸惑いながらも、修道女が差し出す。
「粉は?」
「ありますが……」
「よし」
ステラの目が、きらりと光った。
――ほらな。
――揃っとる。
その日、修道院の台所に、今までになかった匂いが立ち込めた。
焦げる寸前の小麦粉の香り。油の弾く音。
修道女たちは、呆然とそれを見ていた。
「……これ、なんですか?」
「粉焼きや」
「……」
「失敗したらお粥に戻すさかい、安心し」
出来上がったそれは、形も不格好だった。だが、湯気は確かに“温かさ”を伝えていた。
一口、修道女が恐る恐る食べる。
「……美味しい……」
その声が、広がる。
院長は遠巻きに見ながら、静かに呟いた。
「……この修道院に、異物が入りましたね」
ステラは、にっと笑った。
「せやで」
飴を一つ、院長の前に置く。
「これから、ちょっとだけ騒がしなるわ」
修道院の静寂に、
確かに“異物”が混ざり始めていた。
1
あなたにおすすめの小説
「身分が違う」って言ったのはそっちでしょ?今さら泣いても遅いです
ほーみ
恋愛
「お前のような平民と、未来を共にできるわけがない」
その言葉を最後に、彼は私を冷たく突き放した。
──王都の学園で、私は彼と出会った。
彼の名はレオン・ハイゼル。王国の名門貴族家の嫡男であり、次期宰相候補とまで呼ばれる才子。
貧しい出自ながら奨学生として入学した私・リリアは、最初こそ彼に軽んじられていた。けれど成績で彼を追い抜き、共に課題をこなすうちに、いつしか惹かれ合うようになったのだ。
【完結】え?今になって婚約破棄ですか?私は構いませんが大丈夫ですか?
ゆうぎり
恋愛
カリンは幼少期からの婚約者オリバーに学園で婚約破棄されました。
卒業3か月前の事です。
卒業後すぐの結婚予定で、既に招待状も出し終わり済みです。
もちろんその場で受け入れましたよ。一向に構いません。
カリンはずっと婚約解消を願っていましたから。
でも大丈夫ですか?
婚約破棄したのなら既に他人。迷惑だけはかけないで下さいね。
※ゆるゆる設定です
※軽い感じで読み流して下さい
花嫁に「君を愛することはできない」と伝えた結果
藍田ひびき
恋愛
「アンジェリカ、君を愛することはできない」
結婚式の後、侯爵家の騎士のレナード・フォーブズは妻へそう告げた。彼は主君の娘、キャロライン・リンスコット侯爵令嬢を愛していたのだ。
アンジェリカの言葉には耳を貸さず、キャロラインへの『真実の愛』を貫こうとするレナードだったが――。
※ 他サイトにも投稿しています。
久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った
五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」
8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい
よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。
王子の答えはこうだった。
「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」
え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?!
思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。
ショックを受けたリリアーナは……。
婚約破棄ありがとう!と笑ったら、元婚約者が泣きながら復縁を迫ってきました
ほーみ
恋愛
「――婚約を破棄する!」
大広間に響いたその宣告は、きっと誰もが予想していたことだったのだろう。
けれど、当事者である私――エリス・ローレンツの胸の内には、不思議なほどの安堵しかなかった。
王太子殿下であるレオンハルト様に、婚約を破棄される。
婚約者として彼に尽くした八年間の努力は、彼のたった一言で終わった。
だが、私の唇からこぼれたのは悲鳴でも涙でもなく――。
【片思いの5年間】婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。
五月ふう
恋愛
「君を愛するつもりも婚約者として扱うつもりもないーー。」
婚約者であるアレックス王子が婚約初日に私にいった言葉だ。
愛されず、婚約者として扱われない。つまり自由ってことですかーー?
それって最高じゃないですか。
ずっとそう思っていた私が、王子様に溺愛されるまでの物語。
この作品は
「婚約破棄した元婚約者の王子様は愛人を囲っていました。しかもその人は王子様がずっと愛していた幼馴染でした。」のスピンオフ作品となっています。
どちらの作品から読んでも楽しめるようになっています。気になる方は是非上記の作品も手にとってみてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる