婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第三話 静かな退場の余波

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第三話 静かな退場の余波

翌朝、エレノアはいつも通りの時刻に目を覚ました。

重たい天蓋付きの寝台の上で、しばし天井を見つめる。昨夜の出来事が悪い夢だったのならどれほど楽だっただろうと思わなくもなかったが、目を閉じてもう一度眠ったところで、現実が変わることはない。

王太子アルヴィスは大広間の中央で婚約破棄を宣言した。

義妹ミレイユはその隣で涙を流し、可哀想な被害者を演じた。

父は家の体面を優先し、継母は娘を守り、誰ひとりとしてエレノアの名誉を気遣わなかった。

そこまで思い返しても、胸の奥は妙に静かだった。

傷ついていないわけではない。悔しさがないわけでもない。だが、それ以上に、長く続いたものがようやく終わったのだという感覚のほうが強かった。

「お嬢様、朝でございます」

控えめなノックのあと、侍女が入室する。

「おはよう」

「昨夜はよくお休みになれましたか」

「ええ。思っていたよりは」

侍女はほっとしたように微笑んだが、それ以上は踏み込まなかった。その慎ましさが今のエレノアにはありがたかった。

身支度を整えながら、窓の外を見る。朝の庭はまだ薄く白んだばかりで、噴水の水がきらきらと光を返していた。世界は何も変わっていないように見えるのに、今日から自分の立場だけが大きく変わっている。

鏡台の前に座ると、侍女が髪を梳かしながら、少し言いにくそうに口を開いた。

「……今朝は、朝食のお席に皆様おそろいになるそうです」

エレノアは鏡越しに侍女を見た。

「珍しいこともあるものね」

「その……昨夜の件もございますので」

「ええ、分かっているわ」

つまり、家族会議が待っているのだろう。

侯爵家として今後どう振る舞うか。王宮にどう返答するか。ミレイユをどう押し出すか。そして、おそらくはエレノアにどう黙らせるか。

何を言われるかは、だいたい想像がついていた。

むしろ、どんな顔をしてくるのかを見るほうが興味深い。

「今日は、濃い色のドレスではなく、落ち着いたものを」

「かしこまりました」

選ばれたのは、青みの少ない灰銀色のドレスだった。地味というほどではないが、華やかさを抑えた朝向けの装いだ。婚約破棄の翌朝に、妙に明るい色を着るほど神経が太いと思われるつもりもない。かといって、憔悴しきった娘を演じるつもりもなかった。

食堂へ向かう廊下は、いつもより静かだった。

すれ違う使用人たちは皆、きっちりと頭を下げるものの、その視線の奥に戸惑いと緊張を隠しきれていない。昨夜の一件は、当然この屋敷の隅々まで知れ渡っているのだろう。

エレノアが姿を現すと、小さな囁きがふっと止む気配がした。

だが彼女は何も気に留めないふうに、そのまま歩いた。

扉の前に立つと、中からすでに話し声が聞こえてきた。

父の低い声。

継母の甲高い声。

そして、時折差し挟まれるミレイユの控えめで、けれどよく通る声。

案の定だった。

扉が開かれると、食卓に着いていた三人の視線が一斉に向く。

「おはようございます」

エレノアは何事もなかったかのように一礼した。

侯爵はわずかに眉をひそめる。

ヴィオラは露骨に不満そうな顔をした。

ミレイユだけが、いかにも気まずそうに瞳を伏せる。

「……座りなさい」

父に促され、エレノアは自分の席に着いた。

だが朝食の皿に手がつけられることはなかった。侯爵は最初から食事どころではないと決めていたらしい。

「王宮から、早朝のうちに使者が来た」

そう切り出され、エレノアは静かに目を上げる。

「昨夜の件について、正式な通達は後日出すとのことだ。だが現時点では、殿下のご意思に変更はない」

「そうですか」

「それだけ?」

ヴィオラが思わずといったふうに口を挟んだ。

「あなた、本当に何とも思わないの? 婚約を破棄されたのよ?」

何とも思わないわけがないだろうに、とエレノアは内心で呆れた。

昨夜は泣かないことを責められ、今朝は平然としていることを責められるらしい。人は他人に対して、ずいぶん都合よく感情の形を指定するものだ。

「思っておりますわ」

エレノアは落ち着いて答えた。

「ただ、すでに決まったことに取り乱しても意味がございませんので」

「そういうところが……」

ヴィオラは言いかけて、父の顔色をうかがい、口をつぐんだ。

侯爵は咳払いひとつして話を戻す。

「問題はここからだ。昨夜の件は王都中に広まっている。家としても、慎重に立ち回らねばならん」

「ええ」

「まず、お前はしばらく外出を控えろ」

やはり来た、と思った。

「社交も茶会もだ。当面は必要最低限に留める」

「理由を伺っても?」

侯爵はわずかに苛立ったようだった。

「今の状況で表に出れば、余計な憶測を呼ぶ」

「すでに十分な憶測は飛び交っているかと存じますが」

「だからこそだ」

「私が黙って引きこもれば、事実上、殿下とミレイユの言い分を認めたことになりませんか」

その言葉に、ヴィオラがはっとした顔をする。

侯爵も一瞬黙った。

だがミレイユがすかさず口を開いた。

「お姉様、そんな……認めるとか認めないとか、そういうことでは……。皆が落ち着くまで、少しだけお休みになるのもよろしいのではありませんか? お姉様もお疲れでしょうし……」

なんて優しい妹なのだろう、という調子だった。

エレノアは義妹を見た。

昨夜の涙はどこへやら、今朝のミレイユは淡いクリーム色のドレスを着て、頬色もよく、体調の悪さなどひとかけらも感じさせなかった。むしろ、目の奥には昨夜よりも輝きがある。大仕事をやり遂げた者の満足感とでもいうような。

「お気遣いありがとう」

エレノアは言った。

「けれど、私は休養を必要とするほど弱ってはおりません」

ミレイユの笑みがわずかに固まる。

侯爵は指で卓をとんとんと叩き、声を低くした。

「エレノア。お前にはまだ事態の深刻さが分かっていないようだな」

「深刻さ、ですか」

「王太子殿下が次に誰を選ぶかは、侯爵家の未来に関わる。今、余計な波風を立てるのは賢明ではない」

その言葉は、ほとんど答えを言っているようなものだった。

つまり父は、すでにミレイユを新たな王太子妃候補として押し出す方向に心を決めつつあるのだ。昨夜は驚きと混乱もあっただろうが、一晩眠った今、彼の頭の中では“どうすれば侯爵家にとって最も得か”という計算が整い始めている。

実の娘の名誉より、家の利。

やはり変わらない。

「お父様は、私よりも侯爵家の立場をお考えなのですね」

「当たり前だ。私は当主だぞ」

「ええ。よく分かりました」

エレノアの言い方が癇に障ったのか、侯爵の顔が険しくなる。

だが彼が何か言う前に、食堂の扉が叩かれた。

一同の視線が向く。

執事が入室し、恭しく頭を下げた。

「旦那様、お食事中に失礼いたします」

「何だ」

「クラウゼン公爵家から使いの者が参っております」

その場の空気が止まった。

クラウゼン公爵家。

その名を聞いただけで、ヴィオラの顔色が変わる。侯爵も目を見開いた。ミレイユに至っては、明らかにぎくりと肩を震わせた。

無理もない。

クラウゼン公爵家は王国でも有数の大貴族であり、しかも現当主レオンハルトは若くして辣腕と名高い。社交界では冷徹だの情け容赦がないだのと囁かれているが、同時に、誰もがその実力を認めている人物でもあった。

そんな家から、なぜ今、このタイミングで使者が来るのか。

答えは、ひとつしか思いつかなかった。

「……何の用件だ」

侯爵が慎重に尋ねる。

執事は一瞬だけエレノアへ視線を向け、それから答えた。

「エレノアお嬢様宛に、お手紙をお届けに来られたとのことです」

食堂の空気が、今度こそ完全に固まった。

ヴィオラが最初に反応した。

「え、エレノアに?」

「はい」

「どうしてエレノアに、クラウゼン公爵家から……?」

その問いに答えられる者はいない。

エレノア自身でさえ、はっきりとは分からなかった。

昨夜、レオンハルトとは確かに短い言葉を交わした。だが、それだけだ。個人的な付き合いがあったわけではない。社交の場で顔を合わせたことはあっても、深く話した記憶などほとんどなかった。

にもかかわらず、公爵家から自分宛ての手紙。

侯爵は険しい顔のまま言う。

「……通せ」

執事が一礼して下がる。

しばらくして、黒を基調とした上質な礼装に身を包んだ若い使者が入ってきた。無駄のない所作、揺るがぬ背筋、感情を表に出さない顔つき。その姿だけで、ああ確かにクラウゼン家の者だと分かる。

使者は食堂の中央まで進み、侯爵ではなく、まっすぐエレノアの前に立った。

「フェルベルク侯爵令嬢エレノア様に、我が主よりお預かりした書簡をお届けいたします」

銀の盆に載せられた封書が差し出される。

分厚い上質紙に、黒い封蝋。そこにはクラウゼン公爵家の紋章がはっきりと刻まれていた。

エレノアはそれを受け取った。

「確かに」

使者は深く一礼する。

「主は、返答を急がれるものではないと申しております。お目通しいただければ、それでよいと」

それだけ言い残し、彼は無駄なく退出した。

扉が閉まったあとも、食堂の誰一人としてすぐには言葉を発せなかった。

最初に沈黙を破ったのは、ミレイユだった。

「……お姉様、クラウゼン公爵様と親しかったの?」

声は柔らかい。

けれど、その奥にあるのは明らかな動揺と探りだった。

「親しいというほどではありません」

「では、どうして……」

「私にも分かりませんわ」

実際、それは本音だった。

侯爵は口元を引き結び、厳しい声で言う。

「中を確認しなさい」

命令口調だった。

エレノアは少しだけ考え、それから封を切る。

中には短い便箋が一枚。

余計な飾り気のない筆跡で、簡潔な文章が記されていた。

――昨夜の件、お見事でした。

――あなたにお伝えしたいことがあります。

――本日午後、もし差し支えなければ、王立図書館の第二閲覧室へ。

――無理にとは申しません。

――レオンハルト・クラウゼン

読み終えたあと、エレノアはしばし紙面を見つめた。

お見事でした。

昨夜も言われた言葉だった。

皮肉でもなく、慰めでもない。あの男は本当に、自分の振る舞いを“見事”だと思ったのだろう。

侯爵が苛立ったように問う。

「何と書いてある」

エレノアは顔を上げた。

「本日午後、王立図書館でお話ししたいことがあると」

「何だと?」

ヴィオラが青ざめる。

「図書館って……二人きりで?」

「場所が閲覧室である以上、少なくとも大声で騒ぐような場ではないでしょうね」

「そういう問題ではありません!」

ヴィオラは声を上ずらせた。

「婚約破棄の翌日に、別の公爵様と密会だなんて、そんなふうに見られたらどうするの!」

“密会”。

実に安っぽい言い方だった。

だが侯爵も同じ懸念を抱いたのか、難しい顔で黙り込む。

エレノアは便箋を丁寧に畳みながら考えた。

たしかに外聞だけを考えれば慎重になるべきだろう。だが、今さら何を恐れるというのか。王太子に舞踏会で捨てられ、その義妹が隣に立っていたという派手すぎる醜聞のあとだ。今さら図書館で誰かと話したところで、それ以上に悪く見えることなどそうない。

それに――正直、興味があった。

レオンハルト・クラウゼンが何を知っていて、何を伝えようとしているのか。

あの男は昨夜の時点で、まるで何かを見通しているかのようだった。

「私は伺おうと思います」

エレノアがそう言うと、三人が同時に反応した。

「駄目だ」

侯爵が即座に切り捨てる。

ヴィオラも「そうよ」と頷いた。

ミレイユだけが口元を押さえ、心配そうな顔を作る。

「お姉様……今は、殿下を刺激しないほうが……」

そこに本音が透けて見えた気がした。

自分がアルヴィスの隣に立てるかもしれない今、エレノアがより格上の公爵に接触することは面白くないのだろう。姉が惨めに沈んでいてくれたほうが都合がいい。少なくとも、輝く舞台の外で静かに膝を抱えていてほしいのだ。

「これは刺激の問題ではありません」

エレノアは淡々と言った。

「クラウゼン公爵家から、正式に私宛の書簡が届いています。無視するほうが失礼に当たります」

侯爵が眉をひそめる。

その理屈は理解できるのだろう。クラウゼン家ほどの大貴族を無下に扱えば、侯爵家にとっても面倒なことになる。

「だが……」

「御用向きが分からない以上、なおさら一度お目にかかるべきではありませんか。家に関わることかもしれません」

それは半分は方便で、半分は本音だった。

侯爵はしばらく唸るように黙っていたが、やがて渋々といった様子で言った。

「……侍女を伴え。長居はするな。余計なことも話すな」

「かしこまりました」

承諾を得た瞬間、ミレイユの顔がわずかにこわばった。

すぐに気づいたエレノアは、心の中で静かに笑う。

奪ったはずの舞台の上で、もう不安になっているのかしら。

朝食は結局、ほとんど味を感じなかった。

だがそれは緊張のせいではない。むしろ思考が別のところに向いていたからだ。

レオンハルト・クラウゼン。

昨夜の短い言葉。

そして今朝の手紙。

あの男はいったい何を見ていたのか。

食事を終え、自室へ戻ったエレノアは、机の上に手紙を置いてもう一度読み返した。

短い文面の中に無駄はひとつもない。

社交辞令の長ったらしい飾りもなく、慰めがましい文句もない。ただ必要なことだけが書かれている。

らしい、といえば実にらしかった。

窓辺に立つと、庭の木々が春の風に揺れている。

昨夜までなら、自分は今日も王太子の婚約者としての予定に追われていただろう。どこかの令嬢への返書、王宮からの呼び出し、社交の根回し、失言の後始末。

それが今はない。

ぽっかりと時間が空いている。

おかしなものだ。大きなものを失ったはずなのに、息は以前より吸いやすい。

「お嬢様」

侍女が控えめに声をかける。

「午後のご外出のご用意をいたしましょうか」

「ええ、お願い」

エレノアは振り返った。

「目立たない装いで構わないわ。図書館ですもの」

「承知いたしました」

侍女が出ていったあと、エレノアはふたたび手紙を手に取る。

お伝えしたいことがあります。

その一文が、なぜか妙に心に残った。

慰めでも同情でもなく、伝えたいこと。

それはきっと、昨夜の断罪劇の続きに関わるのだろう。

エレノアは便箋を封筒へ戻し、引き出しにしまった。

胸の奥にあるのは不安ではなく、静かな予感だった。

昨夜、自分は確かに舞台から退場した。

だがそれは、終幕ではない。

あの広間から静かに去ったあとの余波が、もう別の形で動き始めている。

そしてその波の先にいるのが、冷徹公爵レオンハルト・クラウゼンだというのなら――

少なくとも、退屈な展開にはならないだろう。

エレノアは窓の外の空を見上げた。

薄青い春の空は、思いのほか高く、明るかった。
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