婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第四話 終わったはずの役目

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第四話 終わったはずの役目

午後の王立図書館は、驚くほど静かだった。

王都の中心部にあるその建物は、王家の威信を示すように壮麗でありながら、内部に一歩入れば、外の喧騒が嘘のように遠のく。高い天井まで届く本棚、磨かれた床、紙と革表紙と古い木の混ざった匂い。エレノアは幼い頃からこの場所を好んでいた。

言葉が慎重に積み重ねられ、感情よりも記録が優先される場所。

少なくとも、舞踏会のように誰かの涙や芝居が真実を押し流す場所ではない。

付き添いの侍女を閲覧室の外で待たせ、エレノアは第二閲覧室の扉を開けた。

部屋の中には、すでに一人の男がいた。

窓際の席に腰かけ、閉じた本の上に片手を置いている。濃紺の外套を脱ぎ、簡素ながら質のよい装いに身を包んだその姿は、王宮の華やかな場にいるときよりもむしろ、この静謐な空間によく馴染んでいた。

レオンハルト・クラウゼン公爵。

彼は扉の音に顔を上げ、静かに立ち上がった。

「来てくださったのですね」

「書簡をいただきましたので」

エレノアがそう返すと、彼はかすかに口元を緩めた。

昨夜も思ったが、この人は冷徹と噂されるわりに、必要なときにはきちんと礼を尽くす。愛想よく振る舞うことはなくても、無礼でもない。ただ余計なものが削ぎ落とされているだけだ。

「お時間をいただき、感謝します」

「ご用件を伺っても?」

「もちろん」

レオンハルトは向かいの席を手で示した。

エレノアは礼を返し、その席に腰を下ろす。窓から差し込む光が、磨かれた卓上を淡く照らしていた。ほんの少し沈黙が落ちる。

先に口を開いたのは、レオンハルトだった。

「まず、昨夜の件について」

エレノアは視線をまっすぐ彼へ向ける。

「あなたは見事に立ち回られた」

また、その言葉だった。

お見事でした。

見事に立ち回った。

あの場で自分をそう評する者がいるとは、今でも少し不思議だった。

「……大多数の方は、そうは思わなかったでしょうね」

「大多数は、見たいものしか見ません」

レオンハルトの返答は即答だった。

「涙を流す令嬢と、取り乱さぬ婚約者。多くの者は、それだけで善悪を決める。考える手間が省けますから」

淡々とした口調なのに、妙に容赦がない。

エレノアは思わず少しだけ目を細めた。

「辛辣ですのね」

「事実です」

レオンハルトはそう言ってから、ほんのわずかに首を傾けた。

「お気に障りましたか」

「いいえ。むしろ、その通りだと思いました」

すると彼は、ごく小さく息を吐いた。安堵なのか、それとも単に話を進めやすいと思っただけなのかは分からない。

「昨夜、私はあなたが言い訳をなさらなかったことに感心しました」

「感心、ですか」

「ええ。あの場で弁明しても、意味はなかった。相手はすでに“劇”を完成させていたからです。王太子殿下は正義の側に立つ男を演じ、義妹殿は虐げられた可憐な娘を演じていた。そこへ理屈を差し込んでも、観客は受け取りません」

あまりにも的確だった。

エレノア自身、昨夜のあの瞬間に、言葉を尽くすことが無意味だと理解していた。だがそれをここまで正確に言い当てられると、少しだけ気味が悪いほどだった。

「まるで、その場に立っていたかのようにおっしゃるのね」

「立っていました」

「……そうでしたわね」

その返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。

レオンハルトはわずかに間を置いて続ける。

「それでもなお、あなたはただ引き下がったわけではない。“承知いたしました”とおっしゃった」

エレノアは沈黙した。

あの一言に、自分の中でどれほど多くの意味を込めていたのか、誰にも分からないと思っていた。

だがレオンハルトは言う。

「あれは服従ではなく、切り捨てる言葉だった」

胸の奥で、何かがかすかに揺れた。

自分の意図を、あの場で正しく受け取った者がいた。

それだけのことなのに、思った以上に心へ響く。

「……よくご覧になっていたのですね」

「私の仕事柄、人の顔色と空気は見ます」

「公爵家当主のお仕事は、随分と繊細なのですね」

「必要なときだけです」

そこで初めて、エレノアは少しだけ笑った。

ほんの一瞬だったが、レオンハルトはその変化を見逃さなかったらしい。彼の視線が柔らかくなった気がした。

だが次の言葉で、空気は再び引き締まる。

「本題に入りましょう」

エレノアも表情を戻した。

「お願いします」

レオンハルトは机の上に一枚の紙を置いた。王宮の紋章が入ったものではない。だが、丁寧にまとめられた記録らしい書面だった。

「これは、ここ半年ほどの王太子殿下周辺の動きです」

「……どういう意味でしょう」

「そのままの意味です。私は殿下の政務そのものには関わっていませんが、いくつかの取引や会合で、あまりに不自然な流れを見ていました。予定が急に変更される。根回し済みの相手が突然不機嫌になる。軽率な発言があったはずなのに、なぜか問題が表に出る前に収まる」

エレノアはその紙を見る。

日付、会合名、相手家名、ごく簡潔な記録。

見ればすぐに分かった。

そこに並ぶ“収まった問題”の多くが、自分の手で処理したものだったからだ。

社交界での失言を、その相手が重く受け取らぬよう別の名目で借りを返したこと。

勝手に増やした予算要求を、別の帳簿で辻褄を合わせて一時的に沈静化させたこと。

気まぐれにした約束が外交上の火種になる前に、別の伝手を使って先回りしたこと。

思い返すだけで胃が重くなる。

「……随分とお調べになったのですね」

「違和感があったので」

レオンハルトはエレノアを見た。

「そして昨夜、ようやく確信しました。殿下の周囲で起きる“不自然なほど穏便な収束”は、あなたの仕事だったのですね」

エレノアは否定しなかった。

今さら隠したところで意味はない。

「殿下はご存じないでしょう」

「ええ」

「侯爵も?」

「おそらく、細部までは」

レオンハルトは頷いた。

「でしょうね。知っていれば、あんな捨て方はしない」

その一言は辛辣で、同時に冷静でもあった。

知っていればしない。

つまり、知らないからしたのだ。

自分が何を支え、何を塞ぎ、何を消してきたのかを理解しないまま、王太子は“冷たい婚約者”を手放したつもりでいる。

「私は昨夜、それを確かめたくてあなたに声をかけました」

「確かめるために?」

「あなたが本当に“ただ切り捨てられた令嬢”なのか。それとも、切り捨てた側があとで代償を払うのか」

ずいぶんとはっきりした言い方だ、とエレノアは思った。

けれど不快ではなかった。

慰めるふりをして哀れみを押しつけられるより、ずっといい。

「答えは出ましたか」

レオンハルトは少しも迷わなかった。

「ええ。後者です」

静かな断言だった。

不思議と、胸が少し軽くなる。

自分がこれまでしてきたことは、誰にも見られていないと思っていた。見えていたとしても、“当然のこと”として消費されるだけだと。

だが目の前の男は、それをちゃんと計算に入れている。

そして、切り捨てた側が代償を払うと見ている。

「だから、今日はひとつお伝えしたかったのです」

「何を、でしょう」

「あなたは、もう王太子殿下の尻拭いをなさらなくていい」

エレノアは、その言葉に息を止めた。

まるで胸の奥に触れられたようだった。

尻拭い。

あまりに直接的で、あまりに正確な言葉。

未来の王妃としての務めだと。

婚約者として当然だと。

家のためだと。

そう言い聞かせてきた数年が、その一言で容赦なく剥がされる。

結局、自分がしてきたことの多くは、それだったのだ。

誰かの失態を見えなくすること。

誰かの無責任をなかったことにすること。

誰かが称賛されるための土台だけを整え、自分はそこに名も残らないこと。

エレノアはゆっくりと指先を重ねた。

「……昨夜から、似たようなことを何度も考えていました」

「なら、口にした価値はあった」

「少し、乱暴ですけれど」

「飾る必要はないでしょう」

ええ、その通りだ。

この人の言葉は優しくはない。だが、妙な慰めや綺麗ごとよりもずっと信頼できる。

「それで」

エレノアは気持ちを整えて尋ねた。

「公爵様は、なぜそこまで気にかけてくださるのですか」

その問いに、レオンハルトはすぐには答えなかった。

彼ほどの立場の人間が、婚約破棄された侯爵令嬢にここまで言葉を費やす理由は、普通に考えれば薄い。興味本位ではなさそうだが、では何なのか。

しばしの沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。

「以前から、気づいていたからです」

「以前から?」

「王宮の夜会や会合で、殿下が不用意な発言をしたあと、必ず空気が整えられていた。誰がやっているのか、最初は分からなかった。だが見ていれば分かる。皆が気づかぬうちに、あなたが場を調整していた」

エレノアは少し目を見開いた。

そんなところまで見られていたとは思わなかった。

「あなたは自分が前に出ることを望まなかった。だから誰も気づかなかったのでしょう。ですが、私は見ていました」

その言い方は、驚くほど静かだった。

誇張も飾りもない。ただ事実だけを置くような声音。

なのに、なぜだろう。

胸の奥が少しだけ熱を持つ。

「……見られていたのですね、私」

「ええ」

「それは、少し落ち着きませんわ」

「不快でしたか」

「いいえ」

エレノアは正直に答えた。

「むしろ、少しだけ救われる気がいたします」

レオンハルトは何も言わなかった。

だがその沈黙は、気まずいものではなかった。

窓の外で、春の風が木々を鳴らす。閲覧室のどこかで、紙をめくる小さな音がした。

しばらくして、レオンハルトが再び話を切り出す。

「今後のことですが」

「はい」

「おそらく王宮は、しばらく混乱します」

「でしょうね」

「殿下はご自分の周囲が、なぜ急に回らなくなるのか理解できないでしょう。義妹殿もまた、王太子妃候補の座が“選ばれた可愛い娘”でいるだけで務まると思っているなら、すぐに行き詰まる」

それは、エレノアにも容易に想像できた。

王太子妃教育とは、姿勢と笑顔だけを学ぶものではない。相手家の事情、政治的な配慮、発言の重み、誰と誰を同席させてはいけないか、どの寄付がどの派閥に利くか、誰を立てて誰を遠ざけるか――表に出ない調整の積み重ねだ。

ミレイユにそれができるとは思えない。

というより、そもそも興味すらないだろう。

「私はしばらく、何もしないつもりです」

エレノアは自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。

「助けを求められても、戻る気はありません」

「それでいい」

レオンハルトの答えは早かった。

「あなたがこれ以上、彼らのために働く義理はない」

まただ。

この人は、どうしてこうも迷いなく、自分の中のためらいを断ち切る言葉をくれるのだろう。

エレノアは視線を伏せた。

「……少し前の私なら、それでも家のためにと考えたかもしれません」

「今は違う?」

「今は、そこまで愚かではいたくないと思っています」

その言葉に、レオンハルトは初めてはっきりと笑った。

声を立てるような笑いではない。だが確かに、楽しげだった。

「それは何よりです」

「笑うところでしたか」

「ええ。ようやくあなたが、ご自分の価値をあなた自身の側へ戻し始めたので」

エレノアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。

褒められているのだろうか。

それとも励まされているのか。

どちらにせよ、気恥ずかしい。

「ところで」

レオンハルトがふと思い出したように言った。

「もし差し支えなければ、ひとつお聞きしたい」

「何でしょう」

「昨夜、舞踏会を出たあと、泣きましたか」

あまりにも唐突で、エレノアは思わず目を瞬いた。

「……随分と率直ですのね」

「気になったので」

「普通、そこを訊きます?」

「普通ではないので」

あまりに真顔で言うものだから、エレノアはとうとう小さく吹き出した。

図書館でこんなふうに笑うことになるとは思わなかった。

レオンハルトは少し目を細める。

「答えは?」

「泣いておりません」

「そうですか」

「残念でした?」

「いえ。あなたらしい」

その返事に、なぜか笑みが深くなる。

らしい、と言われたのはいつ以来だろう。

完璧だとか、冷たいだとか、理屈っぽいだとか、そういう評価ではなく、“あなたらしい”。

単純な言葉なのに、思った以上に心に残る。

話が終わる頃には、午後の光が少し傾いていた。

レオンハルトは席を立つ。

「お呼び立てして失礼しました」

「こちらこそ。……来てよかったです」

それは社交辞令ではなく、本音だった。

レオンハルトはその本音をきちんと受け取ったらしい。

「また必要があれば、お声をかけます」

「必要があれば、ですか」

「ええ。今度はもう少し、気楽な用件で」

その言葉に、エレノアは少しだけ驚いた。

この人なりの、次につなげる言い方なのだろうか。

不器用なくせに、妙なところで逃がさない。

「そのときは、図書館ではない場所がよろしいかもしれませんね」

「承知しました」

それだけのやり取りなのに、どこかくすぐったい空気が流れた。

閲覧室の外へ出る前に、エレノアは一度だけ振り返る。

レオンハルトは窓辺に立ち、自分を見ていた。

「エレノア嬢」

「はい」

「あなたが昨夜終わらせたのは、婚約だけではありません」

彼は静かに言った。

「他人の失態を背負う役目も、です」

その言葉を胸のどこに置けばいいのか、エレノアにはまだ分からなかった。

けれど確かに、その一言は深く落ちていく。

終わったはずの役目。

いや、終わらせるべきだった役目。

それをようやく手放していいのだと、誰かに明言されたのは初めてだった。

「……ええ」

エレノアは小さく頷いた。

「今度こそ、そういたします」

図書館を出ると、春の風が頬を撫でた。

空は明るく、王都の街路はいつも通り人で賑わっている。

何もかもが普段通りに見えるのに、エレノアの中では確かに何かが変わっていた。

昨日までは、王太子の婚約者として何をすべきかを考えていた。

侯爵家の娘として、どう耐えるべきかを考えていた。

姉として、何を譲るべきかを考えていた。

けれど今は違う。

自分はもう、誰かの不始末を覆い隠すために存在しているのではない。

その当たり前のことが、ようやく骨の髄まで染み始めていた。

終わったはずの役目は、もう振り返らなくていい。

ならば次に考えるべきはただひとつ。

これから、自分はどう生きるのか。

エレノアは馬車へ向かいながら、ふと唇の端を上げた。

それを考えるのは、案外悪くないかもしれない。
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