4 / 35
第四話 終わったはずの役目
しおりを挟む
第四話 終わったはずの役目
午後の王立図書館は、驚くほど静かだった。
王都の中心部にあるその建物は、王家の威信を示すように壮麗でありながら、内部に一歩入れば、外の喧騒が嘘のように遠のく。高い天井まで届く本棚、磨かれた床、紙と革表紙と古い木の混ざった匂い。エレノアは幼い頃からこの場所を好んでいた。
言葉が慎重に積み重ねられ、感情よりも記録が優先される場所。
少なくとも、舞踏会のように誰かの涙や芝居が真実を押し流す場所ではない。
付き添いの侍女を閲覧室の外で待たせ、エレノアは第二閲覧室の扉を開けた。
部屋の中には、すでに一人の男がいた。
窓際の席に腰かけ、閉じた本の上に片手を置いている。濃紺の外套を脱ぎ、簡素ながら質のよい装いに身を包んだその姿は、王宮の華やかな場にいるときよりもむしろ、この静謐な空間によく馴染んでいた。
レオンハルト・クラウゼン公爵。
彼は扉の音に顔を上げ、静かに立ち上がった。
「来てくださったのですね」
「書簡をいただきましたので」
エレノアがそう返すと、彼はかすかに口元を緩めた。
昨夜も思ったが、この人は冷徹と噂されるわりに、必要なときにはきちんと礼を尽くす。愛想よく振る舞うことはなくても、無礼でもない。ただ余計なものが削ぎ落とされているだけだ。
「お時間をいただき、感謝します」
「ご用件を伺っても?」
「もちろん」
レオンハルトは向かいの席を手で示した。
エレノアは礼を返し、その席に腰を下ろす。窓から差し込む光が、磨かれた卓上を淡く照らしていた。ほんの少し沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、レオンハルトだった。
「まず、昨夜の件について」
エレノアは視線をまっすぐ彼へ向ける。
「あなたは見事に立ち回られた」
また、その言葉だった。
お見事でした。
見事に立ち回った。
あの場で自分をそう評する者がいるとは、今でも少し不思議だった。
「……大多数の方は、そうは思わなかったでしょうね」
「大多数は、見たいものしか見ません」
レオンハルトの返答は即答だった。
「涙を流す令嬢と、取り乱さぬ婚約者。多くの者は、それだけで善悪を決める。考える手間が省けますから」
淡々とした口調なのに、妙に容赦がない。
エレノアは思わず少しだけ目を細めた。
「辛辣ですのね」
「事実です」
レオンハルトはそう言ってから、ほんのわずかに首を傾けた。
「お気に障りましたか」
「いいえ。むしろ、その通りだと思いました」
すると彼は、ごく小さく息を吐いた。安堵なのか、それとも単に話を進めやすいと思っただけなのかは分からない。
「昨夜、私はあなたが言い訳をなさらなかったことに感心しました」
「感心、ですか」
「ええ。あの場で弁明しても、意味はなかった。相手はすでに“劇”を完成させていたからです。王太子殿下は正義の側に立つ男を演じ、義妹殿は虐げられた可憐な娘を演じていた。そこへ理屈を差し込んでも、観客は受け取りません」
あまりにも的確だった。
エレノア自身、昨夜のあの瞬間に、言葉を尽くすことが無意味だと理解していた。だがそれをここまで正確に言い当てられると、少しだけ気味が悪いほどだった。
「まるで、その場に立っていたかのようにおっしゃるのね」
「立っていました」
「……そうでしたわね」
その返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
レオンハルトはわずかに間を置いて続ける。
「それでもなお、あなたはただ引き下がったわけではない。“承知いたしました”とおっしゃった」
エレノアは沈黙した。
あの一言に、自分の中でどれほど多くの意味を込めていたのか、誰にも分からないと思っていた。
だがレオンハルトは言う。
「あれは服従ではなく、切り捨てる言葉だった」
胸の奥で、何かがかすかに揺れた。
自分の意図を、あの場で正しく受け取った者がいた。
それだけのことなのに、思った以上に心へ響く。
「……よくご覧になっていたのですね」
「私の仕事柄、人の顔色と空気は見ます」
「公爵家当主のお仕事は、随分と繊細なのですね」
「必要なときだけです」
そこで初めて、エレノアは少しだけ笑った。
ほんの一瞬だったが、レオンハルトはその変化を見逃さなかったらしい。彼の視線が柔らかくなった気がした。
だが次の言葉で、空気は再び引き締まる。
「本題に入りましょう」
エレノアも表情を戻した。
「お願いします」
レオンハルトは机の上に一枚の紙を置いた。王宮の紋章が入ったものではない。だが、丁寧にまとめられた記録らしい書面だった。
「これは、ここ半年ほどの王太子殿下周辺の動きです」
「……どういう意味でしょう」
「そのままの意味です。私は殿下の政務そのものには関わっていませんが、いくつかの取引や会合で、あまりに不自然な流れを見ていました。予定が急に変更される。根回し済みの相手が突然不機嫌になる。軽率な発言があったはずなのに、なぜか問題が表に出る前に収まる」
エレノアはその紙を見る。
日付、会合名、相手家名、ごく簡潔な記録。
見ればすぐに分かった。
そこに並ぶ“収まった問題”の多くが、自分の手で処理したものだったからだ。
社交界での失言を、その相手が重く受け取らぬよう別の名目で借りを返したこと。
勝手に増やした予算要求を、別の帳簿で辻褄を合わせて一時的に沈静化させたこと。
気まぐれにした約束が外交上の火種になる前に、別の伝手を使って先回りしたこと。
思い返すだけで胃が重くなる。
「……随分とお調べになったのですね」
「違和感があったので」
レオンハルトはエレノアを見た。
「そして昨夜、ようやく確信しました。殿下の周囲で起きる“不自然なほど穏便な収束”は、あなたの仕事だったのですね」
エレノアは否定しなかった。
今さら隠したところで意味はない。
「殿下はご存じないでしょう」
「ええ」
「侯爵も?」
「おそらく、細部までは」
レオンハルトは頷いた。
「でしょうね。知っていれば、あんな捨て方はしない」
その一言は辛辣で、同時に冷静でもあった。
知っていればしない。
つまり、知らないからしたのだ。
自分が何を支え、何を塞ぎ、何を消してきたのかを理解しないまま、王太子は“冷たい婚約者”を手放したつもりでいる。
「私は昨夜、それを確かめたくてあなたに声をかけました」
「確かめるために?」
「あなたが本当に“ただ切り捨てられた令嬢”なのか。それとも、切り捨てた側があとで代償を払うのか」
ずいぶんとはっきりした言い方だ、とエレノアは思った。
けれど不快ではなかった。
慰めるふりをして哀れみを押しつけられるより、ずっといい。
「答えは出ましたか」
レオンハルトは少しも迷わなかった。
「ええ。後者です」
静かな断言だった。
不思議と、胸が少し軽くなる。
自分がこれまでしてきたことは、誰にも見られていないと思っていた。見えていたとしても、“当然のこと”として消費されるだけだと。
だが目の前の男は、それをちゃんと計算に入れている。
そして、切り捨てた側が代償を払うと見ている。
「だから、今日はひとつお伝えしたかったのです」
「何を、でしょう」
「あなたは、もう王太子殿下の尻拭いをなさらなくていい」
エレノアは、その言葉に息を止めた。
まるで胸の奥に触れられたようだった。
尻拭い。
あまりに直接的で、あまりに正確な言葉。
未来の王妃としての務めだと。
婚約者として当然だと。
家のためだと。
そう言い聞かせてきた数年が、その一言で容赦なく剥がされる。
結局、自分がしてきたことの多くは、それだったのだ。
誰かの失態を見えなくすること。
誰かの無責任をなかったことにすること。
誰かが称賛されるための土台だけを整え、自分はそこに名も残らないこと。
エレノアはゆっくりと指先を重ねた。
「……昨夜から、似たようなことを何度も考えていました」
「なら、口にした価値はあった」
「少し、乱暴ですけれど」
「飾る必要はないでしょう」
ええ、その通りだ。
この人の言葉は優しくはない。だが、妙な慰めや綺麗ごとよりもずっと信頼できる。
「それで」
エレノアは気持ちを整えて尋ねた。
「公爵様は、なぜそこまで気にかけてくださるのですか」
その問いに、レオンハルトはすぐには答えなかった。
彼ほどの立場の人間が、婚約破棄された侯爵令嬢にここまで言葉を費やす理由は、普通に考えれば薄い。興味本位ではなさそうだが、では何なのか。
しばしの沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「以前から、気づいていたからです」
「以前から?」
「王宮の夜会や会合で、殿下が不用意な発言をしたあと、必ず空気が整えられていた。誰がやっているのか、最初は分からなかった。だが見ていれば分かる。皆が気づかぬうちに、あなたが場を調整していた」
エレノアは少し目を見開いた。
そんなところまで見られていたとは思わなかった。
「あなたは自分が前に出ることを望まなかった。だから誰も気づかなかったのでしょう。ですが、私は見ていました」
その言い方は、驚くほど静かだった。
誇張も飾りもない。ただ事実だけを置くような声音。
なのに、なぜだろう。
胸の奥が少しだけ熱を持つ。
「……見られていたのですね、私」
「ええ」
「それは、少し落ち着きませんわ」
「不快でしたか」
「いいえ」
エレノアは正直に答えた。
「むしろ、少しだけ救われる気がいたします」
レオンハルトは何も言わなかった。
だがその沈黙は、気まずいものではなかった。
窓の外で、春の風が木々を鳴らす。閲覧室のどこかで、紙をめくる小さな音がした。
しばらくして、レオンハルトが再び話を切り出す。
「今後のことですが」
「はい」
「おそらく王宮は、しばらく混乱します」
「でしょうね」
「殿下はご自分の周囲が、なぜ急に回らなくなるのか理解できないでしょう。義妹殿もまた、王太子妃候補の座が“選ばれた可愛い娘”でいるだけで務まると思っているなら、すぐに行き詰まる」
それは、エレノアにも容易に想像できた。
王太子妃教育とは、姿勢と笑顔だけを学ぶものではない。相手家の事情、政治的な配慮、発言の重み、誰と誰を同席させてはいけないか、どの寄付がどの派閥に利くか、誰を立てて誰を遠ざけるか――表に出ない調整の積み重ねだ。
ミレイユにそれができるとは思えない。
というより、そもそも興味すらないだろう。
「私はしばらく、何もしないつもりです」
エレノアは自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。
「助けを求められても、戻る気はありません」
「それでいい」
レオンハルトの答えは早かった。
「あなたがこれ以上、彼らのために働く義理はない」
まただ。
この人は、どうしてこうも迷いなく、自分の中のためらいを断ち切る言葉をくれるのだろう。
エレノアは視線を伏せた。
「……少し前の私なら、それでも家のためにと考えたかもしれません」
「今は違う?」
「今は、そこまで愚かではいたくないと思っています」
その言葉に、レオンハルトは初めてはっきりと笑った。
声を立てるような笑いではない。だが確かに、楽しげだった。
「それは何よりです」
「笑うところでしたか」
「ええ。ようやくあなたが、ご自分の価値をあなた自身の側へ戻し始めたので」
エレノアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
褒められているのだろうか。
それとも励まされているのか。
どちらにせよ、気恥ずかしい。
「ところで」
レオンハルトがふと思い出したように言った。
「もし差し支えなければ、ひとつお聞きしたい」
「何でしょう」
「昨夜、舞踏会を出たあと、泣きましたか」
あまりにも唐突で、エレノアは思わず目を瞬いた。
「……随分と率直ですのね」
「気になったので」
「普通、そこを訊きます?」
「普通ではないので」
あまりに真顔で言うものだから、エレノアはとうとう小さく吹き出した。
図書館でこんなふうに笑うことになるとは思わなかった。
レオンハルトは少し目を細める。
「答えは?」
「泣いておりません」
「そうですか」
「残念でした?」
「いえ。あなたらしい」
その返事に、なぜか笑みが深くなる。
らしい、と言われたのはいつ以来だろう。
完璧だとか、冷たいだとか、理屈っぽいだとか、そういう評価ではなく、“あなたらしい”。
単純な言葉なのに、思った以上に心に残る。
話が終わる頃には、午後の光が少し傾いていた。
レオンハルトは席を立つ。
「お呼び立てして失礼しました」
「こちらこそ。……来てよかったです」
それは社交辞令ではなく、本音だった。
レオンハルトはその本音をきちんと受け取ったらしい。
「また必要があれば、お声をかけます」
「必要があれば、ですか」
「ええ。今度はもう少し、気楽な用件で」
その言葉に、エレノアは少しだけ驚いた。
この人なりの、次につなげる言い方なのだろうか。
不器用なくせに、妙なところで逃がさない。
「そのときは、図書館ではない場所がよろしいかもしれませんね」
「承知しました」
それだけのやり取りなのに、どこかくすぐったい空気が流れた。
閲覧室の外へ出る前に、エレノアは一度だけ振り返る。
レオンハルトは窓辺に立ち、自分を見ていた。
「エレノア嬢」
「はい」
「あなたが昨夜終わらせたのは、婚約だけではありません」
彼は静かに言った。
「他人の失態を背負う役目も、です」
その言葉を胸のどこに置けばいいのか、エレノアにはまだ分からなかった。
けれど確かに、その一言は深く落ちていく。
終わったはずの役目。
いや、終わらせるべきだった役目。
それをようやく手放していいのだと、誰かに明言されたのは初めてだった。
「……ええ」
エレノアは小さく頷いた。
「今度こそ、そういたします」
図書館を出ると、春の風が頬を撫でた。
空は明るく、王都の街路はいつも通り人で賑わっている。
何もかもが普段通りに見えるのに、エレノアの中では確かに何かが変わっていた。
昨日までは、王太子の婚約者として何をすべきかを考えていた。
侯爵家の娘として、どう耐えるべきかを考えていた。
姉として、何を譲るべきかを考えていた。
けれど今は違う。
自分はもう、誰かの不始末を覆い隠すために存在しているのではない。
その当たり前のことが、ようやく骨の髄まで染み始めていた。
終わったはずの役目は、もう振り返らなくていい。
ならば次に考えるべきはただひとつ。
これから、自分はどう生きるのか。
エレノアは馬車へ向かいながら、ふと唇の端を上げた。
それを考えるのは、案外悪くないかもしれない。
午後の王立図書館は、驚くほど静かだった。
王都の中心部にあるその建物は、王家の威信を示すように壮麗でありながら、内部に一歩入れば、外の喧騒が嘘のように遠のく。高い天井まで届く本棚、磨かれた床、紙と革表紙と古い木の混ざった匂い。エレノアは幼い頃からこの場所を好んでいた。
言葉が慎重に積み重ねられ、感情よりも記録が優先される場所。
少なくとも、舞踏会のように誰かの涙や芝居が真実を押し流す場所ではない。
付き添いの侍女を閲覧室の外で待たせ、エレノアは第二閲覧室の扉を開けた。
部屋の中には、すでに一人の男がいた。
窓際の席に腰かけ、閉じた本の上に片手を置いている。濃紺の外套を脱ぎ、簡素ながら質のよい装いに身を包んだその姿は、王宮の華やかな場にいるときよりもむしろ、この静謐な空間によく馴染んでいた。
レオンハルト・クラウゼン公爵。
彼は扉の音に顔を上げ、静かに立ち上がった。
「来てくださったのですね」
「書簡をいただきましたので」
エレノアがそう返すと、彼はかすかに口元を緩めた。
昨夜も思ったが、この人は冷徹と噂されるわりに、必要なときにはきちんと礼を尽くす。愛想よく振る舞うことはなくても、無礼でもない。ただ余計なものが削ぎ落とされているだけだ。
「お時間をいただき、感謝します」
「ご用件を伺っても?」
「もちろん」
レオンハルトは向かいの席を手で示した。
エレノアは礼を返し、その席に腰を下ろす。窓から差し込む光が、磨かれた卓上を淡く照らしていた。ほんの少し沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、レオンハルトだった。
「まず、昨夜の件について」
エレノアは視線をまっすぐ彼へ向ける。
「あなたは見事に立ち回られた」
また、その言葉だった。
お見事でした。
見事に立ち回った。
あの場で自分をそう評する者がいるとは、今でも少し不思議だった。
「……大多数の方は、そうは思わなかったでしょうね」
「大多数は、見たいものしか見ません」
レオンハルトの返答は即答だった。
「涙を流す令嬢と、取り乱さぬ婚約者。多くの者は、それだけで善悪を決める。考える手間が省けますから」
淡々とした口調なのに、妙に容赦がない。
エレノアは思わず少しだけ目を細めた。
「辛辣ですのね」
「事実です」
レオンハルトはそう言ってから、ほんのわずかに首を傾けた。
「お気に障りましたか」
「いいえ。むしろ、その通りだと思いました」
すると彼は、ごく小さく息を吐いた。安堵なのか、それとも単に話を進めやすいと思っただけなのかは分からない。
「昨夜、私はあなたが言い訳をなさらなかったことに感心しました」
「感心、ですか」
「ええ。あの場で弁明しても、意味はなかった。相手はすでに“劇”を完成させていたからです。王太子殿下は正義の側に立つ男を演じ、義妹殿は虐げられた可憐な娘を演じていた。そこへ理屈を差し込んでも、観客は受け取りません」
あまりにも的確だった。
エレノア自身、昨夜のあの瞬間に、言葉を尽くすことが無意味だと理解していた。だがそれをここまで正確に言い当てられると、少しだけ気味が悪いほどだった。
「まるで、その場に立っていたかのようにおっしゃるのね」
「立っていました」
「……そうでしたわね」
その返しに、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
レオンハルトはわずかに間を置いて続ける。
「それでもなお、あなたはただ引き下がったわけではない。“承知いたしました”とおっしゃった」
エレノアは沈黙した。
あの一言に、自分の中でどれほど多くの意味を込めていたのか、誰にも分からないと思っていた。
だがレオンハルトは言う。
「あれは服従ではなく、切り捨てる言葉だった」
胸の奥で、何かがかすかに揺れた。
自分の意図を、あの場で正しく受け取った者がいた。
それだけのことなのに、思った以上に心へ響く。
「……よくご覧になっていたのですね」
「私の仕事柄、人の顔色と空気は見ます」
「公爵家当主のお仕事は、随分と繊細なのですね」
「必要なときだけです」
そこで初めて、エレノアは少しだけ笑った。
ほんの一瞬だったが、レオンハルトはその変化を見逃さなかったらしい。彼の視線が柔らかくなった気がした。
だが次の言葉で、空気は再び引き締まる。
「本題に入りましょう」
エレノアも表情を戻した。
「お願いします」
レオンハルトは机の上に一枚の紙を置いた。王宮の紋章が入ったものではない。だが、丁寧にまとめられた記録らしい書面だった。
「これは、ここ半年ほどの王太子殿下周辺の動きです」
「……どういう意味でしょう」
「そのままの意味です。私は殿下の政務そのものには関わっていませんが、いくつかの取引や会合で、あまりに不自然な流れを見ていました。予定が急に変更される。根回し済みの相手が突然不機嫌になる。軽率な発言があったはずなのに、なぜか問題が表に出る前に収まる」
エレノアはその紙を見る。
日付、会合名、相手家名、ごく簡潔な記録。
見ればすぐに分かった。
そこに並ぶ“収まった問題”の多くが、自分の手で処理したものだったからだ。
社交界での失言を、その相手が重く受け取らぬよう別の名目で借りを返したこと。
勝手に増やした予算要求を、別の帳簿で辻褄を合わせて一時的に沈静化させたこと。
気まぐれにした約束が外交上の火種になる前に、別の伝手を使って先回りしたこと。
思い返すだけで胃が重くなる。
「……随分とお調べになったのですね」
「違和感があったので」
レオンハルトはエレノアを見た。
「そして昨夜、ようやく確信しました。殿下の周囲で起きる“不自然なほど穏便な収束”は、あなたの仕事だったのですね」
エレノアは否定しなかった。
今さら隠したところで意味はない。
「殿下はご存じないでしょう」
「ええ」
「侯爵も?」
「おそらく、細部までは」
レオンハルトは頷いた。
「でしょうね。知っていれば、あんな捨て方はしない」
その一言は辛辣で、同時に冷静でもあった。
知っていればしない。
つまり、知らないからしたのだ。
自分が何を支え、何を塞ぎ、何を消してきたのかを理解しないまま、王太子は“冷たい婚約者”を手放したつもりでいる。
「私は昨夜、それを確かめたくてあなたに声をかけました」
「確かめるために?」
「あなたが本当に“ただ切り捨てられた令嬢”なのか。それとも、切り捨てた側があとで代償を払うのか」
ずいぶんとはっきりした言い方だ、とエレノアは思った。
けれど不快ではなかった。
慰めるふりをして哀れみを押しつけられるより、ずっといい。
「答えは出ましたか」
レオンハルトは少しも迷わなかった。
「ええ。後者です」
静かな断言だった。
不思議と、胸が少し軽くなる。
自分がこれまでしてきたことは、誰にも見られていないと思っていた。見えていたとしても、“当然のこと”として消費されるだけだと。
だが目の前の男は、それをちゃんと計算に入れている。
そして、切り捨てた側が代償を払うと見ている。
「だから、今日はひとつお伝えしたかったのです」
「何を、でしょう」
「あなたは、もう王太子殿下の尻拭いをなさらなくていい」
エレノアは、その言葉に息を止めた。
まるで胸の奥に触れられたようだった。
尻拭い。
あまりに直接的で、あまりに正確な言葉。
未来の王妃としての務めだと。
婚約者として当然だと。
家のためだと。
そう言い聞かせてきた数年が、その一言で容赦なく剥がされる。
結局、自分がしてきたことの多くは、それだったのだ。
誰かの失態を見えなくすること。
誰かの無責任をなかったことにすること。
誰かが称賛されるための土台だけを整え、自分はそこに名も残らないこと。
エレノアはゆっくりと指先を重ねた。
「……昨夜から、似たようなことを何度も考えていました」
「なら、口にした価値はあった」
「少し、乱暴ですけれど」
「飾る必要はないでしょう」
ええ、その通りだ。
この人の言葉は優しくはない。だが、妙な慰めや綺麗ごとよりもずっと信頼できる。
「それで」
エレノアは気持ちを整えて尋ねた。
「公爵様は、なぜそこまで気にかけてくださるのですか」
その問いに、レオンハルトはすぐには答えなかった。
彼ほどの立場の人間が、婚約破棄された侯爵令嬢にここまで言葉を費やす理由は、普通に考えれば薄い。興味本位ではなさそうだが、では何なのか。
しばしの沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「以前から、気づいていたからです」
「以前から?」
「王宮の夜会や会合で、殿下が不用意な発言をしたあと、必ず空気が整えられていた。誰がやっているのか、最初は分からなかった。だが見ていれば分かる。皆が気づかぬうちに、あなたが場を調整していた」
エレノアは少し目を見開いた。
そんなところまで見られていたとは思わなかった。
「あなたは自分が前に出ることを望まなかった。だから誰も気づかなかったのでしょう。ですが、私は見ていました」
その言い方は、驚くほど静かだった。
誇張も飾りもない。ただ事実だけを置くような声音。
なのに、なぜだろう。
胸の奥が少しだけ熱を持つ。
「……見られていたのですね、私」
「ええ」
「それは、少し落ち着きませんわ」
「不快でしたか」
「いいえ」
エレノアは正直に答えた。
「むしろ、少しだけ救われる気がいたします」
レオンハルトは何も言わなかった。
だがその沈黙は、気まずいものではなかった。
窓の外で、春の風が木々を鳴らす。閲覧室のどこかで、紙をめくる小さな音がした。
しばらくして、レオンハルトが再び話を切り出す。
「今後のことですが」
「はい」
「おそらく王宮は、しばらく混乱します」
「でしょうね」
「殿下はご自分の周囲が、なぜ急に回らなくなるのか理解できないでしょう。義妹殿もまた、王太子妃候補の座が“選ばれた可愛い娘”でいるだけで務まると思っているなら、すぐに行き詰まる」
それは、エレノアにも容易に想像できた。
王太子妃教育とは、姿勢と笑顔だけを学ぶものではない。相手家の事情、政治的な配慮、発言の重み、誰と誰を同席させてはいけないか、どの寄付がどの派閥に利くか、誰を立てて誰を遠ざけるか――表に出ない調整の積み重ねだ。
ミレイユにそれができるとは思えない。
というより、そもそも興味すらないだろう。
「私はしばらく、何もしないつもりです」
エレノアは自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。
「助けを求められても、戻る気はありません」
「それでいい」
レオンハルトの答えは早かった。
「あなたがこれ以上、彼らのために働く義理はない」
まただ。
この人は、どうしてこうも迷いなく、自分の中のためらいを断ち切る言葉をくれるのだろう。
エレノアは視線を伏せた。
「……少し前の私なら、それでも家のためにと考えたかもしれません」
「今は違う?」
「今は、そこまで愚かではいたくないと思っています」
その言葉に、レオンハルトは初めてはっきりと笑った。
声を立てるような笑いではない。だが確かに、楽しげだった。
「それは何よりです」
「笑うところでしたか」
「ええ。ようやくあなたが、ご自分の価値をあなた自身の側へ戻し始めたので」
エレノアは少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
褒められているのだろうか。
それとも励まされているのか。
どちらにせよ、気恥ずかしい。
「ところで」
レオンハルトがふと思い出したように言った。
「もし差し支えなければ、ひとつお聞きしたい」
「何でしょう」
「昨夜、舞踏会を出たあと、泣きましたか」
あまりにも唐突で、エレノアは思わず目を瞬いた。
「……随分と率直ですのね」
「気になったので」
「普通、そこを訊きます?」
「普通ではないので」
あまりに真顔で言うものだから、エレノアはとうとう小さく吹き出した。
図書館でこんなふうに笑うことになるとは思わなかった。
レオンハルトは少し目を細める。
「答えは?」
「泣いておりません」
「そうですか」
「残念でした?」
「いえ。あなたらしい」
その返事に、なぜか笑みが深くなる。
らしい、と言われたのはいつ以来だろう。
完璧だとか、冷たいだとか、理屈っぽいだとか、そういう評価ではなく、“あなたらしい”。
単純な言葉なのに、思った以上に心に残る。
話が終わる頃には、午後の光が少し傾いていた。
レオンハルトは席を立つ。
「お呼び立てして失礼しました」
「こちらこそ。……来てよかったです」
それは社交辞令ではなく、本音だった。
レオンハルトはその本音をきちんと受け取ったらしい。
「また必要があれば、お声をかけます」
「必要があれば、ですか」
「ええ。今度はもう少し、気楽な用件で」
その言葉に、エレノアは少しだけ驚いた。
この人なりの、次につなげる言い方なのだろうか。
不器用なくせに、妙なところで逃がさない。
「そのときは、図書館ではない場所がよろしいかもしれませんね」
「承知しました」
それだけのやり取りなのに、どこかくすぐったい空気が流れた。
閲覧室の外へ出る前に、エレノアは一度だけ振り返る。
レオンハルトは窓辺に立ち、自分を見ていた。
「エレノア嬢」
「はい」
「あなたが昨夜終わらせたのは、婚約だけではありません」
彼は静かに言った。
「他人の失態を背負う役目も、です」
その言葉を胸のどこに置けばいいのか、エレノアにはまだ分からなかった。
けれど確かに、その一言は深く落ちていく。
終わったはずの役目。
いや、終わらせるべきだった役目。
それをようやく手放していいのだと、誰かに明言されたのは初めてだった。
「……ええ」
エレノアは小さく頷いた。
「今度こそ、そういたします」
図書館を出ると、春の風が頬を撫でた。
空は明るく、王都の街路はいつも通り人で賑わっている。
何もかもが普段通りに見えるのに、エレノアの中では確かに何かが変わっていた。
昨日までは、王太子の婚約者として何をすべきかを考えていた。
侯爵家の娘として、どう耐えるべきかを考えていた。
姉として、何を譲るべきかを考えていた。
けれど今は違う。
自分はもう、誰かの不始末を覆い隠すために存在しているのではない。
その当たり前のことが、ようやく骨の髄まで染み始めていた。
終わったはずの役目は、もう振り返らなくていい。
ならば次に考えるべきはただひとつ。
これから、自分はどう生きるのか。
エレノアは馬車へ向かいながら、ふと唇の端を上げた。
それを考えるのは、案外悪くないかもしれない。
16
あなたにおすすめの小説
愚か者たちの婚約破棄
あんど もあ
ファンタジー
ライラは、父と後妻と妹だけが家族のような侯爵家で居候のように生きてきた。そして、卒業パーティーでライラの婚約者までライラでは無く妹と婚約すると宣言する。侯爵家の本当の姿に気づいているのがライラだけだと知らずに……。
私の婚約者を奪った義妹は、幸せになるはずでした
しおしお
恋愛
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息ギルベルトとの婚約が決まっていた。
けれど、他国へ嫁ぐのが嫌だと訴える義妹カトリーヌは、可憐でか弱い姿を武器に、少しずつ周囲の心を動かしていく。
そしてついに起こる、婚約者交換。
婚約を奪われたフィオレッタは、義妹が拒んだ相手――他国アルディシア公国の公爵フェリクスのもとへ向かうことになる。
突然変えられ「他国へ嫁ぐなんて嫌ですわ」
そう泣いた義妹は、姉の婚約者を奪った。
侯爵令嬢フィオレッタ・ランベールは、公爵令息との婚約を義妹カトリーヌに奪われ、代わりに義妹が拒んだ他国の公爵へ嫁ぐことになる。
傷つきながらも静かに運命を受け入れるフィオレッタと、愛される幸せを手に入れたと信じるカトリーヌ。
だが、婚約交換から始まった二人の人生は、やがて思いもよらぬ形で分かれていく。
奪われた姉が辿り着く未来と、奪った妹が手にする結末とは――。
婚約交換から始まる、姉妹の明暗を描いた恋愛ざまぁ物語。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。
るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」
色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。
……ほんとに屑だわ。
結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。
彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。
彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。
婚約者と義妹に裏切られたので、ざまぁして逃げてみた
せいめ
恋愛
伯爵令嬢のフローラは、夜会で婚約者のレイモンドと義妹のリリアンが抱き合う姿を見てしまった。
大好きだったレイモンドの裏切りを知りショックを受けるフローラ。
三ヶ月後には結婚式なのに、このままあの方と結婚していいの?
深く傷付いたフローラは散々悩んだ挙句、その場に偶然居合わせた公爵令息や親友の力を借り、ざまぁして逃げ出すことにしたのであった。
ご都合主義です。
誤字脱字、申し訳ありません。
真実の愛がどうなろうと関係ありません。
希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令息サディアスはメイドのリディと恋に落ちた。
婚約者であった伯爵令嬢フェルネは無残にも婚約を解消されてしまう。
「僕はリディと真実の愛を貫く。誰にも邪魔はさせない!」
サディアスの両親エヴァンズ伯爵夫妻は激怒し、息子を勘当、追放する。
それもそのはずで、フェルネは王家の血を引く名門貴族パートランド伯爵家の一人娘だった。
サディアスからの一方的な婚約解消は決して許されない裏切りだったのだ。
一ヶ月後、愛を信じないフェルネに新たな求婚者が現れる。
若きバラクロフ侯爵レジナルド。
「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」
フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。
「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」
互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。
その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは……
(予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)
【完結】婚約破棄はしたいけれど傍にいてほしいなんて言われましても、私は貴方の母親ではありません
すだもみぢ
恋愛
「彼女は私のことを好きなんだって。だから君とは婚約解消しようと思う」
他の女性に言い寄られて舞い上がり、10年続いた婚約を一方的に解消してきた王太子。
今まで婚約者だと思うからこそ、彼のフォローもアドバイスもしていたけれど、まだそれを当たり前のように求めてくる彼に驚けば。
「君とは結婚しないけれど、ずっと私の側にいて助けてくれるんだろう?」
貴方は私を母親だとでも思っているのでしょうか。正直気持ち悪いんですけれど。
王妃様も「あの子のためを思って我慢して」としか言わないし。
あんな男となんてもう結婚したくないから我慢するのも嫌だし、非難されるのもイヤ。なんとかうまいこと立ち回って幸せになるんだから!
結婚式の前日に婚約者が「他に愛する人がいる」と言いに来ました
四折 柊
恋愛
セリーナは結婚式の前日に婚約者に「他に愛する人がいる」と告げられた。うすうす気づいていたがその言葉に深く傷つく。それでも彼が好きで結婚を止めたいとは思わなかった。(身勝手な言い分が出てきます。不快な気持ちになりそうでしたらブラウザバックでお願いします。)矛盾や違和感はスルーしてお読みいただけると助かります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる