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第二十二話 侯爵家の崩壊
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第二十二話 侯爵家の崩壊
マリアンヌが持ち込んだ紙束は、その日のうちにフェルベルク侯爵家の空気をさらに変えた。
エレノアはすぐに父へ見せることはしなかった。
だが、何も知らぬ顔で抱えているつもりもなかった。
まずは紙の真偽を確かめ、当時の流れをもう少し整理する必要がある。そう判断し、マリアンヌには一旦屋敷の奥で休ませ、執事へだけ最小限の事情を伝えた。
その時点で、侯爵はすでに落ち着きを失っていたらしい。
夕刻、執事が再び部屋を訪ねてくる。
「お嬢様、旦那様がお待ちです」
「書斎に?」
「はい。……本日は、奥様もご一緒に」
やはり来た、とエレノアは思った。
何かがあったのだ。
しかも、父と継母が揃って自分を呼ぶということは、家の内側に関わる話である可能性が高い。
エレノアは深く息を吸い、静かに立ち上がった。
書斎の扉を開けると、侯爵は机の前に立ったままだった。
座ってすらいない。
机の上には封の切られた手紙が三通、乱雑に広げられている。
ヴィオラはその横で青ざめた顔をしており、扇を持つ指先が細かく震えていた。
「お呼びでしょうか」
エレノアが一礼すると、侯爵はいつものように回りくどい前置きをせず、いきなり本題へ入った。
「南方伯家が、来月の交易祭で我が家との共同席を再考したいと言ってきた」
その声は低く、押し殺してはいたが、怒りと焦りが混じっていた。
エレノアは表情を変えない。
「そうですか」
「そうですか、ではない!」
侯爵が机を叩く。
「共同席を外されれば、我が家の立場にも響く! 王宮側との関係が不安定に見られ、さらに周辺の家々まで距離を取り始める!」
「すでに取り始めておりますわね」
静かに返すと、侯爵の顔が歪んだ。
「分かっているなら、その顔は何だ!」
「どのような顔をすればよろしいのでしょう」
エレノアは穏やかに問う。
「今さら驚くべきことでもありませんでしょう。南方伯家は一度軽んじられたと判断したら、表向きは礼を尽くしつつ距離を置く家ですもの」
ヴィオラがはっと顔を上げた。
「あなた、分かっていたの?」
「ええ。前にも申し上げたことがあるかと」
また、それかという顔を侯爵がする。
だが事実だった。
前から何度も伝えていた。
どの家にどう配慮すべきか。
何を軽んじてはいけないか。
そのたびに、“細かい”“神経質だ”と流されただけで。
侯爵は苦々しく息を吐いた。
「それだけではない」
机の上の手紙の一つを持ち上げる。
「北部修道院への後援について、王妃殿下のご実家筋からも苦言が来ている。しかも、我が家の寄付の配分が“近頃いささか場当たり的だ”と」
場当たり的。
ずいぶん穏やかな表現だが、貴族社会では十分に厳しい言い方だ。
エレノアは心の中で、小さく数を数える。
一つ。
二つ。
着実に来ている。
侯爵家が今まで築いてきた“堅実で失礼のない家”という印象が、じわじわと削られ始めているのだ。
王太子周辺だけでなく、侯爵家そのものにも。
ヴィオラが掠れた声で言う。
「どうして、こんなに一度に……」
その問いに、エレノアは継母を見た。
「一度に、ではありませんわ」
「何ですって」
「積もっていたものが、今になって表へ出てきただけです」
ヴィオラは息を呑む。
侯爵もまた、何かを言い返しかけてやめた。
それが真実に近いと分かっているからだろう。
王宮での席次。
寄付の配分。
夫人たちへの返書。
小さな茶会の招待。
どれも、一つなら些細だ。
だが些細なものほど、長く積もる。
そして今、それを整える者がいなくなって、いっせいにひびが表へ出た。
侯爵は机の端を強く掴んだまま言った。
「……お前は、どこまで知っている」
その問いに、エレノアは少しだけ間を置いた。
知っていることは多い。
だが今、この場で全部を出すつもりはない。
とくにマリアンヌの持ってきた紙のことは、父がどこまで関わっているのかを見極めるまでは伏せておきたかった。
「王都の空気が変わってきていることは分かっています」
「そんなことではない!」
侯爵の声が荒くなる。
「ミレイユが、何をどこまでやらかしたのかだ!」
その瞬間、ヴィオラがびくりと肩を震わせた。
母親として庇いたい。
だが庇えない。
そんな顔だった。
エレノアは静かに答える。
「最近の王宮での失態については、ある程度耳にしております」
「最近の、ではない!」
侯爵は吐き捨てるように言う。
「昔からだ! あの娘が、お前の招待や噂に妙な手を回していたのではないかと、今さら言い出す者がいる!」
ついにそこへ触れた。
エレノアは視線を少しだけ細める。
「誰が」
「昔の使用人だ。もう辞めたはずの者まで、妙な話を持ち出し始めている」
マリアンヌだけではないのだ。
あるいは、彼女が動いたことで、同じように黙っていた者たちも口を開き始めたのかもしれない。
ヴィオラが慌てたように言う。
「そんなの、今さらよ! 何年も前の話を持ち出して、どうするというの!」
その“今さら”という一言が、かえって多くを物語っていた。
まるで、過去に何かあったこと自体は否定しない言い方だ。
エレノアは継母を見た。
「お義母様は、何年も前の話だとおっしゃるのですね」
ヴィオラの顔がこわばる。
「そ、そういう意味では……」
「では、どういう意味ですか」
静かな問いだった。
だが、逃がさない問いでもあった。
ヴィオラは扇を強く握りしめた。
「あなたは昔から、そうやって言葉尻を……」
「言葉尻ではありませんわ。確認です」
エレノアは一歩も引かなかった。
「お義母様は、ミレイユが私の招待や評判に手を回していた可能性を、今ここで否定なさらないのですね」
侯爵がゆっくりとヴィオラを見た。
その視線には、怒りだけではなく、疑いが混じっている。
ヴィオラの顔から血の気が引いていく。
「私は……そんな大ごとになるとは……」
言ってしまってから、自分でまずいと気づいたらしい。
慌てて口を押さえる。
だが遅い。
侯爵の目が見開かれた。
「やはり知っていたのか」
書斎の空気が凍る。
ヴィオラは震える声で言い募る。
「ち、違うのよ。知っていたというほどではなくて、ただ、あの子が少しお姉様に張り合いたがっていたことは……でも、子供の嫉妬のようなもので……」
「子供の嫉妬だと?」
侯爵の声音が低く落ちる。
「その“子供の嫉妬”で、今、家がどれだけ傷んでいると思っている!」
ヴィオラは涙ぐみかけるが、今の侯爵はそれに流される状態ではなかった。
むしろ、今まで知らなかったことへの怒りが強いのだろう。
ミレイユの未熟さより、自分が後から知らされたことへの怒り。
侯爵らしい反応だと、エレノアはひどく冷静に思う。
「あなたが甘やかした結果でしょう」
ぽつりとエレノアが言うと、侯爵もヴィオラもこちらを見る。
「何だと」
「ミレイユが欲しがれば譲らせる。泣けば庇う。少しでも気に入らなければ“まだ子供だから”で済ませる」
エレノアの声は穏やかだった。
「そうしてきた結果、あの子は“欲しいものは奪っていい”“そのあと困ったら誰かが庇う”と思うようになったのでしょう」
ヴィオラが顔を歪める。
「あなたまで、あの子を悪し様に……!」
「悪し様に申し上げているのではありませんわ」
エレノアは言った。
「ただ、現実を申し上げているだけです」
侯爵は椅子へ崩れるように腰を下ろした。
その姿は、ここ最近で一番老けて見えた。
机の上には、南方伯家からの距離を示す手紙。
後援先からの苦言。
そして、今さら知ることになった家の内側の腐り。
侯爵家の崩壊。
まだ屋敷が傾いたわけでも、爵位を失ったわけでもない。
だが“家として積み上げてきた信用”という意味では、確かに崩れ始めていた。
しかもその原因の多くが、外から来た敵ではない。
家の内側。
継母の黙認と、義妹の嫉妬と、父の無関心。
つまり、自壊だ。
しばらくして侯爵が掠れた声で言った。
「……お前は、いつから知っていた」
エレノアはその問いに、静かに答える。
「はっきりとは、今日です」
嘘ではない。
確信を持てたのは、マリアンヌが紙を持ってきた今日なのだから。
「ですが、違和感は前からありました」
「なぜ言わなかった」
その問いに、エレノアは少しだけ目を細めた。
なぜ言わなかった。
よくも言えるものだと思う。
「申し上げても、聞いてはいただけませんでしたもの」
侯爵が口をつぐむ。
それもまた、事実だからだ。
エレノアが招待の減少や噂の妙さに触れても、当時は“王太子妃候補が神経質になりすぎるな”で終わった。
継母は娘を庇い、父は面倒を嫌って深く見なかった。
だから今さら、“なぜ言わなかった”はあまりに都合がよすぎる。
ヴィオラはついに椅子へ座り込み、顔を覆った。
「こんなつもりじゃ……」
その言葉に、エレノアは感情がほとんど動かなかった。
こんなつもりじゃなかった。
そうだろう。
ヴィオラはたぶん、本当に“ここまで”になるとは思っていなかったのだ。
少し姉に勝たせたくない。
少し娘を優位に立たせたい。
その程度の軽さで始めたのだろう。
けれど軽い嫉妬も、長く積めば人を壊す。
そして、それを止めるべき大人が止めなかったとき、家そのものを蝕むのだ。
扉の外で気配がした。
執事だった。
「旦那様」
「何だ」
侯爵が苛立ったように返すと、執事は一礼して告げる。
「ベルタと名乗る元侍女が、屋敷の外で面会を求めております」
書斎が再び静まり返る。
ベルタ。
マリアンヌが口にした、もう一人の名。
侯爵がゆっくり顔を上げる。
ヴィオラは完全に血の気を失っていた。
「……通せ」
侯爵の声は、もはや怒鳴る力もないほど重かった。
エレノアは静かに立ち上がった。
これで、点ではなく線になる。
一人の感情論ではない。
たまたまの誤解でもない。
証言が重なる。
紙が出る。
過去の流れがつながる。
侯爵家の崩壊は、外からの一撃ではなかった。
家の中で見過ごされ、甘やかされ、都合よく切り捨てられてきたものの積み重ねだ。
そして今、それが証拠を伴って表へ出ようとしている。
エレノアは窓の外を一瞬だけ見た。
空は夕暮れに沈みかけていた。
けれど、この屋敷にとっての“暮れ”は、まだ始まったばかりなのかもしれない。
マリアンヌが持ち込んだ紙束は、その日のうちにフェルベルク侯爵家の空気をさらに変えた。
エレノアはすぐに父へ見せることはしなかった。
だが、何も知らぬ顔で抱えているつもりもなかった。
まずは紙の真偽を確かめ、当時の流れをもう少し整理する必要がある。そう判断し、マリアンヌには一旦屋敷の奥で休ませ、執事へだけ最小限の事情を伝えた。
その時点で、侯爵はすでに落ち着きを失っていたらしい。
夕刻、執事が再び部屋を訪ねてくる。
「お嬢様、旦那様がお待ちです」
「書斎に?」
「はい。……本日は、奥様もご一緒に」
やはり来た、とエレノアは思った。
何かがあったのだ。
しかも、父と継母が揃って自分を呼ぶということは、家の内側に関わる話である可能性が高い。
エレノアは深く息を吸い、静かに立ち上がった。
書斎の扉を開けると、侯爵は机の前に立ったままだった。
座ってすらいない。
机の上には封の切られた手紙が三通、乱雑に広げられている。
ヴィオラはその横で青ざめた顔をしており、扇を持つ指先が細かく震えていた。
「お呼びでしょうか」
エレノアが一礼すると、侯爵はいつものように回りくどい前置きをせず、いきなり本題へ入った。
「南方伯家が、来月の交易祭で我が家との共同席を再考したいと言ってきた」
その声は低く、押し殺してはいたが、怒りと焦りが混じっていた。
エレノアは表情を変えない。
「そうですか」
「そうですか、ではない!」
侯爵が机を叩く。
「共同席を外されれば、我が家の立場にも響く! 王宮側との関係が不安定に見られ、さらに周辺の家々まで距離を取り始める!」
「すでに取り始めておりますわね」
静かに返すと、侯爵の顔が歪んだ。
「分かっているなら、その顔は何だ!」
「どのような顔をすればよろしいのでしょう」
エレノアは穏やかに問う。
「今さら驚くべきことでもありませんでしょう。南方伯家は一度軽んじられたと判断したら、表向きは礼を尽くしつつ距離を置く家ですもの」
ヴィオラがはっと顔を上げた。
「あなた、分かっていたの?」
「ええ。前にも申し上げたことがあるかと」
また、それかという顔を侯爵がする。
だが事実だった。
前から何度も伝えていた。
どの家にどう配慮すべきか。
何を軽んじてはいけないか。
そのたびに、“細かい”“神経質だ”と流されただけで。
侯爵は苦々しく息を吐いた。
「それだけではない」
机の上の手紙の一つを持ち上げる。
「北部修道院への後援について、王妃殿下のご実家筋からも苦言が来ている。しかも、我が家の寄付の配分が“近頃いささか場当たり的だ”と」
場当たり的。
ずいぶん穏やかな表現だが、貴族社会では十分に厳しい言い方だ。
エレノアは心の中で、小さく数を数える。
一つ。
二つ。
着実に来ている。
侯爵家が今まで築いてきた“堅実で失礼のない家”という印象が、じわじわと削られ始めているのだ。
王太子周辺だけでなく、侯爵家そのものにも。
ヴィオラが掠れた声で言う。
「どうして、こんなに一度に……」
その問いに、エレノアは継母を見た。
「一度に、ではありませんわ」
「何ですって」
「積もっていたものが、今になって表へ出てきただけです」
ヴィオラは息を呑む。
侯爵もまた、何かを言い返しかけてやめた。
それが真実に近いと分かっているからだろう。
王宮での席次。
寄付の配分。
夫人たちへの返書。
小さな茶会の招待。
どれも、一つなら些細だ。
だが些細なものほど、長く積もる。
そして今、それを整える者がいなくなって、いっせいにひびが表へ出た。
侯爵は机の端を強く掴んだまま言った。
「……お前は、どこまで知っている」
その問いに、エレノアは少しだけ間を置いた。
知っていることは多い。
だが今、この場で全部を出すつもりはない。
とくにマリアンヌの持ってきた紙のことは、父がどこまで関わっているのかを見極めるまでは伏せておきたかった。
「王都の空気が変わってきていることは分かっています」
「そんなことではない!」
侯爵の声が荒くなる。
「ミレイユが、何をどこまでやらかしたのかだ!」
その瞬間、ヴィオラがびくりと肩を震わせた。
母親として庇いたい。
だが庇えない。
そんな顔だった。
エレノアは静かに答える。
「最近の王宮での失態については、ある程度耳にしております」
「最近の、ではない!」
侯爵は吐き捨てるように言う。
「昔からだ! あの娘が、お前の招待や噂に妙な手を回していたのではないかと、今さら言い出す者がいる!」
ついにそこへ触れた。
エレノアは視線を少しだけ細める。
「誰が」
「昔の使用人だ。もう辞めたはずの者まで、妙な話を持ち出し始めている」
マリアンヌだけではないのだ。
あるいは、彼女が動いたことで、同じように黙っていた者たちも口を開き始めたのかもしれない。
ヴィオラが慌てたように言う。
「そんなの、今さらよ! 何年も前の話を持ち出して、どうするというの!」
その“今さら”という一言が、かえって多くを物語っていた。
まるで、過去に何かあったこと自体は否定しない言い方だ。
エレノアは継母を見た。
「お義母様は、何年も前の話だとおっしゃるのですね」
ヴィオラの顔がこわばる。
「そ、そういう意味では……」
「では、どういう意味ですか」
静かな問いだった。
だが、逃がさない問いでもあった。
ヴィオラは扇を強く握りしめた。
「あなたは昔から、そうやって言葉尻を……」
「言葉尻ではありませんわ。確認です」
エレノアは一歩も引かなかった。
「お義母様は、ミレイユが私の招待や評判に手を回していた可能性を、今ここで否定なさらないのですね」
侯爵がゆっくりとヴィオラを見た。
その視線には、怒りだけではなく、疑いが混じっている。
ヴィオラの顔から血の気が引いていく。
「私は……そんな大ごとになるとは……」
言ってしまってから、自分でまずいと気づいたらしい。
慌てて口を押さえる。
だが遅い。
侯爵の目が見開かれた。
「やはり知っていたのか」
書斎の空気が凍る。
ヴィオラは震える声で言い募る。
「ち、違うのよ。知っていたというほどではなくて、ただ、あの子が少しお姉様に張り合いたがっていたことは……でも、子供の嫉妬のようなもので……」
「子供の嫉妬だと?」
侯爵の声音が低く落ちる。
「その“子供の嫉妬”で、今、家がどれだけ傷んでいると思っている!」
ヴィオラは涙ぐみかけるが、今の侯爵はそれに流される状態ではなかった。
むしろ、今まで知らなかったことへの怒りが強いのだろう。
ミレイユの未熟さより、自分が後から知らされたことへの怒り。
侯爵らしい反応だと、エレノアはひどく冷静に思う。
「あなたが甘やかした結果でしょう」
ぽつりとエレノアが言うと、侯爵もヴィオラもこちらを見る。
「何だと」
「ミレイユが欲しがれば譲らせる。泣けば庇う。少しでも気に入らなければ“まだ子供だから”で済ませる」
エレノアの声は穏やかだった。
「そうしてきた結果、あの子は“欲しいものは奪っていい”“そのあと困ったら誰かが庇う”と思うようになったのでしょう」
ヴィオラが顔を歪める。
「あなたまで、あの子を悪し様に……!」
「悪し様に申し上げているのではありませんわ」
エレノアは言った。
「ただ、現実を申し上げているだけです」
侯爵は椅子へ崩れるように腰を下ろした。
その姿は、ここ最近で一番老けて見えた。
机の上には、南方伯家からの距離を示す手紙。
後援先からの苦言。
そして、今さら知ることになった家の内側の腐り。
侯爵家の崩壊。
まだ屋敷が傾いたわけでも、爵位を失ったわけでもない。
だが“家として積み上げてきた信用”という意味では、確かに崩れ始めていた。
しかもその原因の多くが、外から来た敵ではない。
家の内側。
継母の黙認と、義妹の嫉妬と、父の無関心。
つまり、自壊だ。
しばらくして侯爵が掠れた声で言った。
「……お前は、いつから知っていた」
エレノアはその問いに、静かに答える。
「はっきりとは、今日です」
嘘ではない。
確信を持てたのは、マリアンヌが紙を持ってきた今日なのだから。
「ですが、違和感は前からありました」
「なぜ言わなかった」
その問いに、エレノアは少しだけ目を細めた。
なぜ言わなかった。
よくも言えるものだと思う。
「申し上げても、聞いてはいただけませんでしたもの」
侯爵が口をつぐむ。
それもまた、事実だからだ。
エレノアが招待の減少や噂の妙さに触れても、当時は“王太子妃候補が神経質になりすぎるな”で終わった。
継母は娘を庇い、父は面倒を嫌って深く見なかった。
だから今さら、“なぜ言わなかった”はあまりに都合がよすぎる。
ヴィオラはついに椅子へ座り込み、顔を覆った。
「こんなつもりじゃ……」
その言葉に、エレノアは感情がほとんど動かなかった。
こんなつもりじゃなかった。
そうだろう。
ヴィオラはたぶん、本当に“ここまで”になるとは思っていなかったのだ。
少し姉に勝たせたくない。
少し娘を優位に立たせたい。
その程度の軽さで始めたのだろう。
けれど軽い嫉妬も、長く積めば人を壊す。
そして、それを止めるべき大人が止めなかったとき、家そのものを蝕むのだ。
扉の外で気配がした。
執事だった。
「旦那様」
「何だ」
侯爵が苛立ったように返すと、執事は一礼して告げる。
「ベルタと名乗る元侍女が、屋敷の外で面会を求めております」
書斎が再び静まり返る。
ベルタ。
マリアンヌが口にした、もう一人の名。
侯爵がゆっくり顔を上げる。
ヴィオラは完全に血の気を失っていた。
「……通せ」
侯爵の声は、もはや怒鳴る力もないほど重かった。
エレノアは静かに立ち上がった。
これで、点ではなく線になる。
一人の感情論ではない。
たまたまの誤解でもない。
証言が重なる。
紙が出る。
過去の流れがつながる。
侯爵家の崩壊は、外からの一撃ではなかった。
家の中で見過ごされ、甘やかされ、都合よく切り捨てられてきたものの積み重ねだ。
そして今、それが証拠を伴って表へ出ようとしている。
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