婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第二十一話 証拠

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第二十一話 証拠

王都の噂が反転し始めると、人は不思議なほどよく“思い出す”。

あのとき、あの娘はこう言っていた。
あの場で、あの義妹はああいう顔をしていた。
あの手紙は、たしか不自然だった。
あの侍女は、なぜ急に辞めたのだったか。

最初はぼんやりとしていた違和感が、後から少しずつ輪郭を持つのだ。

そしてそれは、フェルベルク侯爵家でも例外ではなかった。

その日の午後、エレノアはクラウゼン公爵家の補助室で後援先一覧の整理を終えたあと、久しぶりに侯爵邸へ早めに戻っていた。

午前の仕事が一段落し、午後は公爵家側の帳簿整理が明日に回されたからだ。
クラウゼン公爵家の馬車を降りたとき、侯爵邸の玄関ホールにはどこか落ち着かない空気があった。

使用人たちの動きが、いつもより少し硬い。
声も低い。
誰もが“何かが起きている”と分かっていながら、それを表には出さないようにしているときの空気だ。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

執事が出迎える。

いつも通りの礼。
けれど、その目の奥には微かな緊張があった。

「ただいま戻りました」

「お疲れでございましょう」

そこまで言ってから、執事は少し声を落とした。

「旦那様が、後ほどお話があるかもしれぬと」

エレノアはわずかに眉を上げる。

「また、ですか」

「……本日は少々、別の意味合いかと存じます」

その言い方に、エレノアは執事を見た。

別の意味合い。

つまり、王宮の火消しに戻れというような話ではないのだろう。

「何かありましたの」

すると執事は少しだけためらったあと、慎重に答えた。

「昔、お嬢様付きでおりました侍女の一人が、本日屋敷へ参っております」

エレノアの指先がわずかに止まる。

「……誰ですの」

「マリアンヌでございます」

その名を聞いた瞬間、エレノアの胸の奥で何かが静かに動いた。

マリアンヌ。

数年前まで、自分付きの侍女の一人だった。
口数は多くないが仕事は丁寧で、裁縫も整頓も上手い娘だった。
だがある時期を境に、突然“家の空気に合わない”として外され、そのまま実家へ戻されたことになっていた。

あのとき、エレノアは正直に言えば、腑に落ちていなかった。

マリアンヌは確かに社交向きの侍女ではなかった。
けれど、外されるほどの落ち度も見当たらなかった。
しかも、辞める直前の彼女はひどく怯えたような顔をしていたのを覚えている。

だが当時のエレノアには、王宮と学園と婚約関係の調整だけで精一杯で、それ以上深く追えなかった。

そして今、その名がこうして出てくる。

「……どちらに」

「現在は、古い応接間にて待機しております。旦那様もお会いになる前に、まずお嬢様へ知らせたほうがよいと判断いたしました」

執事のその言葉に、エレノアは少しだけ目を細めた。

やはり、何かある。

しかも、その“何か”は自分に関わることなのだろう。

「会います」

即答だった。

執事は静かに頷く。

「こちらへ」

古い応接間は、表の来客を通す華やかな部屋ではない。

かつて身内や古くからの出入り業者と短く話すために使われていた、小さめの部屋だ。今ではあまり使われないぶん、人目を避けたいときには都合がよかった。

扉が開く。

中には、一人の若い女が立っていた。

いや、若いと言うには少しだけ痩せ、頬もこけていた。
けれど面差しは間違いなく、マリアンヌだった。

エレノアを見るなり、彼女は深く頭を下げる。

「お、お久しゅうございます……エレノア様」

声が震えていた。

「久しぶりね、マリアンヌ」

エレノアはゆっくり近づいた。

「座ってちょうだい。立ったままで話すことではないわ」

けれどマリアンヌはすぐには座らなかった。

両手を固く握りしめたまま、目を伏せている。

「どうしたの」

「……私、ずっと申し上げなければと思っておりました」

そこまで言って、彼女の声がさらに小さくなる。

「でも、怖くて……」

怖い。

その言葉だけで、エレノアの背筋に冷たいものが走る。

やはり、ただ懐かしくて来たわけではない。

「何を、怖がっているの」

マリアンヌは唇を震わせた。

そして意を決したように、顔を上げる。

「ミレイユ様のことでございます」

その瞬間、部屋の空気が変わった。

エレノアは椅子へ腰を下ろすよう促し、自分も向かいへ座った。

「詳しく聞かせて」

マリアンヌは何度か浅く息をついたあと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「私がエレノア様付きから外された頃のことです……。あの頃、ミレイユ様はまだ学園の茶会にもあまり慣れておられなくて、奥様は何かにつけ“お姉様を見習いなさい”とおっしゃっていました」

エレノアは黙って聞く。

それ自体は珍しい話ではない。

継母ヴィオラはよくそういう言い方をした。
エレノアを認めているわけではない。ただ、娘を焚きつけるための比較対象として使っていただけだ。

「そのたびに、ミレイユ様は……」

マリアンヌは言葉を選ぶように口を閉じる。

「お嬢様の物を欲しがるようになられました」

エレノアは表情を変えなかった。

驚きはない。
リボン、香水、装飾品、手袋。そういう小さなものなら、以前から何度もあった。

だがマリアンヌが今、わざわざここへ来てまで話すのは、そんな程度のことではないはずだ。

「物、だけではなかったのでしょう」

そう言うと、マリアンヌの目が揺れた。

「……はい」

「続けて」

「最初は、茶会の招待状でした」

エレノアの指先がわずかに強張る。

「私宛ての?」

「はい。エレノア様宛てに届いた若い令嬢方からの小さなお茶会の招待を、ミレイユ様が先に見てしまわれて……」

それで、行きたがったのだろう。

容易に想像できる。

招待される姉。
招待されない自分。
それが気に入らなかったのだ。

「断りの返事が出されたのね」

「……はい」

マリアンヌは顔を伏せる。

「エレノア様のお名前で、“都合が悪いので欠席する”と」

エレノアはしばらく何も言わなかった。

当時、たしかに妙に招待が減った時期があった。
学園内の令嬢たちの態度も、少しよそよそしくなった。
こちらに不手際があったかと考えたが、王太子関係の火消しに追われて、結局そこまで掘れなかった。

つまり、そういうことか。

「返事を出したのは誰」

「ミレイユ様付きの侍女が……でも、文面は奥様がご覧になったと聞いております」

やはり。

継母も知っていたのだ。

しかもそれを止めなかった。
むしろ見て見ぬふりをしていたのだろう。

「ほかにもあります」

マリアンヌは続ける。

「学園の図書室で、エレノア様が王太子殿下に冷たく当たった、と噂が立ったことがございました」

あった。

たしかにあった。

だがあれは、アルヴィスが不用意な約束をしようとして、それを止めただけのことだった。
なのにいつの間にか、“エレノアは殿下を見下している”という形で広まっていた。

「その噂も?」

「……きっかけを作ったのは、ミレイユ様です」

部屋が静まり返る。

マリアンヌは恐る恐る続ける。

「“お姉様は、殿下にあまりお優しくないのです”と、学園の令嬢方に……泣きながら」

泣きながら。

なんとも義妹らしいやり口だった。

明確な嘘ではない。
だが受け取る側が勝手に“冷たい姉”の像を膨らませるように、先に感情だけを置く。

それを、もうあの頃からやっていたのだ。

「私……それを一度、見てしまったのです」

マリアンヌの声が小さく震える。

「見てしまって、でも黙っていられなくて……。奥様に、“このままではエレノア様のお立場が”と申し上げたら……」

そこで、彼女は唇を噛んだ。

エレノアは静かに問う。

「何を言われたの」

「“余計なことを言うなら、次はあなたがいなくなるわよ”と」

それで、黙らされたのだ。

いや、黙るしかなかったのだろう。

「それであなたは、外されたのね」

マリアンヌの目に涙が滲む。

「はい……。“気が利かない”“家の空気を乱す”と……」

エレノアは目を閉じ、ほんの一瞬だけ深く息を吸った。

不思議なほど怒りは静かだった。

驚きも、もうない。

ただ、これまで腑に落ちなかった点と点が、音もなくつながっていく。

招待状の減少。
妙な噂の広がり。
学園での距離感。
そして、舞踏会の夜に至るまでに“冷たい姉”という印象があまりに都合よく出来上がっていたこと。

最初から少しずつ、積まれていたのだ。

「……それだけでは、ないのでしょう」

エレノアがそう言うと、マリアンヌはびくりと肩を震わせた。

そして、とうとうバッグの中から一通の古びた紙束を取り出した。

「これを……ずっと持っておりました」

差し出されたそれは、何枚かの控え紙だった。

エレノアが受け取り、目を走らせる。

そこには、自分の名前で書かれた断りの返事の下書きがあった。

だが筆跡は自分のものではない。
しかも言い回しは、いかにも“忙しいので小さな茶会には興味がない”と受け取られかねない、妙に鼻持ちならないものになっている。

「これは……」

「私が捨てるよう命じられたものです」

マリアンヌはか細く言う。

「でも、あまりにひどいと思って……一枚だけでも残しておけば、いつかお嬢様にお伝えできるかもしれないと……」

証拠。

エレノアの胸の内で、その言葉が静かに形になる。

これは感情論ではない。
“そうだった気がする”でもない。
実際に、自分の名を騙って断りを出し、印象を歪める文面が存在したという証拠だ。

しかも、それを継母が知り、黙認していた可能性が高い。

エレノアはしばらく紙を見つめ、それから顔を上げた。

「ありがとう、マリアンヌ」

その一言に、マリアンヌの目からぽろりと涙が落ちる。

「私……もっと早く申し上げるべきでした……」

「いいえ」

エレノアは静かに首を振った。

「あなたが悪いのではないわ」

それは本心だった。

当時のマリアンヌは若く、力もなく、侯爵家の中で逆らえる立場ではなかった。
むしろ、よくこれを残してくれたと思う。

「このことは、ほかに誰が知っているの」

「もう一人だけ……以前、奥様付きだった侍女が」

「名前は」

「ベルタです」

エレノアはその名を頭の中に刻む。

使える。

感情だけではなく、証言と紙が揃えば、少なくとも“全部がお姉様の被害妄想”では済まなくなる。

だが、同時に少しだけ苦いものが胸に広がる。

ここまで来てもまだ、こんなふうに積み上げられていたのかと。

姉の立場。
評判。
婚約者との距離。
それらを、少しずつ、目立たない形で削っていく。

ミレイユは最初から、そうやって奪うつもりだったのだ。

扉の外で気配がし、執事がそっと姿を見せた。

「お嬢様」

「どうしたの」

「旦那様が……ご様子をうかがっております」

つまり侯爵も、この話に気づき始めているのだろう。

マリアンヌが来た時点で、ただ事ではないと分かっているはずだ。

エレノアは紙束をゆっくり重ねた。

まだ、今すぐ父へ見せるつもりはない。

この人がどこまで知っていて、どこから知らなかったのか。
それを見極める必要がある。

「少し待っていただいて」

執事が一礼して下がる。

マリアンヌは不安そうにエレノアを見た。

「私、どうなりますでしょうか……」

「守るわ」

エレノアははっきり言った。

「少なくとも、今度は黙らせない」

その言葉に、マリアンヌは両手で口を押さえた。

泣き声をこらえるように。

エレノアは、静かな怒りのまま窓の外へ一度視線を向けた。

証拠が出てきた。
しかも、ただの嫉妬や印象論ではない。
義妹が自分の名と立場を削るために、実際に動いていた痕跡。

ならば、ここから先は違う。

舞踏会の夜までは、ミレイユの涙と印象だけで押し切られた。
だが今度は、その涙の裏に何があったのかを示せる。

噂ではなく。
憶測でもなく。
証拠として。

エレノアはそっと紙束を閉じた。

胸の内は、不思議なほど冷えていた。

もう、驚かない。
もう、傷つくだけでは終わらない。

ここからは、積まれたものを順に崩していく番だ。
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