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第二十話 救えない愚かさ
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第二十話 救えない愚かさ
王宮の失態は、一夜で消える種類のものではなかった。
表向き、春の晩餐会は何事もなく終わったことになっている。
音楽は最後まで鳴り、料理も出され、誰も声を荒げなかった。
南方伯夫人も礼を失することなく席を立ち、王妃も終始穏やかな顔を崩さなかった。
だからこそ厄介だった。
大きな破綻がないまま終わった宴ほど、そこにいた者たちは細部をよく覚えている。
誰が何を言ったか。
誰がどう返したか。
誰の顔色が変わり、誰がその場をつないだか。
そういうものが翌日にはもう、王都中の茶会や居間や馬車の中で、少しずつ形を変えながら語られていく。
そして今回、その語られ方は決して王太子側に優しいものではなかった。
翌朝、王太子アルヴィスの執務室はいつも以上に重苦しい空気に満ちていた。
書類が多いからではない。
もちろんそれもある。
だが今日は、それ以上に、人の視線が妙に慎重だった。
書記官たちは口数が少なく、侍従も必要以上のことを言わない。
側近たちでさえ、いつものように“どう殿下の機嫌を損ねずに話を通すか”より、“これ以上、余計な火種を増やさないか”を優先しているように見えた。
アルヴィスはその空気が気に入らなかった。
「何だ、その顔は」
朝一番で入ってきた側近の一人にそう言い放つと、相手はすぐに頭を下げた。
「いえ、何でもございません」
「何でもない顔ではないだろう」
苛立った声が響く。
だが側近はそれ以上何も言わない。
言えないのではない。
言っても無駄だと知っているからだ。
その沈黙が、アルヴィスにはますます腹立たしかった。
「南方伯家からの返事は」
机の上の書類へ視線を落としたまま問うと、別の書記官が一歩進み出る。
「今朝、届いております」
「読め」
書記官は封を切った返書を開き、慎重に文面を読み上げた。
内容は丁寧そのものだった。
王家への敬意もある。
晩餐会への礼も尽くされている。
文面だけをなぞれば、何も問題はないように見える。
けれど、部屋の中の何人かは、その丁寧さの中にある冷たさをきちんと聞き取っていた。
今後の交易祭に際しては、従来以上に“形式の整い”を重んじる。
先方からの指示がない限り、こちらから踏み込んだ提案は控える。
あくまで王家のご意向を尊重する。
一見すると従順だ。
だが実際には、“そちらが配慮を軽んじるなら、こちらも最低限の礼だけで動く”という通告に近い。
読み終わると、アルヴィスは不愉快そうに顔をしかめた。
「回りくどい」
誰も何も言わない。
「言いたいことがあるなら、もっとはっきり書けばよいものを」
側近たちのうち何人かが、ほんのわずかに視線を伏せた。
“はっきり書かない”からこそ厄介なのだ。
感情で怒鳴られたなら、こちらも感情で押し返せる。
けれど、礼を尽くした文面の中に距離だけを置かれると、こちらは礼を失わずにそれを埋めるしかない。
そして今の王太子には、その埋め方が分からない。
「……殿下」
最年長の側近がようやく口を開く。
「今回の件は、南方伯家に限らず、ほかの家々も見ております」
「何が言いたい」
「“王太子殿下の隣に立つ方が、形式や配慮をどう見ておられるか”という点をです」
アルヴィスの表情が険しくなる。
「またミレイユを責めるのか」
その言い方に、側近はすぐには返さなかった。
責めるつもりではなくても、結果としてそう聞こえることは分かっていたのだろう。
「責めるというより……」
慎重に選びながら言う。
「今後、殿下の周囲がどのような空気で回るかに関わる話かと」
「空気、空気と……くだらん」
アルヴィスは手元のペンを放り出した。
「私は、いつからこんな小娘一人の失言まで背負わねばならんのだ」
その一言で、部屋の空気が完全に止まる。
小娘一人の失言。
それを言ってしまうのか、と全員が思ったはずだ。
舞踏会の夜には“真実の愛”だと守り、可憐で傷ついた娘だと大仰に掲げた相手を、少し不都合が出た途端に“失言する小娘”として切り離す。
その浅さは、さすがに隠しきれない。
だがアルヴィスは気づかない。
いや、気づきたくないのかもしれない。
自分の選択に傷があると認めた瞬間、舞踏会のあの断罪劇そのものが揺らぐからだ。
「殿下」
別の側近が、今度は少しだけ強く言った。
「問題は、ミレイユ様個人というより、殿下がどう対応なさるかにございます」
「私が?」
「はい。殿下が“あれは軽い冗談だった”と流せば流すほど、南方伯家との温度差は広がります」
アルヴィスは苛立ちを隠さず立ち上がった。
「ではどうしろというのだ。私があの場で、夫人に頭でも下げれば満足か?」
誰もすぐには答えない。
それはたぶん、半分は正解で、半分は違うからだ。
頭を下げること自体ではなく、何に対して、どの温度で、どこまで先に非を認めるか。そこにこそ意味がある。だが今のアルヴィスに、その細かな違いを説明するのは骨が折れる。
結局、最年長の側近が低く言った。
「少なくとも、“たかが一言”とお考えのままではまずいかと」
その瞬間、アルヴィスの顔が怒りに染まる。
「お前まで、母上のようなことを言うのか」
側近は黙った。
だが、その沈黙が肯定であることは誰にでも分かった。
アルヴィスは机を叩いた。
「もういい! 南方伯家にはあとで私が直接話す!」
その宣言に、部屋の中の空気が逆に重くなる。
直接話す。
それ自体が悪いわけではない。
だが今のアルヴィスが、感情を整えずに直接話して事態を改善できるとは、誰も思っていなかった。
同じ頃、王都ではその“晩餐会の一件”が案の定、穏やかな速度で広がり始めていた。
侯爵夫人の朝の茶会。
仕立て屋の控え室。
馬車の中での母娘の会話。
女官たちの休憩の隅。
誰も露骨には言わない。
だが、言葉の選び方にはすでに差が出ている。
“ミレイユ様はまだお若いから”
“無邪気なのかもしれませんけれど”
“場を和ませたいというお心は分かりますわ”
そう前置きを置きながら、結局皆が語るのは同じことだ。
場を和ませたいなら、まず場を読まなければならない。
気配りを息苦しいと切って捨てる娘が、王太子の隣で務まるはずがない。
そして、それを“たかが一言”として処理する王太子もまた危うい。
噂はさらに一歩進み、当然のようにもう一人の名を引き寄せる。
フェルベルク侯爵令嬢エレノア。
あの娘なら、南方伯夫人の前であんな返しはしなかっただろう。
むしろ、夫人の言葉を先に取って自分の未熟さとして引き受け、場を丸く収めただろう。
あの冷たいと思われていた令嬢のほうが、実はずっと“王宮向き”だったのではないか。
そういう囁きが、少しずつ少しずつ形を持ち始めていた。
そしてその噂は、侯爵邸にも届く。
午後、フェルベルク侯爵は応接間で二通の手紙を読んでいた。
一通は取引先の伯爵家から。
もう一通は、交易祭で同席する予定の侯爵家夫人からの、やけに丁寧な確認の文だった。
どちらの文面にも、直接的な非難はない。
だが読む者が読めば分かる。
王太子側との距離を少し測り始めている。
しかもその理由が、“フェルベルク家の次女”にあることも見抜いている。
侯爵は机へ手紙を置き、深く息を吐いた。
「……役立たずめ」
その呟きが誰を指しているのか、自分でも半分は分かっていなかったかもしれない。
ミレイユか。
アルヴィスか。
それとも、今ごろ別の屋敷で自分の手を離れて働いている長女か。
ヴィオラが不安げに声をかける。
「あなた……」
「王宮では何をしている」
侯爵の声は重かった。
「少し静かにしていればいいものを、なぜああも余計なことばかり……!」
ヴィオラは唇を噛む。
庇いたい。
だが庇いきれない。
最近のミレイユの言動が危ういことは、母親である彼女にも分かっている。
「まだ慣れていないのよ」
かろうじてそう言うと、侯爵は吐き捨てた。
「慣れていないなら、なおさら黙っていればいい!」
その言葉は痛かった。
かつてなら、ミレイユは“黙って可憐にしている”ことで大抵のものを手に入れられた。だが今は、それだけでは足りない。足りないどころか、下手に口を開けば本性がのぞく。
そして侯爵はようやく、それを庇いきれないところまで来てしまったのだ。
一方、クラウゼン公爵家の補助室では、エレノアが王都から回ってきた招待一覧に目を通していた。
「晩餐会の件、かなり響いていますね」
ぽつりとそう言うと、向かいにいたレオンハルトが紙から目を上げた。
「聞きましたか」
「直接ではありません。でも、招待の順番や文面に出始めています」
彼は静かに頷く。
「ええ。南方伯家だけでなく、ほかの家も少しずつ態度を変え始めています」
エレノアは一覧の端を指先で押さえながら考える。
王宮の失態は、一度や二度なら“若さゆえ”で流せる。
だがそれが積み重なり、しかも王太子自身が軽視するようでは、周囲は距離を測り始める。
今まさに、その段階へ入ったのだろう。
「殿下は、まだ分かっておられないでしょうね」
「おそらく」
「ミレイユは、もっと分かっていないでしょう」
レオンハルトの返答は短かったが、否定はしなかった。
エレノアは小さく息を吐く。
哀れだとは思わない。
少なくとも今は。
ただ、“救えない愚かさ”というものは本当にあるのだと実感する。
教えられても聞かない。
失ってもなお、自分が何を失ったのか見ようとしない。
周囲が苦い顔をしても、“相手が神経質なのだ”としか思えない。
そういう愚かさは、一度崩れ始めると、誰かが外から支えるだけではもう足りない。
本人が立ち止まらなければ、同じところで何度でも転ぶ。
「……どうかしましたか」
レオンハルトが問う。
どうやら少し考え込みすぎたらしい。
エレノアは首を振った。
「いいえ。ただ、あの方たちは今もまだ、“誰かが最後には整えてくれる”と思っているのかもしれないと思いまして」
レオンハルトはしばらく黙った。
やがて静かに言う。
「そういう人間は、整える者が完全に去るまで分かりません」
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ視線を落とした。
たしかにそうだ。
王太子も父も、継母も義妹も、ずっとそうだった。
エレノアが先回りし、黙って埋め、波が立つ前に整えることを当然と思っていた。
だから、その不在の本当の重さに気づくまで、こんなにも時間がかかった。
「でも、もう戻りませんわ」
自然に口から出た言葉だった。
レオンハルトはすぐに頷いた。
「ええ。戻る必要はありません」
その返答に、エレノアの胸の奥が少しだけ静まる。
誰かの愚かさは、本人のものだ。
それを代わりに背負う必要はない。
今の自分には、それをきちんと言ってくれる場所がある。
そのことが何より大きかった。
夕方、王太子の執務室では結局、南方伯家への返書はまとまらなかった。
文面を強くすれば角が立つ。
柔らかくすれば弱く見える。
譲れば負けた気がする。
押せばさらに冷える。
どれを選んでも面白くない。
だが、その“面白くなさ”に耐えて整えるのが、本来は王太子の側にいる者の務めなのだ。
そして今、その務めを担う者がいない。
苛立ちのまま、アルヴィスは最後には書類を机へ押しやった。
「明日にしろ」
それで済むと思っているところが、すでにまずい。
明日になれば勝手にましになるわけではない。
むしろ一晩置くことで、先方の不快はより静かに深くなる。
だが今のアルヴィスには、それを説明する言葉も届かない。
側近たちは無言で頭を下げた。
もはや誰も、“ここで正せばまだ間に合う”などとは思っていないのかもしれない。
救えない愚かさ。
その正体は、大きな悪意ではない。
むしろ、自分が何を軽んじているのかに最後まで気づかない鈍さだ。
そしてその鈍さは、周囲がいくら手を差し伸べても、本人が見ようとしない限り、決して救われない。
その夜、王都ではまた新しい噂が一つ生まれていた。
王太子はまた南方伯家を怒らせたらしい。
隣の娘は相変わらず場を読めないらしい。
そして、あの静かな侯爵令嬢がいなくなってから、王宮は本当に回らなくなったのだと。
噂は容赦がない。
けれど時に、それは誰よりも正確に本質を映す。
王太子アルヴィスと義妹ミレイユ。
二人が抱えるのは、もはや一度の失言や一晩の失態ではなかった。
もっと根深い、救いようのない種類の愚かさだった。
王宮の失態は、一夜で消える種類のものではなかった。
表向き、春の晩餐会は何事もなく終わったことになっている。
音楽は最後まで鳴り、料理も出され、誰も声を荒げなかった。
南方伯夫人も礼を失することなく席を立ち、王妃も終始穏やかな顔を崩さなかった。
だからこそ厄介だった。
大きな破綻がないまま終わった宴ほど、そこにいた者たちは細部をよく覚えている。
誰が何を言ったか。
誰がどう返したか。
誰の顔色が変わり、誰がその場をつないだか。
そういうものが翌日にはもう、王都中の茶会や居間や馬車の中で、少しずつ形を変えながら語られていく。
そして今回、その語られ方は決して王太子側に優しいものではなかった。
翌朝、王太子アルヴィスの執務室はいつも以上に重苦しい空気に満ちていた。
書類が多いからではない。
もちろんそれもある。
だが今日は、それ以上に、人の視線が妙に慎重だった。
書記官たちは口数が少なく、侍従も必要以上のことを言わない。
側近たちでさえ、いつものように“どう殿下の機嫌を損ねずに話を通すか”より、“これ以上、余計な火種を増やさないか”を優先しているように見えた。
アルヴィスはその空気が気に入らなかった。
「何だ、その顔は」
朝一番で入ってきた側近の一人にそう言い放つと、相手はすぐに頭を下げた。
「いえ、何でもございません」
「何でもない顔ではないだろう」
苛立った声が響く。
だが側近はそれ以上何も言わない。
言えないのではない。
言っても無駄だと知っているからだ。
その沈黙が、アルヴィスにはますます腹立たしかった。
「南方伯家からの返事は」
机の上の書類へ視線を落としたまま問うと、別の書記官が一歩進み出る。
「今朝、届いております」
「読め」
書記官は封を切った返書を開き、慎重に文面を読み上げた。
内容は丁寧そのものだった。
王家への敬意もある。
晩餐会への礼も尽くされている。
文面だけをなぞれば、何も問題はないように見える。
けれど、部屋の中の何人かは、その丁寧さの中にある冷たさをきちんと聞き取っていた。
今後の交易祭に際しては、従来以上に“形式の整い”を重んじる。
先方からの指示がない限り、こちらから踏み込んだ提案は控える。
あくまで王家のご意向を尊重する。
一見すると従順だ。
だが実際には、“そちらが配慮を軽んじるなら、こちらも最低限の礼だけで動く”という通告に近い。
読み終わると、アルヴィスは不愉快そうに顔をしかめた。
「回りくどい」
誰も何も言わない。
「言いたいことがあるなら、もっとはっきり書けばよいものを」
側近たちのうち何人かが、ほんのわずかに視線を伏せた。
“はっきり書かない”からこそ厄介なのだ。
感情で怒鳴られたなら、こちらも感情で押し返せる。
けれど、礼を尽くした文面の中に距離だけを置かれると、こちらは礼を失わずにそれを埋めるしかない。
そして今の王太子には、その埋め方が分からない。
「……殿下」
最年長の側近がようやく口を開く。
「今回の件は、南方伯家に限らず、ほかの家々も見ております」
「何が言いたい」
「“王太子殿下の隣に立つ方が、形式や配慮をどう見ておられるか”という点をです」
アルヴィスの表情が険しくなる。
「またミレイユを責めるのか」
その言い方に、側近はすぐには返さなかった。
責めるつもりではなくても、結果としてそう聞こえることは分かっていたのだろう。
「責めるというより……」
慎重に選びながら言う。
「今後、殿下の周囲がどのような空気で回るかに関わる話かと」
「空気、空気と……くだらん」
アルヴィスは手元のペンを放り出した。
「私は、いつからこんな小娘一人の失言まで背負わねばならんのだ」
その一言で、部屋の空気が完全に止まる。
小娘一人の失言。
それを言ってしまうのか、と全員が思ったはずだ。
舞踏会の夜には“真実の愛”だと守り、可憐で傷ついた娘だと大仰に掲げた相手を、少し不都合が出た途端に“失言する小娘”として切り離す。
その浅さは、さすがに隠しきれない。
だがアルヴィスは気づかない。
いや、気づきたくないのかもしれない。
自分の選択に傷があると認めた瞬間、舞踏会のあの断罪劇そのものが揺らぐからだ。
「殿下」
別の側近が、今度は少しだけ強く言った。
「問題は、ミレイユ様個人というより、殿下がどう対応なさるかにございます」
「私が?」
「はい。殿下が“あれは軽い冗談だった”と流せば流すほど、南方伯家との温度差は広がります」
アルヴィスは苛立ちを隠さず立ち上がった。
「ではどうしろというのだ。私があの場で、夫人に頭でも下げれば満足か?」
誰もすぐには答えない。
それはたぶん、半分は正解で、半分は違うからだ。
頭を下げること自体ではなく、何に対して、どの温度で、どこまで先に非を認めるか。そこにこそ意味がある。だが今のアルヴィスに、その細かな違いを説明するのは骨が折れる。
結局、最年長の側近が低く言った。
「少なくとも、“たかが一言”とお考えのままではまずいかと」
その瞬間、アルヴィスの顔が怒りに染まる。
「お前まで、母上のようなことを言うのか」
側近は黙った。
だが、その沈黙が肯定であることは誰にでも分かった。
アルヴィスは机を叩いた。
「もういい! 南方伯家にはあとで私が直接話す!」
その宣言に、部屋の中の空気が逆に重くなる。
直接話す。
それ自体が悪いわけではない。
だが今のアルヴィスが、感情を整えずに直接話して事態を改善できるとは、誰も思っていなかった。
同じ頃、王都ではその“晩餐会の一件”が案の定、穏やかな速度で広がり始めていた。
侯爵夫人の朝の茶会。
仕立て屋の控え室。
馬車の中での母娘の会話。
女官たちの休憩の隅。
誰も露骨には言わない。
だが、言葉の選び方にはすでに差が出ている。
“ミレイユ様はまだお若いから”
“無邪気なのかもしれませんけれど”
“場を和ませたいというお心は分かりますわ”
そう前置きを置きながら、結局皆が語るのは同じことだ。
場を和ませたいなら、まず場を読まなければならない。
気配りを息苦しいと切って捨てる娘が、王太子の隣で務まるはずがない。
そして、それを“たかが一言”として処理する王太子もまた危うい。
噂はさらに一歩進み、当然のようにもう一人の名を引き寄せる。
フェルベルク侯爵令嬢エレノア。
あの娘なら、南方伯夫人の前であんな返しはしなかっただろう。
むしろ、夫人の言葉を先に取って自分の未熟さとして引き受け、場を丸く収めただろう。
あの冷たいと思われていた令嬢のほうが、実はずっと“王宮向き”だったのではないか。
そういう囁きが、少しずつ少しずつ形を持ち始めていた。
そしてその噂は、侯爵邸にも届く。
午後、フェルベルク侯爵は応接間で二通の手紙を読んでいた。
一通は取引先の伯爵家から。
もう一通は、交易祭で同席する予定の侯爵家夫人からの、やけに丁寧な確認の文だった。
どちらの文面にも、直接的な非難はない。
だが読む者が読めば分かる。
王太子側との距離を少し測り始めている。
しかもその理由が、“フェルベルク家の次女”にあることも見抜いている。
侯爵は机へ手紙を置き、深く息を吐いた。
「……役立たずめ」
その呟きが誰を指しているのか、自分でも半分は分かっていなかったかもしれない。
ミレイユか。
アルヴィスか。
それとも、今ごろ別の屋敷で自分の手を離れて働いている長女か。
ヴィオラが不安げに声をかける。
「あなた……」
「王宮では何をしている」
侯爵の声は重かった。
「少し静かにしていればいいものを、なぜああも余計なことばかり……!」
ヴィオラは唇を噛む。
庇いたい。
だが庇いきれない。
最近のミレイユの言動が危ういことは、母親である彼女にも分かっている。
「まだ慣れていないのよ」
かろうじてそう言うと、侯爵は吐き捨てた。
「慣れていないなら、なおさら黙っていればいい!」
その言葉は痛かった。
かつてなら、ミレイユは“黙って可憐にしている”ことで大抵のものを手に入れられた。だが今は、それだけでは足りない。足りないどころか、下手に口を開けば本性がのぞく。
そして侯爵はようやく、それを庇いきれないところまで来てしまったのだ。
一方、クラウゼン公爵家の補助室では、エレノアが王都から回ってきた招待一覧に目を通していた。
「晩餐会の件、かなり響いていますね」
ぽつりとそう言うと、向かいにいたレオンハルトが紙から目を上げた。
「聞きましたか」
「直接ではありません。でも、招待の順番や文面に出始めています」
彼は静かに頷く。
「ええ。南方伯家だけでなく、ほかの家も少しずつ態度を変え始めています」
エレノアは一覧の端を指先で押さえながら考える。
王宮の失態は、一度や二度なら“若さゆえ”で流せる。
だがそれが積み重なり、しかも王太子自身が軽視するようでは、周囲は距離を測り始める。
今まさに、その段階へ入ったのだろう。
「殿下は、まだ分かっておられないでしょうね」
「おそらく」
「ミレイユは、もっと分かっていないでしょう」
レオンハルトの返答は短かったが、否定はしなかった。
エレノアは小さく息を吐く。
哀れだとは思わない。
少なくとも今は。
ただ、“救えない愚かさ”というものは本当にあるのだと実感する。
教えられても聞かない。
失ってもなお、自分が何を失ったのか見ようとしない。
周囲が苦い顔をしても、“相手が神経質なのだ”としか思えない。
そういう愚かさは、一度崩れ始めると、誰かが外から支えるだけではもう足りない。
本人が立ち止まらなければ、同じところで何度でも転ぶ。
「……どうかしましたか」
レオンハルトが問う。
どうやら少し考え込みすぎたらしい。
エレノアは首を振った。
「いいえ。ただ、あの方たちは今もまだ、“誰かが最後には整えてくれる”と思っているのかもしれないと思いまして」
レオンハルトはしばらく黙った。
やがて静かに言う。
「そういう人間は、整える者が完全に去るまで分かりません」
その言葉に、エレノアはほんの少しだけ視線を落とした。
たしかにそうだ。
王太子も父も、継母も義妹も、ずっとそうだった。
エレノアが先回りし、黙って埋め、波が立つ前に整えることを当然と思っていた。
だから、その不在の本当の重さに気づくまで、こんなにも時間がかかった。
「でも、もう戻りませんわ」
自然に口から出た言葉だった。
レオンハルトはすぐに頷いた。
「ええ。戻る必要はありません」
その返答に、エレノアの胸の奥が少しだけ静まる。
誰かの愚かさは、本人のものだ。
それを代わりに背負う必要はない。
今の自分には、それをきちんと言ってくれる場所がある。
そのことが何より大きかった。
夕方、王太子の執務室では結局、南方伯家への返書はまとまらなかった。
文面を強くすれば角が立つ。
柔らかくすれば弱く見える。
譲れば負けた気がする。
押せばさらに冷える。
どれを選んでも面白くない。
だが、その“面白くなさ”に耐えて整えるのが、本来は王太子の側にいる者の務めなのだ。
そして今、その務めを担う者がいない。
苛立ちのまま、アルヴィスは最後には書類を机へ押しやった。
「明日にしろ」
それで済むと思っているところが、すでにまずい。
明日になれば勝手にましになるわけではない。
むしろ一晩置くことで、先方の不快はより静かに深くなる。
だが今のアルヴィスには、それを説明する言葉も届かない。
側近たちは無言で頭を下げた。
もはや誰も、“ここで正せばまだ間に合う”などとは思っていないのかもしれない。
救えない愚かさ。
その正体は、大きな悪意ではない。
むしろ、自分が何を軽んじているのかに最後まで気づかない鈍さだ。
そしてその鈍さは、周囲がいくら手を差し伸べても、本人が見ようとしない限り、決して救われない。
その夜、王都ではまた新しい噂が一つ生まれていた。
王太子はまた南方伯家を怒らせたらしい。
隣の娘は相変わらず場を読めないらしい。
そして、あの静かな侯爵令嬢がいなくなってから、王宮は本当に回らなくなったのだと。
噂は容赦がない。
けれど時に、それは誰よりも正確に本質を映す。
王太子アルヴィスと義妹ミレイユ。
二人が抱えるのは、もはや一度の失言や一晩の失態ではなかった。
もっと根深い、救いようのない種類の愚かさだった。
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