婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十九話 王宮の失態

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第十九話 王宮の失態

その失態は、最初は小さな綻びとして始まった。

王宮主催の春の晩餐会。
名目は、交易祭を前にした親睦の夕べ。
表向きは穏やかで、華やかで、何事もなく進んで当然の席だった。

けれど、そういう“何事もなく進んで当然”の場ほど、一つのほころびが目立つ。

その夜、王宮の大広間はいつものように光に満ちていた。

磨き上げられた床。
高い天井から落ちるシャンデリアの輝き。
壁際に整列する楽師たち。
そして、思惑を胸に秘めた貴族たちの笑顔。

ミレイユはその中央近く、王太子アルヴィスの隣に立っていた。

淡い藤色のドレスは上質で、刺繍も美しい。髪には真珠をあしらい、表情も一見すれば非の打ち所がない。少なくとも、鏡の前ではそうだった。

だが実際の広間では、彼女の微笑みにはどこか硬さがあった。

最近の王宮は居心地が悪い。
どこを見ても、誰かに見られている気がする。
挨拶一つ、言葉一つ、笑い方一つで、“ああ、やはりその程度なのね”と判じられそうな空気がある。

だからミレイユは、以前よりもむしろ“可憐でいなければ”と力んでしまっていた。

その力みが、逆に危うさを生むことには気づかないまま。

「殿下、本日は南方伯夫人もお見えですわね」

彼女は小声でそう囁いた。

アルヴィスは杯を手にしたまま、少しだけ眉をひそめる。

「ああ。面倒だがな」

「まだお怒りなのでしょうか」

「たかが待たせた程度で、しつこい連中だ」

その返しに、ミレイユは曖昧に笑った。

本当はその話題に触れたくなかった。
だが最近、南方伯家という名前が何度も耳に入るせいで、つい口にしてしまったのだ。

そしてその何気ない一言が、後にもっと大きな失態へつながることになる。

晩餐会は序盤こそ穏やかに進んだ。

前菜が出され、杯が重なり、音楽が静かに流れる。
侯爵夫人たちは扇の陰で品よく微笑み、男たちはあくまで雑談の体を取りながら次の取引と立場を測っている。

その中で、ミレイユはある種の不満を募らせていた。

王太子の隣にいるのに、思ったほど皆が自分に集まってこない。
もちろん挨拶はされる。礼も尽くされる。
けれどそれは“王太子の隣だから”であって、“ミレイユ本人だから”ではないと分かるのだ。

何人かの夫人は、彼女へ微笑みながらも、その一拍あとで必ず王妃や南方伯夫人の様子をうかがっている。
若い令嬢たちも、羨望だけで見ているわけではない。どこか計算めいた目が混じっている。

気に入らなかった。

自分はもっと、“選ばれた娘”としてちやほやされるべきだと思っていた。

そんな内心の不満を隠したまま、ミレイユは杯を置き、ちょうど近くを通った侍女へ声をかけた。

「少し、空気が重いですわね」

侍女は一瞬だけ目を伏せた。

「本日は皆様、交易祭前でございますので」

「まあ、そういうことではなくて」

ミレイユは少しだけ肩をすくめる。

「せっかくの宴なのに、皆様あまりにお堅いのですもの」

それ自体は、ただの軽口だった。

だが近くにいた何人かの夫人が、その言葉を聞き逃さなかった。

特に、南方伯夫人は。

彼女は表情ひとつ変えずに杯を傾けていたが、その目だけがわずかにこちらを向いた。

エレノアなら、その視線の角度だけで危険を察しただろう。

だがミレイユには分からない。

そのあと、王妃付きの女官が静かに近寄ってきた。

「ミレイユ様、南方伯夫人がご挨拶をとのことです」

その一言に、ミレイユの背が少しだけこわばる。

嫌だった。

あの手の夫人は苦手だ。
穏やかに笑っていても、何を考えているか分からない。
しかもこちらの言葉尻を、一つも取りこぼさない。

けれど断るわけにもいかない。

「……ええ、もちろん」

そう言って歩み寄る。

南方伯夫人は、深い緑のドレスを着こなし、静かな威厳を湛えていた。年齢はヴィオラより少し上だろうか。華やかさよりも、場を掌握する落ち着きのある人だった。

「ミレイユ様」

「ごきげんよう、夫人」

挨拶を交わしたあと、夫人はにこやかに言う。

「先ほど、“皆が堅すぎる”とおっしゃっていたとか」

ミレイユの背筋に冷たいものが走る。

聞かれていた。

しかも、逃げられない形で。

「まあ……その、ほんの冗談ですの」

「もちろんでしょうとも」

南方伯夫人は微笑んだままだ。

「ただ、交易祭前は少々神経質になる家も多いものでして。とくに席次や招待順が絡みますと」

そこまで言われて、ミレイユの中の苛立ちがふっと顔を出した。

またそれ。

また席次。
また招待順。
また、くだらない気遣いの話。

もういい加減にしてほしい。

「皆様、少し気になさりすぎではありませんか」

気づけば、口が先に動いていた。

空気が変わる。

ほんのわずかだが、確実に。

南方伯夫人の笑みは消えていない。
けれど、その周囲にいた者たちの沈黙がひとつ深くなった。

「気にしすぎ、ですか」

「ええ……だって、晩餐会でしょう? もっと楽しまれたらよろしいのに」

ミレイユは言いながら、自分が少し勢いづいているのを感じていた。

止めるべきだと頭のどこかで分かっている。
だが一度出た不満は止まりにくい。

「席がどうとか、順番がどうとか、そういう細かなことばかりで皆様ぴりぴりなさって……正直、少し息が詰まりますわ」

南方伯夫人は、しばし何も言わなかった。

ただ、静かにミレイユを見ていた。

その沈黙がかえって怖かった。

だが怖いと思った瞬間、ミレイユは逆にむきになった。

「私は、殿下のおそばにいるなら、もっと明るく和やかな場にしたいと思っているのです」

その言葉が落ちた瞬間、近くにいた侯爵夫人の一人が、ごくかすかに扇を動かした。

侮蔑とも、呆れともつかない、ほんの小さな反応。

けれど社交界では、それで十分だった。

南方伯夫人はようやく口を開く。

「なるほど。ではミレイユ様は、場を和やかにするために、どなたをどの順に立てるべきか、お考えがおありなのですね」

言い返せない。

ミレイユは息を詰まらせた。

違う。
そういうことを言いたいのではない。
ただ、みんな面倒くさいと、そう言いたかっただけなのに。

だが夫人は止めない。

「あるいは、誰が何に傷つくかより、ご自分が息苦しくないほうを優先なさるのかしら」

そこまで言われて、ミレイユの頬が熱くなった。

侮辱された。

そう感じた。

本当は、自分が先に侮辱していたのだとしても、そんなことは考えられなかった。

「……夫人は、私を責めておいでですの?」

その声は、可憐さを装いきれない硬さを帯びていた。

南方伯夫人はゆるやかに首を振る。

「いいえ。ただ、殿下の隣に立つ方が、そうお考えなのだと確認しただけです」

その一言が、致命的だった。

責めてはいない。
だからこそ重い。
ただ確認しただけと言われてしまえば、そこから先は全部、“ミレイユ自身の言葉”として残る。

そのやり取りを、少し離れた場所からアルヴィスも見ていた。

最初は気にしていなかった。
だが夫人たちの周囲の空気が妙に静まり返ったことに気づき、ようやく歩み寄ってくる。

「何をしている」

その声に、ミレイユは振り向いた。

まるで助けを求めるように。

「殿下……」

だが南方伯夫人は王太子へも丁寧に一礼し、静かに告げる。

「ミレイユ様の、場を和やかにしたいというお考えを伺っておりましたの」

その言い方に、アルヴィスは一瞬だけ何かを察したらしい。

だがここで引くと、自分まで負けたように見えると思ったのだろう。

「それの何が悪い」

言ってしまった。

ああ、と何人かが胸の内で思ったはずだ。

南方伯夫人は微笑んだまま答える。

「悪いとは申しません。ただ、和やかさは誰かの気配りの上に成り立つものですわ」

アルヴィスの眉が寄る。

「また気配りか」

「ええ、また気配りです」

夫人の声音は穏やかだ。

穏やかなのに、一歩も引かない。

「それが不要とお考えなら、今後の交易祭も、我が家はそのように心得ましょう」

静かな宣言だった。

だが、その意味は重い。

今後の交易祭で、南方伯家は“気配りは不要と考える王太子側”として動く。
つまり、配慮を受けられなくても文句は言うな、ということだ。
もっと言えば、こちらに対しても最低限の礼だけでよいと判断する、ということである。

アルヴィスはそこまで一瞬で読めるほど敏くはなかった。

だが周囲は読んだ。

だからこそ、大広間のあちこちで空気が変わった。

「夫人、話が大げさすぎる」

アルヴィスは言った。

「たかが一言を――」

南方伯夫人の目が、初めて少しだけ冷えた。

「たかが一言、と」

その繰り返しで、完全にまずいと分かった者も多かっただろう。

たかが席順。
たかが待たせた程度。
たかが一言。

軽く扱うことしかできない王太子。
その隣で、それを“息苦しい”と言う娘。

最悪の組み合わせだった。

その場は、王妃付きの女官がさりげなく入り、別の話題へ流すことで何とか散会した。
だが、いったん落ちたものは戻らない。

視線。
空気。
印象。

すべてが、もう変わってしまっていた。

晩餐会の終盤、王妃セシリアは離れた位置から一連の流れを見ていた。

表情は崩さない。
だが胸の内では、静かに失望が積み上がっていた。

ミレイユは、やはりその程度だった。
そしてアルヴィスは、その程度の娘を庇うために、自らさらに評価を落とした。

もはや言い逃れのできる段階ではない。

夫人たちが何をどう受け取ったか、王妃には手に取るように分かった。
明日になれば、王都の茶会ではもうこの話が広がるだろう。

“場を和やかにしたい”
“席順などでぴりぴりしすぎ”
“たかが一言”

なんと軽く、なんと浅いのかと。

晩餐会が終わり、帰りの馬車で侯爵邸へ向かうミレイユは、ほとんど口をきかなかった。

アルヴィスも無言だった。

いつもなら何かしら言い訳をしたかもしれない。
南方伯夫人が感じが悪かったとか。
周囲が過敏すぎるとか。
自分は悪くないとか。

けれど今夜は、それすら口にできない重さがあった。

侯爵邸へ戻ったあと、侯爵は王宮から先に届いていた報せで状況を知り、露骨に顔色を変えた。

「……お前たちは、何をした」

低い声だった。

怒鳴る前の声。

ヴィオラも青ざめてミレイユを見る。

「まさか、また……」

ミレイユは唇を震わせた。

「だって……あの方が、意地悪な聞き方を……」

「そこで言い返すのが愚かだと言っているの!」

侯爵の声がついに上がる。

ミレイユはびくりと肩を震わせる。

「お前はもう少し黙って微笑んでいればいいのだ! なぜ余計なことを言う!」

その言葉は、ひどく皮肉だった。

ミレイユが得意としてきたのは、まさに“黙って微笑む”ことだったのに。
けれど今の王宮は、それだけでは足りない場所だった。

「お義父様、そんな言い方……」

ヴィオラが庇おうとするが、侯爵は遮る。

「庇って済む段階ではない! 南方伯家を敵に回せば、交易祭だけの問題では済まん!」

ミレイユの目に涙がたまる。

だがその涙に、もう以前ほどの力はない。

侯爵もヴィオラも、今夜ばかりは“可哀想な娘”として見る余裕を失っていた。

部屋へ戻されたあと、ミレイユは寝台へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。

悔しい。
苦しい。
怖い。

なのに、何より耐えがたいのは、周囲の目だった。

皆、もう分かってしまった。
自分は王太子の隣に立つだけの中身を持っていないと。
むしろ立たせてはいけない種類の娘だと。

「……どうして」

かすれた声が漏れる。

欲しかったのは、愛されることだけだった。
羨ましがられて、ちやほやされて、姉のものを奪って勝ちたかっただけだった。

なのに今、自分が手にした場所は、少しずつ首を絞めてくる。

そしてその息苦しさの正体が、姉が今まで黙って処理していたものなのだと、嫌でも分かり始めていた。

一方その頃、クラウゼン公爵家の補助室では、エレノアが静かに一通の返書を読み終えていた。

それは南方伯家から公爵家へ届いた、交易祭関連の簡潔な連絡文だった。

文面は丁寧。
だが行間は冷えている。

「何かありましたね」

エレノアがそう言うと、隣室から戻ってきたレオンハルトが頷いた。

「王宮の晩餐会で、ミレイユ嬢と南方伯夫人の間に少し」

「少し、で済むならよろしいのですが」

エレノアは文面をそっと置く。

この冷え方は、“少し”では済まない。

南方伯家は派手に怒鳴ったりはしない。
だが一度軽んじられたと判断すれば、その記憶を長く持つ家だ。
しかも今回は、夫人本人の前で、交易祭前の神経質さを“息苦しい”と切って捨てたようなもの。

尾を引く。

かなり長く。

レオンハルトが紙を見ながら言う。

「あなたなら、あの場でどう処理しましたか」

エレノアは少しだけ考えた。

「まず、南方伯夫人に“学ばせていただきたい”と置きます」

「争わずに?」

「争って勝てる相手ではありませんもの」

「その通りだ」

「そのうえで、“和やかさは皆様のお心遣いの上にある”と自分から言います。夫人の言葉を先に引き取り、こちらが無理解ではないと示すのです」

レオンハルトは静かに聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。

「やはり、いないことの影響が大きい」

エレノアは何も言わなかった。

もう今さら、“だから言ったのに”などと思う気もない。
ただ、事実として分かるだけだ。

王宮の失態は、これからもっと噂になる。
そして噂になればなるほど、最初の婚約破棄劇で誰が何を失い、誰が何を手にしたつもりだったのか、その対比が鮮明になる。

エレノアは窓の外へ視線を向けた。

夕暮れの光が中庭を薄く染めている。

あの舞踏会の夜、自分を切り捨てた者たちは、まだ自分たちが“勝った側”だと思っていた。
けれど今、少しずつ現実が見え始めている。

王宮の失態。

それはただの一度の失言ではない。
積み重なった軽視と無理解が、とうとう人前で形になっただけのことだった。

そしてその形は、思っているよりずっと長く残るのだ。
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