婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十八話 初めての安堵

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第十八話 初めての安堵

翌朝、エレノアは目を覚ました瞬間に、自分の身体が昨日より軽いことに気づいた。

完全に疲れが抜けたわけではない。
けれど、あの不意に足元が遠のくような感覚はもうなかった。頭も澄んでいるし、指先の冷えもかなり引いている。

寝台の上でしばらく天蓋を見つめながら、昨日のことを思い返す。

補助室での立ちくらみ。
レオンハルトに支えられたこと。
“ここではまずい”と、ごく当然のように言われたこと。
そして“休め”という、今までほとんど向けられたことのない種類の言葉。

思い出しただけで、少しだけ頬が熱くなる。

情けなかったはずなのに、不思議と心の奥には恥ずかしさだけが残っているわけではなかった。むしろそれ以上に、静かな温かさがある。

「お嬢様、お目覚めでございますか」

侍女が声をかける。

「ええ」

「本日は午前のみでよろしいと、公爵家よりお言葉がございました」

やはり本気だったのね、とエレノアは内心で思う。

昨日のあれは、その場だけの気遣いではなかったらしい。帰宅後に改めて従者を通し、今日の予定を調整させているのだから。

「そう。ありがとう」

侍女が支度を整えながら、少しだけ安堵したように微笑んだ。

たぶんこの侍女も、昨日戻ってきたエレノアの顔色を見ていたのだろう。侯爵邸では体調が悪くても、それを口に出すこと自体が“余計な心配をかけること”として扱われがちだった。だから使用人たちも、気づいてもあまり深く踏み込まない。

けれど今朝は違う。

最初から“午前だけ”と決まっている。

その事実が、屋敷の空気とは別の場所で自分がちゃんと扱われていることを、ささやかに示していた。

朝食の席では、侯爵もヴィオラもいつも以上に会話が少なかった。

ミレイユは今日も不在。

どうやらまだ王宮へ出るたびに何かしら失敗しているらしく、ここ数日は食卓でもその話題が避けられている。避けているつもりでも、重い沈黙そのものが答えになっていた。

「本日は午前のみです」

エレノアがそう告げると、侯爵は報告書から目を離さずに言った。

「……そうか」

それだけ。

以前なら、その短さに冷たさを感じたかもしれない。けれど今はもう違う。期待しない相手の反応は、傷にはなりにくい。

むしろ、あちらも余裕がないのだろうと冷静に見られる。

クラウゼン公爵家へ着くと、従者がすぐに補助室へ案内した。

扉を開けた瞬間、机の上の書類束が昨日より明らかに少ないことに気づく。

意図的に減らされている。

ほんの少しだけ、そのことが嬉しかった。

「おはようございます」

声をかけると、隣室からレオンハルトが現れた。

「おはようございます」

いつも通りの落ち着いた声音。
けれど視線は最初に書類ではなく、エレノアの顔に向けられた。

「顔色は戻りましたね」

その一言に、エレノアは少しだけ目を瞬いた。

挨拶より先に、そこを見るのか。

いや、この人なら見るのだろう。

「昨日よりは」

「ならよかった」

たったそれだけ。

それだけなのに、胸のどこかが静かに緩む。

レオンハルトは補助室の机へ近づき、今日の分の資料を指先で軽く示した。

「午前中は三件だけです」

「少ないのですね」

「少なくしました」

言い切られて、エレノアは小さく息をつく。

本当に遠慮がない。
遠慮がないのに、押しつけがましくもない。
ただ必要だと思ったことを、当然のように実行しているだけ。

「ご配慮、ありがとうございます」

そう言うと、レオンハルトはほんのわずかに目元をやわらげた。

「配慮ではなく管理です」

「公爵様は、何でも仕事の言葉で整理なさるのですね」

「そのほうが通りやすいでしょう」

そう返されると、たしかにその通りだと思う。

優しさだと認めると、照れくさいのだろうか。
あるいは、本当に仕事として整理しているだけなのかもしれない。
どちらにせよ、その不器用さは少しだけ可笑しかった。

午前中の仕事は、昨日の続きというより整理に近かった。

王都の有力家への返書の最終調整。
領内の二つの後援先の優先順位確認。
そして、来月行われる内輪の夕餐会の席順案。

量は少ない。だが内容は軽くない。
その分、一つずつ丁寧に見られた。

エレノアは書類を追いながら、昨日までとは少し違う感覚を覚えていた。

頭が冴えているだけではない。
肩の力が、以前より入っていない。
“ちゃんとやらなければ”という気持ちはある。けれど、その気持ちに押されて呼吸が浅くなるようなことはなかった。

それはきっと、昨日倒れかけたことそのものより、そのあとレオンハルトが見せた対応のせいなのだろう。

無理をしてもいい前提ではなく、無理をしたら止める前提。
その安心感が、思っていた以上に大きかった。

仕事をしている最中、一度だけレオンハルトが補助室へ戻ってきた。

「進み具合は」

「問題ありません」

エレノアは席順案の紙を差し出す。

「この並びなら、表向きは家格順に見せつつ、実際にはあちらの夫人を先に立てられます。あの方は正面から序列を争うより、“気づいてもらえているか”を気にされるので」

レオンハルトは紙へ目を落とし、すぐに頷いた。

「ええ、そうですね」

それだけで通じる。

説明しすぎなくてもいい。
先に疑ってかかられない。
役に立つかどうかだけを見てもらえる。

やはり、ここは楽だ。

「……何か?」

レオンハルトが顔を上げる。

どうやら少し考え込んでいたらしい。

エレノアは軽く首を振った。

「いいえ。ただ、ここでは話が早いと思いまして」

「それはよかった」

「ええ、とても」

そこでふと、レオンハルトが椅子の背へ軽く手を置いたまま言った。

「昨日のことですが」

エレノアの指先がわずかに止まる。

やはり、そこに触れるのか。

「はい」

「今後、少しでもおかしいと思ったら、言ってください」

あまりに真っ直ぐで、エレノアは一瞬返事に詰まった。

「……努力はいたします」

そう答えると、レオンハルトは少しだけ眉を上げた。

「努力、ですか」

「いきなり上手にはできませんもの」

それは自嘲ではなく、本音だった。

今まで何年も、“少しくらい無理でもやるもの”として生きてきたのだ。急に具合が悪くなる前に止まれと言われても、身体より先に思考の癖が動く。

大丈夫。
もう少し。
これくらいなら。

そうやって踏み込んでしまうのは、たぶんすぐには変わらない。

レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「では、慣れてください」

その返しがあまりに自然で、エレノアは思わず小さく笑ってしまった。

「慣れるものなのですか」

「慣れます」

「言い切られると反論しづらいですわ」

「反論は求めていません」

いつものように淡々と返される。

なのに、そのやり取りの最中、エレノアは自分の胸の奥が少しずつやわらかくなっていくのを感じていた。

初めてだった。

誰かとこうして、気を張らずに短いやり取りを続けられるのは。

王太子との会話はいつも、地雷の位置を読みながらだった。
父との会話は、欲しい答えを探りながらだった。
継母や義妹に至っては、最初から対等なやり取りですらない。

けれどレオンハルトとの会話には、それがない。

言葉がそのまま言葉として通る。
裏を読みすぎなくていい。
余計な芝居をしなくていい。

それだけのことが、思いのほか救いだった。

昼前、予定していた三件の確認を終えた頃には、身体にも無理が出ていないことが自分でも分かった。

疲れていないわけではない。
でも、昨日のような危うさはない。

レオンハルトが補助室へ戻ってきて、書類束を見て頷く。

「今日はここまでです」

「はい」

エレノアは素直にペンを置いた。

無理に“まだできます”と言わなかった自分に、少しだけ驚く。

それだけ、ここで気を張らずに済んでいるのかもしれない。

従者が昼の軽食を運んできた。

今日は帰宅前に少しだけ休んでいくようにと、最初からそう組まれていたらしい。窓辺の小卓に温かなスープと、切り分けられたパン、それから香りのやさしい茶が置かれる。

エレノアは椅子を移しながら、思わず言った。

「ここまでしていただくのは、さすがに申し訳ない気がしてしまいます」

向かいに立っていたレオンハルトが、少しだけ首を傾けた。

「まだ言いますか」

「……口癖のようなものかもしれません」

「なくしたほうがいい」

その言い方は、きっぱりしていた。

だが冷たくはない。

むしろ、そこに余計な遠慮がないぶん、妙に真っ直ぐだった。

エレノアはスープの湯気を見つめながら、小さく息を吐く。

「公爵様の前では、私、少し変ですわね」

「どういう意味で」

「今までなら、こんなふうに言われたらもっと身構えたと思うのです」

それは本音だった。

“なくしたほうがいい”などと父に言われれば、それは命令や叱責として胸に刺さっただろう。王太子に言われれば、面倒がられているのだと受け取ったはずだ。

けれど今は違う。

この人がそう言うとき、それは“矯正して支配したい”からではなく、“本当にそのほうが楽になる”と思っているからなのだと分かる。

だから、妙に胸へ入ってくる。

レオンハルトは少しだけ考えるような間を置いてから、静かに言った。

「身構えなくていいようにしているつもりです」

その言葉に、エレノアの手が止まった。

温かな茶を持とうとしていた指先が、ほんの少しだけ空中で揺れる。

身構えなくていいようにしている。

そんなことを、こんなにもさらりと言うのか。

照れもなく。
見返りも求めず。
ただ事実として。

エレノアはゆっくりと視線を上げた。

レオンハルトは相変わらず、いつもの静かな顔をしていた。
だからこそ、その言葉だけがまっすぐ残る。

「……そうでしたの」

ようやくそれだけ返すと、レオンハルトは頷いた。

「ええ。少なくとも、ここでは」

ここでは。

またその言葉だ。

けれど今度は、昨日よりも深く沁みた。

ここでは身構えなくていい。
ここでは無理をしなくていい。
ここでは自分を削ってまで、誰かの機嫌を先回りしなくていい。

そんな場所が、本当にあるのだと。

エレノアは茶器へ視線を落とし、少しだけ口元をやわらげた。

「……少しずつ、慣れたいと思います」

「それで十分です」

昼食を終え、帰りの支度を整える頃には、エレノアの胸の内はひどく静かだった。

何か特別なことを言われたわけではない。
手を取られたわけでも、甘い言葉を囁かれたわけでもない。

ただ、身構えなくていいようにしている、と言われただけ。

それだけなのに、今まで張り詰めていた何かが、少しだけほどけた気がした。

帰り際、玄関まで見送りに出たレオンハルトが言う。

「明日は通常通りで構いません」

「はい」

「ですが、無理はしない」

念を押すように言われ、エレノアは少し笑う。

「分かっております」

「本当に?」

「……たぶん」

すると、レオンハルトの口元がほんのわずかに動いた。

笑った、のだと思う。
声を立てるようなものではない。けれど確かに、今のは笑みだった。

それを見た瞬間、エレノアの胸の奥がふっとやわらかくなる。

この人は、こんなふうにも笑うのだ。

そのことが、なぜか少しだけ嬉しかった。

侯爵邸への帰り道、馬車の中でエレノアは窓の外を見ながら、胸の内にある感覚へそっと名前をつけようとしていた。

安心。
信頼。
気の緩み。

どれも少しずつ正しい。

けれど、たぶん一番近いのは――安堵、だった。

初めての安堵。

誰かの前で、次の一言を警戒しなくていい。
失敗したら切り捨てられるのではなく、止めてもらえる。
役に立たなければ価値がないのではなく、役に立つよう整えたうえで見てもらえる。

そんな場所で、そんな相手の前で、ほんの少しだけ肩の力を抜けること。

それが、こんなにも心を落ち着かせるのだと、エレノアは今ようやく知った。

自室へ戻ったあとも、その感覚は消えなかった。

窓辺に立ち、やわらかく傾く夕空を見上げる。

あの舞踏会の夜からまだそれほど日が経っていないのに、ずいぶん遠くまで来た気がする。

婚約を失い、家での立場を失い、長く抱えていた役目を手放した。
それだけを並べれば、転落のようにも見えるかもしれない。

けれど実際には違う。

失ったもののぶんだけ、ようやく手に入り始めたものがある。

その一つが、たぶん今胸の中にあるこの安堵なのだ。

エレノアはそっと目を閉じる。

そして胸の奥に残る温かさを、今夜はそのまま大事に抱えていた。
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