婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十七話 公爵の優しさ

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第十七話 公爵の優しさ

その日は朝から、空気が少し重かった。

春も深まり始めたというのに、王都の空は薄い雲に覆われ、窓の外の光もどこか鈍い。クラウゼン公爵家の補助室に入った瞬間、エレノアは机の上に積まれた書類の量を見て、今日は長くなると悟った。

領内商会の再編案の続き。
王都有力家への返書修正版。
夏の視察に伴う受け入れ名簿。
そして、新たに加わった領内小貴族からの陳情書の整理。

ひとつひとつは片づけられる。

だがどれも、人の感情と利害が細かく絡むものばかりだった。

「おはようございます」

いつものように挨拶をすると、隣室からレオンハルトの声が返る。

「おはようございます。今日は少し多いですが、急ぎすぎなくていい」

「承知しました」

そう答えて椅子に腰を下ろしたとき、エレノアは自分でも気づかないほど小さく息を吐いていた。

最近、自分はかなり気を張り続けている。

侯爵邸にいれば、父や継母、義妹の空気を読まなければならない。
公爵家に来れば、今度はその逆で、ちゃんと応えたいという気持ちが働く。
今までのように押しつけられる仕事ではないからこそ、きちんと役に立ちたいと思ってしまうのだ。

それは悪いことではない。

けれど、知らないうちに肩へ力が入っていた。

午前中は順調だった。

返書を二通片づけ、陳情書を優先順に分け、視察名簿の中から“表向きは穏やかだが実は同席させると面倒な顔ぶれ”を拾い上げる。

紙をめくる音。
ペンを走らせる音。
従者が必要な資料だけを運んでくる足音。

静かで、整っていて、余計な雑音がない。

それなのに、昼が近づくにつれて、エレノアは少しずつ身体の奥が重くなっていくのを感じていた。

目の焦点が、たまに紙の上でわずかに遅れる。

肩が張る。

指先が少し冷たい。

疲れているのだ、と頭のどこかでは分かっていた。

だが、まだ大丈夫だとも思っていた。

このくらいなら問題ない。
今までだって、もっとひどい状態で動いてきた。
少し無理をしたところで――。

その考えが、どれだけ危ういものかを知るのは、その少しあとだった。

昼前、家令が新しい資料を持ってきた。

「エレノア様、こちらを午後の分として」

「ありがとうございます」

受け取った瞬間、紙束の端が視界の中でわずかにぶれた。

ほんの一瞬だった。

けれど、その揺れはごまかしきれない種類のものだった。

エレノアは机に手をつく。

大丈夫。
少し立てば治る。
ただ、座りっぱなしだったせいだ。

そう思って立ち上がろうとした瞬間、視界がふっと遠のいた。

床が沈むような感覚。

次の瞬間、自分の身体が思ったよりうまく動いていないことに気づく。

「……っ」

かすかに息が漏れた。

その小さな音だけで、隣室の空気が変わった。

「エレノア嬢?」

レオンハルトの声が、すぐ近くからした。

気づけば彼は扉を開けてこちらへ来ていた。

早い。

本当に、この人はそういうところだけやたらと早い。

「大丈夫、です」

言おうとした。

だが声が少しかすれる。

立ち上がろうとした足元がわずかに崩れ、次の瞬間には支えられていた。

レオンハルトの手だった。

片腕を取られ、もう片方の手が背に回る。乱暴ではない。だがためらいもない動きだった。

「大丈夫ではありませんね」

静かな声だった。

叱っているわけでも、慌てているわけでもない。ただ、事実としてそう言っている。

エレノアは少しだけ唇を噛んだ。

「少し、立ちくらみが……」

「座れますか」

「……はい」

レオンハルトは支えたまま、窓辺の長椅子までゆっくり歩かせた。

そこへ腰を下ろすと、ようやく呼吸が少し戻る。

けれど、自分の情けなさに胸の奥がきゅっと縮んだ。

初めて本格的に任された場所で。
やっと“役に立てる”と思い始めた場所で。
こんなふうに倒れかけるなんて。

「申し訳ありません」

思わずそう言うと、レオンハルトの眉がわずかに寄った。

「なぜ謝るのです」

「仕事の途中で……」

「仕事の途中で無理をして倒れられるほうが困ります」

返答はすぐだった。

しかもごく自然で、綺麗な慰めの言葉には聞こえない。

本気でそう思っているのだと分かる声音だった。

レオンハルトは従者に短く指示を出した。

「温かいものを。甘すぎないものがいい」

「かしこまりました」

従者がすぐに下がる。

その間も、レオンハルトはエレノアから視線を外さなかった。

見張るような目ではない。
様子を見ている。
本当に、それだけの目だ。

「朝から顔色が少し違いました」

ぽつりと言われ、エレノアは少し目を見開いた。

「そうでしたか」

「ええ。ですが、あなたはたぶん“大丈夫です”と言うだろうと思った」

それを言われると返す言葉がない。

実際その通りだからだ。

今までずっとそうしてきた。

大丈夫だと言う。
平気だと見せる。
少々無理をしても、表に出さない。

それができることが、自分の価値の一部だとすら思っていた時期がある。

「……癖のようなものかもしれません」

エレノアがそう言うと、レオンハルトは静かに頷いた。

「でしょうね」

それだけ。

咎めない。

けれど見逃さない。

その距離感が、ひどく胸にしみた。

やがて従者が温かい飲み物を持ってくる。

香りのやわらかな茶に、少しだけ蜂蜜が落としてあった。

レオンハルトが受け取り、そのままエレノアへ差し出した。

「ゆっくりでいい」

エレノアは両手でカップを受け取る。

指先に、じんわりと熱が移る。

その温かさに触れた瞬間、ようやく自分が思っていた以上に冷えていたのだと気づいた。

「……お恥ずかしいところを」

また口にしかけた言葉を、レオンハルトが先に止める。

「それ以上、余計なことは言わない」

少しだけ強い口調だった。

だが不思議と怖くない。

むしろ、その言い方に少しだけ救われる。

「あなたは、無理をして立っている状態に慣れすぎている」

レオンハルトは窓の外を一度見てから続けた。

「それは長所でもあったのでしょう。ですが、ここではまずい」

ここでは。

その二文字が、やけに優しく聞こえた。

ここでは、無理を続けなくていい。
ここでは、倒れるまで働くのが前提ではない。
ここでは、支える側が倒れそうなら止める。

そう言われているのと同じだった。

エレノアはカップを持ったまま、少しだけ視線を落とす。

「今まで、止められたことがあまりありませんでした」

「でしょうね」

「むしろ、その程度でと言われることのほうが……」

最後まで言いきる前に、声が小さくなる。

情けないと思った。

こんな話をするつもりではなかったのに。

けれどレオンハルトは、そこに変な慰めを差し込まなかった。

「今後は、私が言います」

淡々とした声。

エレノアは顔を上げた。

「その程度で、ではなく?」

「休め、と」

ごく自然にそう言われて、胸の奥がじんと熱くなる。

たったそれだけのことなのに。

たった“休め”と言われるだけで、こんなにも心が揺れるなんて、自分でも可笑しいと思う。だが、それほどまでに今までの自分には無縁の言葉だったのだ。

少し沈黙が落ちた。

静かな部屋。
窓の外の薄曇り。
手の中の温かなカップ。
そして、すぐ傍に立つレオンハルトの気配。

そのどれもが、ひどく穏やかだった。

「今日は午後の分を減らします」

やがてレオンハルトが言う。

「え」

「反論は聞きません」

「ですが――」

「反論しようとしましたね」

少しだけ目を細められ、エレノアは口をつぐむ。

図星だった。

レオンハルトは続ける。

「今ここで無理をして、明日また同じことになれば意味がない。今日は切り上げます」

仕事の話として整理されると、かえって否定しづらい。

体調への気遣いであると同時に、継続のための判断でもあるからだ。

「……承知しました」

ようやくそう返すと、レオンハルトはほんのわずかに表情をやわらげた。

「素直で助かります」

「素直ではありませんわ。諦めただけです」

「それを素直と言います」

その返しがあまりに早くて、エレノアは少しだけ笑ってしまった。

笑った瞬間、自分の中の張り詰めていた糸が少し緩む。

レオンハルトも、ほんのかすかに目元をやわらげた。

午後の残り時間、エレノアは長椅子で少し休んだあと、最低限の確認だけして早めに切り上げることになった。

補助室を出る頃には、もう立ちくらみは収まっていた。
だがその代わり、別のものが胸に残っていた。

あたたかさだった。

帰りの支度をしていると、レオンハルトが玄関まで付き添った。

「明日は午前だけで構いません」

「そこまでしていただかなくても……」

「そこまでします」

きっぱり言われ、エレノアは言葉を失う。

この人は本当に、変なところで頑固だ。

「……公爵様は」

「何でしょう」

「案外、過保護ですのね」

ほんの少しだけ冗談めかして言うと、レオンハルトは数秒黙った。

そして真顔のまま答える。

「あなたが、案外無茶をするからです」

その一言に、エレノアは思わず目を瞬いた。

からかわれたわけではない。
気の利いた台詞を言ったつもりもないのだろう。
ただ本気でそう判断しているから口にした、それだけの響き。

なのに、そのまっすぐさが少しだけくすぐったい。

「……気をつけます」

そう答えると、レオンハルトは短く頷いた。

「ええ。そうしてください」

馬車に乗り込んでからも、そのやり取りがしばらく胸に残っていた。

侯爵邸へ戻る道すがら、エレノアは窓の外を見ながら、自分でもうまく整理できない感情を抱えていた。

恥ずかしかった。
情けなくもあった。
初めての場所で倒れかけるなんて、もっとしっかりしたかった。

なのに同時に、どこか満たされてもいた。

無理を見抜かれたこと。
止められたこと。
叱られるでもなく、責められるでもなく、“ここではまずい”と当然のように言われたこと。

それらが全部、自分の中のどこか深いところへ触れていた。

侯爵邸へ戻ると、玄関ホールの空気はいつも通り重かった。

だが今日は、それがあまり遠く感じなかった。

自室へ戻り、椅子へ腰を下ろす。

まだ少しだけ身体はだるい。
けれど心は不思議と静かだった。

「公爵の優しさ、ですか……」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

優しさ、という言葉が正しいのかは分からない。
もっと不器用で、もっと実務的で、けれど確かに人を見ている手つき。

それでも、自分にとっては十分すぎるほど優しかった。

エレノアはそっと目を閉じる。

今まで、気を張り続けることが当たり前だった。
だからこそ、誰かに“無理をするな”と当然のように言われるだけで、こんなにも救われるのだろう。

胸の奥にある温かさは、なかなか消えなかった。
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