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第十六話 義妹の本性
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第十六話 義妹の本性
ミレイユが再び王宮へ顔を出すようになったのは、玄関ホールでの失言から数日が過ぎた頃だった。
侯爵もヴィオラも、最初は露骨に渋い顔をした。
だが、いつまでも引っ込めておくわけにもいかない。王太子の隣に立つ娘が、少し叱られただけで王宮へ出なくなったとなれば、それはそれで弱みになる。
だから表向きは、“少し体調を崩していたが快復した”という形に整えられた。
社交界はそういう取り繕いに慣れている。
誰も本気では信じない。だが、表向きそういうことにしておけば、その場は進む。
問題は、取り繕えるのは表だけだということだった。
その日、ミレイユは王宮内の小さな控えの間で、鏡に向かって何度も微笑みの角度を直していた。
口元は柔らかく。
目は伏せすぎず。
でも出すぎた自信は見せず。
少しだけ儚く、少しだけ守ってあげたくなるように。
舞踏会の夜までは、それでよかった。
いや、それだけで十分だった。
けれど今は違う。
その微笑みの向こう側まで、見ようとする目が増えている。
「ミレイユ様、そろそろお時間です」
侍女が声をかける。
「……ええ」
立ち上がりながら、ミレイユは内心で舌打ちしたい気分だった。
最近、何もかもが面倒くさい。
どの茶会でも、どの廊下でも、どの夫人も女官も、以前のようにただ優しくしてはくれない。表面上はにこやかだ。けれど、その笑顔の奥で値踏みされているのが分かる。
しかも、その比較対象に必ず姉が出てくる。
エレノアはきちんとしていた。
エレノアなら場を乱さなかった。
エレノアは冷たいと思っていたけれど、実はよく見ていたのでは。
うるさい。
どうして今さらあの女の名前が出るの。
もう婚約は破棄されたのに。
王太子に選ばれたのは自分なのに。
それなのに、なぜ周囲はまだ“姉のほう”を思い出すのか。
小広間へ入ると、今日の顔ぶれは先日より少し年齢層が高かった。
有力侯爵家の夫人。
王妃付きの古参女官。
そして、何人かの年嵩の伯爵未亡人たち。
どの顔も穏やかそうに見える。
だが、穏やかさと優しさが同義ではないことを、ミレイユは最近ようやく知り始めていた。
「ミレイユ様、どうぞこちらへ」
勧められた席に着く。
紅茶の香りは上等だ。菓子も繊細で美しい。
けれどそれを味わう余裕は、ミレイユにはなかった。
「お加減はもうよろしいのかしら」
侯爵夫人の一人が穏やかに問う。
「はい、ご心配をおかけいたしました」
「まあ、よかったこと。まだお若いのですもの、無理は禁物ですわ」
その言い方には、気遣いと同時に別の含みがあった。
まだお若い。
つまり、未熟でもあるという前提。
ミレイユは柔らかく笑って見せる。
「ありがとうございます」
すると、別の女官が何気ない調子で言葉を継いだ。
「けれど最近は、殿下のまわりも何かとお忙しいでしょう?」
またそれだ、とミレイユは思う。
忙しい。
調整。
席順。
寄付。
返書。
どうして皆、そんなつまらない話をしたがるのか。
「ええ……少しだけ」
「ミレイユ様も、何かお力添えを?」
その問いに、ミレイユは一瞬だけ黙った。
以前なら、“殿下をお支えしたいと思っております”くらいの曖昧な返しでよかったはずだ。だが最近は、その先を見られる。
何を、どう支えるのか。
どこまで分かっているのか。
口先だけではないのか。
だから答えに詰まる。
「わ、私は……殿下のお心が少しでも安らぐようにと……」
ようやく絞り出すと、伯爵未亡人の一人がにっこり微笑んだ。
「まあ、それは大切ですわね。ですが、王太子殿下のご負担は“心”だけではありませんでしょう?」
刺された。
柔らかい言い方なのに、きっちりと。
ミレイユは扇を握る指に力を込める。
「もちろん、私も学んでおります」
「何を?」
即座に返される。
間髪を入れずに。
ミレイユは息を呑んだ。
何を、って――。
何を学んでいるのか。
礼儀作法。
歩き方。
笑い方。
返事の仕方。
そういうことなら言える。けれど今、この場で求められている答えはそれではないと分かる。
「……王宮での、振る舞いなどを」
「まあ。たとえば?」
逃げ道がない。
なぜこんなに細かく訊くのだろう。
なぜ、曖昧に微笑んで済ませてくれないのだろう。
ミレイユの中で、じわじわと苛立ちが膨らむ。
「その……皆様へのご挨拶や……」
「それは基本ですわね」
侯爵夫人が優雅に紅茶を口へ運びながら言う。
「では、春季交易祭の件では、どのようなお考えを?」
もう嫌だった。
交易祭、交易祭、交易祭。
たかが席順ではないか。
たかが招待順ではないか。
そんなものでどうして人がここまでしつこくなるのか、本当に理解できない。
だが今はまだ言えない。
言ったらまずい。
それは、前回の失敗で嫌というほど分かった。
だからミレイユは、笑って見せるしかない。
「私はまだ、勉強不足で……」
「そう」
女官の一人が静かに頷く。
それだけ。
ただ、それだけなのに。
その“そう”の中に、ああ、見切られた、と分かってしまう温度があった。
最初の頃のような期待も好奇心も、そこにはない。
ただ、“なるほど、その程度なのね”と棚へ戻されたような感覚。
ミレイユの胸に、熱いものがこみ上げる。
どうして。
どうして皆、そんな目で見るの。
選ばれたのは私でしょう?
王太子が愛しているのは私でしょう?
なのに、どうしてその事実だけでは足りないみたいに扱うの。
茶会が終わる頃には、ミレイユの笑顔はかなり引きつっていた。
控えの間へ戻ると、侍女がそっと声をかける。
「お疲れ様でございました」
その一言がなぜか癇に障った。
「疲れたに決まっているでしょう!」
侍女がびくりと身を縮める。
ミレイユは、しまった、と思ったときにはもう遅かった。
侍女だけではない。
扉の外に控えていた下働きの娘たちも、音に驚いてこちらを見ている。
「……ち、違うの。今のは」
取り繕おうとしたが、苛立ちは消えない。
侍女が恐る恐る頭を下げる。
「申し訳ございません……」
「あなたに言ったわけじゃないわ!」
強く言い返してしまい、また失敗する。
空気が完全に悪くなった。
もともとこの侍女たちは、ミレイユを心から敬っているわけではない。ただ王太子に近い令嬢だから、失礼のないように扱っているだけだ。その程度の関係なのに、ここで感情をぶつければ、すぐに向こう側へ“扱いづらい娘”という印象が残る。
ミレイユは唇を噛み、扇で口元を隠した。
どうしてこんなにうまくいかないの。
以前ならもっと簡単だった。
可愛らしくしていれば、皆が少し甘くしてくれた。
少し泣けば庇ってくれた。
笑っていれば、許してくれた。
なのに王宮では、泣いても笑っても足りない。
その日の夕方、侯爵邸ではさらに小さな波紋が広がっていた。
ヴィオラが自室で侍女たちに指示を出しているとき、一人の年配侍女が恐る恐る申し出たのだ。
「奥様、あの……最近、ミレイユ様のお部屋付きの者たちが、少々困っておりまして」
ヴィオラは眉をひそめる。
「何が」
「お気に召さないことがあると、お声が荒くなることが増えております。今朝も、髪飾りの並びが違うと――」
「そんな小さなことで、いちいち報告しなくていいわ」
ヴィオラはすぐに切り捨てた。
だが侍女は引かない。
「ですが、王宮から来られる方の前でも、少しずつ……」
そこでヴィオラの手が止まる。
王宮から来る者の前でも。
その一言の意味は軽くない。
「……あなた、それをなぜ今まで黙っていたの」
侍女は目を伏せる。
「申し上げにくく……」
「申し上げにくいではないでしょう!」
つい声を荒げたヴィオラ自身が、その瞬間はっとした。
自分も似たようなことをしている。
目の前の者へ感情をぶつける。
場より先に、苛立ちを出す。
まるでミレイユのようだ。
その気づきに、ヴィオラは顔を強張らせた。
そして同じ時刻、エレノアはクラウゼン公爵家の補助室で、一通の返書を仕上げていた。
ルーヴェル伯爵夫人への招待文だ。
二行だけ、ほんの少し言い回しを変える。
ただそれだけで、“先に立てられた”と感じる温度が生まれる。
ペンを置いたところで、レオンハルトが横から紙を見た。
「変えたのはそこだけですか」
「ええ。そこだけで十分です」
「理由は」
「相手は言葉そのものより、“誰のことを先に思い出したか”を見ますから」
レオンハルトは短く頷く。
「なるほど」
それだけの会話。
それだけで通じる。
エレノアは、ふと数日前までの自分を思い出しかけた。
あの屋敷で、王宮で、どれだけ同じようなことを考えていたか。
どこで誰を立て、どこで誰の感情を先に拾うべきか。
そして、それをいちいち口にすれば“細かい”“面倒だ”と切り捨てられてきたことを。
今、その“細かいこと”ができない者が、どこで躓いているのか。
想像するのは容易かった。
「どうかしましたか」
レオンハルトが問う。
エレノアは首を振る。
「いいえ。ただ……」
「ただ?」
「本当に、こういうことは表に出ませんのね」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「だからこそ、できない者が立つとすぐ分かる」
エレノアは小さく息を吐いた。
まさにその通りだった。
ミレイユは表の可憐さだけで立ってしまった。
けれど、その下に必要な支えがなかった。
だから少しずつ、すぐに、軋みが出る。
そして軋みが出たとき、人は初めて“前にいた者は何をしていたのか”を考え始める。
侯爵邸へ戻ったその夜、ミレイユは自室でまた癇癪を起こした。
茶会で使った扇が気に入らない。
髪飾りの色味が違う。
侍女が選んだ香油が甘すぎる。
夕食のスープが少しぬるい。
ひとつひとつは些細なことだった。
だが些細だからこそ、その苛立ちには“本当の原因”が透けて見える。
王宮で思い通りにいかなかった苛立ち。
値踏みされた悔しさ。
姉の名がまだ比較対象として出てくる不快感。
それらを、目の前の弱い相手へぶつけているだけだ。
「……もういいわ! 下がって!」
最後には、侍女がほとんど逃げるように部屋を出ていった。
ミレイユは一人残され、鏡の前で肩を上下させる。
鏡に映る自分の顔は、少しも可憐ではなかった。
頬は紅潮し、目尻はつり上がり、唇は不満げに歪んでいる。
「……こんなの」
呟いて、鏡台の上の櫛を掴みかける。
だが途中で止めた。
壊したところで何も変わらない。
変わらないのに、胸の内の苛立ちはどこにも行かない。
なぜ。
なぜ自分ばかり、こんな目に遭うの。
王太子に選ばれたのに。
欲しかったものを手に入れたはずなのに。
それなのに、どうしてまだ苦しいの。
答えは、薄々分かっている。
手に入れたのは“隣に立つ席”だけで、その席を支える力は何も持っていなかったからだ。
けれど、それを認めたくない。
認めたら、自分が奪ったものの重さを認めることになる。
姉が今まで黙って背負っていたものの価値を認めることになる。
そんなのは、絶対に嫌だった。
けれど現実は容赦しない。
使用人たちは、もう怯えた目でミレイユを見る。
王宮の女官たちは、優しそうな顔で値踏みする。
侯爵もヴィオラも、庇うより先に“これ以上問題を起こすな”という目を向ける。
“可哀想で守られるべき義妹”という仮面は、少しずつ剥がれ始めていた。
そしてその下から見えてくるのは、他人に当たり散らすだけの、幼く狭い本性だった。
ミレイユが再び王宮へ顔を出すようになったのは、玄関ホールでの失言から数日が過ぎた頃だった。
侯爵もヴィオラも、最初は露骨に渋い顔をした。
だが、いつまでも引っ込めておくわけにもいかない。王太子の隣に立つ娘が、少し叱られただけで王宮へ出なくなったとなれば、それはそれで弱みになる。
だから表向きは、“少し体調を崩していたが快復した”という形に整えられた。
社交界はそういう取り繕いに慣れている。
誰も本気では信じない。だが、表向きそういうことにしておけば、その場は進む。
問題は、取り繕えるのは表だけだということだった。
その日、ミレイユは王宮内の小さな控えの間で、鏡に向かって何度も微笑みの角度を直していた。
口元は柔らかく。
目は伏せすぎず。
でも出すぎた自信は見せず。
少しだけ儚く、少しだけ守ってあげたくなるように。
舞踏会の夜までは、それでよかった。
いや、それだけで十分だった。
けれど今は違う。
その微笑みの向こう側まで、見ようとする目が増えている。
「ミレイユ様、そろそろお時間です」
侍女が声をかける。
「……ええ」
立ち上がりながら、ミレイユは内心で舌打ちしたい気分だった。
最近、何もかもが面倒くさい。
どの茶会でも、どの廊下でも、どの夫人も女官も、以前のようにただ優しくしてはくれない。表面上はにこやかだ。けれど、その笑顔の奥で値踏みされているのが分かる。
しかも、その比較対象に必ず姉が出てくる。
エレノアはきちんとしていた。
エレノアなら場を乱さなかった。
エレノアは冷たいと思っていたけれど、実はよく見ていたのでは。
うるさい。
どうして今さらあの女の名前が出るの。
もう婚約は破棄されたのに。
王太子に選ばれたのは自分なのに。
それなのに、なぜ周囲はまだ“姉のほう”を思い出すのか。
小広間へ入ると、今日の顔ぶれは先日より少し年齢層が高かった。
有力侯爵家の夫人。
王妃付きの古参女官。
そして、何人かの年嵩の伯爵未亡人たち。
どの顔も穏やかそうに見える。
だが、穏やかさと優しさが同義ではないことを、ミレイユは最近ようやく知り始めていた。
「ミレイユ様、どうぞこちらへ」
勧められた席に着く。
紅茶の香りは上等だ。菓子も繊細で美しい。
けれどそれを味わう余裕は、ミレイユにはなかった。
「お加減はもうよろしいのかしら」
侯爵夫人の一人が穏やかに問う。
「はい、ご心配をおかけいたしました」
「まあ、よかったこと。まだお若いのですもの、無理は禁物ですわ」
その言い方には、気遣いと同時に別の含みがあった。
まだお若い。
つまり、未熟でもあるという前提。
ミレイユは柔らかく笑って見せる。
「ありがとうございます」
すると、別の女官が何気ない調子で言葉を継いだ。
「けれど最近は、殿下のまわりも何かとお忙しいでしょう?」
またそれだ、とミレイユは思う。
忙しい。
調整。
席順。
寄付。
返書。
どうして皆、そんなつまらない話をしたがるのか。
「ええ……少しだけ」
「ミレイユ様も、何かお力添えを?」
その問いに、ミレイユは一瞬だけ黙った。
以前なら、“殿下をお支えしたいと思っております”くらいの曖昧な返しでよかったはずだ。だが最近は、その先を見られる。
何を、どう支えるのか。
どこまで分かっているのか。
口先だけではないのか。
だから答えに詰まる。
「わ、私は……殿下のお心が少しでも安らぐようにと……」
ようやく絞り出すと、伯爵未亡人の一人がにっこり微笑んだ。
「まあ、それは大切ですわね。ですが、王太子殿下のご負担は“心”だけではありませんでしょう?」
刺された。
柔らかい言い方なのに、きっちりと。
ミレイユは扇を握る指に力を込める。
「もちろん、私も学んでおります」
「何を?」
即座に返される。
間髪を入れずに。
ミレイユは息を呑んだ。
何を、って――。
何を学んでいるのか。
礼儀作法。
歩き方。
笑い方。
返事の仕方。
そういうことなら言える。けれど今、この場で求められている答えはそれではないと分かる。
「……王宮での、振る舞いなどを」
「まあ。たとえば?」
逃げ道がない。
なぜこんなに細かく訊くのだろう。
なぜ、曖昧に微笑んで済ませてくれないのだろう。
ミレイユの中で、じわじわと苛立ちが膨らむ。
「その……皆様へのご挨拶や……」
「それは基本ですわね」
侯爵夫人が優雅に紅茶を口へ運びながら言う。
「では、春季交易祭の件では、どのようなお考えを?」
もう嫌だった。
交易祭、交易祭、交易祭。
たかが席順ではないか。
たかが招待順ではないか。
そんなものでどうして人がここまでしつこくなるのか、本当に理解できない。
だが今はまだ言えない。
言ったらまずい。
それは、前回の失敗で嫌というほど分かった。
だからミレイユは、笑って見せるしかない。
「私はまだ、勉強不足で……」
「そう」
女官の一人が静かに頷く。
それだけ。
ただ、それだけなのに。
その“そう”の中に、ああ、見切られた、と分かってしまう温度があった。
最初の頃のような期待も好奇心も、そこにはない。
ただ、“なるほど、その程度なのね”と棚へ戻されたような感覚。
ミレイユの胸に、熱いものがこみ上げる。
どうして。
どうして皆、そんな目で見るの。
選ばれたのは私でしょう?
王太子が愛しているのは私でしょう?
なのに、どうしてその事実だけでは足りないみたいに扱うの。
茶会が終わる頃には、ミレイユの笑顔はかなり引きつっていた。
控えの間へ戻ると、侍女がそっと声をかける。
「お疲れ様でございました」
その一言がなぜか癇に障った。
「疲れたに決まっているでしょう!」
侍女がびくりと身を縮める。
ミレイユは、しまった、と思ったときにはもう遅かった。
侍女だけではない。
扉の外に控えていた下働きの娘たちも、音に驚いてこちらを見ている。
「……ち、違うの。今のは」
取り繕おうとしたが、苛立ちは消えない。
侍女が恐る恐る頭を下げる。
「申し訳ございません……」
「あなたに言ったわけじゃないわ!」
強く言い返してしまい、また失敗する。
空気が完全に悪くなった。
もともとこの侍女たちは、ミレイユを心から敬っているわけではない。ただ王太子に近い令嬢だから、失礼のないように扱っているだけだ。その程度の関係なのに、ここで感情をぶつければ、すぐに向こう側へ“扱いづらい娘”という印象が残る。
ミレイユは唇を噛み、扇で口元を隠した。
どうしてこんなにうまくいかないの。
以前ならもっと簡単だった。
可愛らしくしていれば、皆が少し甘くしてくれた。
少し泣けば庇ってくれた。
笑っていれば、許してくれた。
なのに王宮では、泣いても笑っても足りない。
その日の夕方、侯爵邸ではさらに小さな波紋が広がっていた。
ヴィオラが自室で侍女たちに指示を出しているとき、一人の年配侍女が恐る恐る申し出たのだ。
「奥様、あの……最近、ミレイユ様のお部屋付きの者たちが、少々困っておりまして」
ヴィオラは眉をひそめる。
「何が」
「お気に召さないことがあると、お声が荒くなることが増えております。今朝も、髪飾りの並びが違うと――」
「そんな小さなことで、いちいち報告しなくていいわ」
ヴィオラはすぐに切り捨てた。
だが侍女は引かない。
「ですが、王宮から来られる方の前でも、少しずつ……」
そこでヴィオラの手が止まる。
王宮から来る者の前でも。
その一言の意味は軽くない。
「……あなた、それをなぜ今まで黙っていたの」
侍女は目を伏せる。
「申し上げにくく……」
「申し上げにくいではないでしょう!」
つい声を荒げたヴィオラ自身が、その瞬間はっとした。
自分も似たようなことをしている。
目の前の者へ感情をぶつける。
場より先に、苛立ちを出す。
まるでミレイユのようだ。
その気づきに、ヴィオラは顔を強張らせた。
そして同じ時刻、エレノアはクラウゼン公爵家の補助室で、一通の返書を仕上げていた。
ルーヴェル伯爵夫人への招待文だ。
二行だけ、ほんの少し言い回しを変える。
ただそれだけで、“先に立てられた”と感じる温度が生まれる。
ペンを置いたところで、レオンハルトが横から紙を見た。
「変えたのはそこだけですか」
「ええ。そこだけで十分です」
「理由は」
「相手は言葉そのものより、“誰のことを先に思い出したか”を見ますから」
レオンハルトは短く頷く。
「なるほど」
それだけの会話。
それだけで通じる。
エレノアは、ふと数日前までの自分を思い出しかけた。
あの屋敷で、王宮で、どれだけ同じようなことを考えていたか。
どこで誰を立て、どこで誰の感情を先に拾うべきか。
そして、それをいちいち口にすれば“細かい”“面倒だ”と切り捨てられてきたことを。
今、その“細かいこと”ができない者が、どこで躓いているのか。
想像するのは容易かった。
「どうかしましたか」
レオンハルトが問う。
エレノアは首を振る。
「いいえ。ただ……」
「ただ?」
「本当に、こういうことは表に出ませんのね」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「だからこそ、できない者が立つとすぐ分かる」
エレノアは小さく息を吐いた。
まさにその通りだった。
ミレイユは表の可憐さだけで立ってしまった。
けれど、その下に必要な支えがなかった。
だから少しずつ、すぐに、軋みが出る。
そして軋みが出たとき、人は初めて“前にいた者は何をしていたのか”を考え始める。
侯爵邸へ戻ったその夜、ミレイユは自室でまた癇癪を起こした。
茶会で使った扇が気に入らない。
髪飾りの色味が違う。
侍女が選んだ香油が甘すぎる。
夕食のスープが少しぬるい。
ひとつひとつは些細なことだった。
だが些細だからこそ、その苛立ちには“本当の原因”が透けて見える。
王宮で思い通りにいかなかった苛立ち。
値踏みされた悔しさ。
姉の名がまだ比較対象として出てくる不快感。
それらを、目の前の弱い相手へぶつけているだけだ。
「……もういいわ! 下がって!」
最後には、侍女がほとんど逃げるように部屋を出ていった。
ミレイユは一人残され、鏡の前で肩を上下させる。
鏡に映る自分の顔は、少しも可憐ではなかった。
頬は紅潮し、目尻はつり上がり、唇は不満げに歪んでいる。
「……こんなの」
呟いて、鏡台の上の櫛を掴みかける。
だが途中で止めた。
壊したところで何も変わらない。
変わらないのに、胸の内の苛立ちはどこにも行かない。
なぜ。
なぜ自分ばかり、こんな目に遭うの。
王太子に選ばれたのに。
欲しかったものを手に入れたはずなのに。
それなのに、どうしてまだ苦しいの。
答えは、薄々分かっている。
手に入れたのは“隣に立つ席”だけで、その席を支える力は何も持っていなかったからだ。
けれど、それを認めたくない。
認めたら、自分が奪ったものの重さを認めることになる。
姉が今まで黙って背負っていたものの価値を認めることになる。
そんなのは、絶対に嫌だった。
けれど現実は容赦しない。
使用人たちは、もう怯えた目でミレイユを見る。
王宮の女官たちは、優しそうな顔で値踏みする。
侯爵もヴィオラも、庇うより先に“これ以上問題を起こすな”という目を向ける。
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