婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第十五話 焦る王太子

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第十五話 焦る王太子

王太子アルヴィスは、その日の午後、執務机の前で露骨に機嫌を損ねていた。

机の上には未処理の書類が山のように積まれている。
南方伯家への再返書。
春季交易祭の席次修正版。
北部修道院への追加後援案。
さらに、そのどれにも絡んでくる細かな確認事項。

以前なら、こうしたものはもっと整った形で自分の前へ届いていた。読むべき箇所だけが示され、判断すべき点だけが浮き上がり、面倒な前段はすでに済んでいた。

だが今は違う。

何もかもが未整理のまま来る。

しかも、その未整理の束の向こうに、誰かが頭を下げて片づけてくれる気配もない。

「……くだらん」

吐き捨てるようにそう言って、アルヴィスは一通の返書を机へ放った。

書記官が肩を震わせる。

「これで何通目だ」

「南方伯家への案としては、四通目にございます」

「四通も作って、まだ正解が出ぬのか」

最年長の側近が慎重に口を開く。

「正解というより、どの程度まで譲るかのお話でして……」

「だからその言い方が面倒だと言っている!」

アルヴィスの声が室内に響いた。

「待たせた程度でいつまでも不機嫌なほうがおかしいだろう。こちらが王家なのだぞ」

その一言に、部屋の空気が冷える。

誰も表情は変えない。

けれど、今の発言がどれほど危ういかを理解していない者はここにはいなかった。

王家だからこそ、軽く扱えない相手がいる。
王家だからこそ、形式や配慮が必要になる。
その当たり前が分からないまま、よくここまで大きく転ばずに来られたものだと、側近たちは同じことを思う。

そして最近、その理由も分かり始めていた。

アルヴィスは苛立ったまま椅子にもたれた。

「交易祭の件はどうなった」

「席次は再調整中ですが、東部侯家が“南方伯家を迂回して自分たちに配慮した形に見えないなら意味がない”と」

「意味がない?」

アルヴィスは眉を寄せる。

「隣でなければいいだけだろう」

誰もすぐには答えなかった。

“隣でなければいいだけ”で済まないから、ここまで揉めているのだ。

席順は位置だけではない。
誰を先に通し、誰を後に見せるか。
誰の視線の先に誰を置くか。
どの家が“立てられた”と感じ、どの家が“配慮された”と思うか。

そういうものが重なって、ようやく場は成り立つ。

だがアルヴィスにとっては、全部ただの面倒な飾りでしかない。

そのとき、扉の外から短いノックが響いた。

侍従が入ってきて、深く頭を下げる。

「殿下、王妃殿下付きの女官よりご伝言が」

「何だ」

「本日の夕刻、王妃殿下よりお時間をいただきたいとのことです」

アルヴィスの顔が一瞬で曇る。

「また母上か」

苛立ったような声だった。

だがその声の奥に、わずかな警戒が混じったのを側近たちは聞き逃さなかった。

前日に王妃セシリアから真正面から失望を告げられて以来、アルヴィスは露骨には反抗しきれなくなっている。理解したわけではない。ただ、母が本気で見限り始めている気配だけは察したのだろう。

「分かった。あとで行く」

侍従が下がる。

そのあと、室内には一瞬だけ重い沈黙が落ちた。

アルヴィスは舌打ちし、別の書類を引き寄せた。

「……それで、北部修道院の件は」

だが、話を進めても進めても、すぐにどこかで詰まる。

そのもどかしさが、今の彼には耐え難かった。

夕刻前、王宮内の回廊を歩きながら、アルヴィスは苛立ちを抱え込んでいた。

窓の外には春の庭が広がり、噴水の水がやわらかく光っている。景色は穏やかだったが、彼の内側はまるで穏やかではない。

最近、何もかもが思い通りにいかない。

書類は増える。
貴族たちは面倒なことばかり言う。
ミレイユは可愛いが、肝心なところでは役に立たない。
母はやけに冷たい。
そして、周囲の視線まで少しずつ変わってきている。

それが何より気に入らなかった。

最初は皆、自分の決断を称賛していたはずだ。真実の愛を選んだ王太子。冷たい婚約者を捨て、可憐な娘を救った男。

そのはずなのに、最近ではその空気が薄れている。

代わりに聞こえてくるのは、妙な噂だ。

フェルベルク侯爵令嬢は実務に強かったらしい。
クラウゼン公爵家で手腕を見せているらしい。
王太子のまわりが崩れたのは、彼女がいなくなったからでは。

くだらない。

そう思う。

思うのに、耳に入るたび苛立つ。

どうして今さら、あの女の名が出るのか。

たしかにエレノアは、細かいことには妙に口を出していた。
席順だの文言だの寄付の配分だの、そんなものばかり気にしていた。
だが、それだけだ。
それだけのはずだ。

なのに今、周囲はまるで“その細かいこと”がなければ王宮が回らなかったように言い始めている。

ありえない。

……本当に、ありえないのか?

ふいに胸の奥をかすめた疑問を、アルヴィスはすぐに振り払った。

考えたくなかった。

考えてしまえば、自分が当然のように受け取っていたものの多くが、実は自分の力ではなかったと認めることになる。

そんなのは不快だ。

王妃の私室に着くと、女官が静かに案内した。

「殿下、こちらへ」

セシリアは前日と同じく、落ち着いた表情で座っていた。

「来たのね」

「お呼びとのことでしたので」

アルヴィスは一礼するが、その声音には疲れと苛立ちが残っている。

王妃はそれを一目で見抜いたのだろう。すぐに本題へ入った。

「最近の王宮内の空気、どう感じている?」

また同じような問いか、とアルヴィスは内心でうんざりした。

「皆、少し騒ぎすぎです」

そう答えると、王妃はわずかに目を伏せた。

失望したときの仕草だと、アルヴィスにも分かる。

「……では、別の聞き方をするわ」

セシリアはゆっくり言う。

「あなた、最近エレノア嬢の名を耳にすることが増えたでしょう」

アルヴィスの表情がぴくりと動く。

図星だった。

「それが何です」

「どうして増えたと思うの」

「クラウゼン公爵が面白がっているのでしょう」

ほとんど反射だった。

そういうことにしておきたかった。

だが王妃は首を振る。

「あの方は、面白がって人を持ち上げるような方ではないわ」

「では何だと」

「実際に役に立っているから、噂が変わり始めたのよ」

アルヴィスは顔をしかめた。

「母上まで、あの女を……」

「あの女、ではありません」

王妃の声が低くなる。

「少なくとも今のあなたより、周囲が何を見ているかを理解していた娘よ」

その言い方がひどく癪に障った。

アルヴィスは唇を噛む。

「だから何だというのです。婚約者にその程度のことができたからといって、私の判断が間違いだったことにはならない」

王妃はしばらく息子を見つめ、それから静かに言った。

「あなたは今、“婚約者にその程度のこと”と言ったわね」

「事実でしょう」

「いいえ。事実ではないわ」

セシリアの声音には、もうほとんど温度がなかった。

「あの子がしていたのは、その程度ではない。だから今、あなたのまわりでこれだけ綻びが見えているのよ」

アルヴィスは視線を逸らす。

分かりたくない。

だが、最近の不都合の数々が、母の言葉を完全には否定させてくれない。

「……仮にそうだとしても」

ややあって、アルヴィスは苦い声で言った。

「今さらどうしろというのです。もう婚約は破棄した」

王妃は少しだけ眉をひそめた。

「ようやく、そこに思い至ったのね」

その返しに、アルヴィスはかっとなる。

「馬鹿にしているのですか」

「いいえ。ただ確認しただけよ。あなたが自分のしたことを“やり直せないこと”として認識し始めたのかどうかを」

やり直せない。

その言葉が妙に重く胸へ落ちる。

たしかに、舞踏会の夜は勢いもあった。ミレイユの涙も、会場の視線も、自分の高揚もあった。あのときは、あれで正しいと思っていた。

だが今は違う。

正しいかどうかはともかく、“簡単には戻せない”ことだけは分かる。

もし今さらエレノアを呼び戻そうとすれば、周囲はどう見るだろう。
ミレイユはどう反応するだろう。
そして何より、エレノア本人が応じると思えるのか。

……思えない。

王妃は立ち上がった。

「焦っているのでしょう、あなた」

アルヴィスは反論しかけて、できなかった。

焦っている。

それは事実だった。

書類が回らないことに。
周囲が自分を支えなくなったことに。
噂の向きが変わり始めたことに。
そして、エレノアという存在が、自分の想像以上に“失ってまずいもの”だったかもしれないことに。

何もかもが、焦りの種だった。

セシリアは息子の顔を見て、淡々と言う。

「焦りは判断を鈍らせるわ。今のあなたに必要なのは、感情で動くことではなく、自分が何を失ったのかを正確に見ることよ」

それだけ言って、王妃は会話を終わらせた。

もはや慰めも叱責もない。ただ、考えろと突き放しているだけだ。

部屋を出たあと、アルヴィスはしばらく回廊に立ち尽くしていた。

窓の外では夕日が庭を染め始めている。

焦っている。

母に言われたその一言が、妙に耳に残っていた。

否定したかった。

だが否定できない。

最近、自分はあまりに苛立ちやすい。
小さな行き違いにも腹が立つ。
噂の断片にさえ反応してしまう。
そして何より、“エレノアの名”がどこかで持ち上がるたびに、ひどく落ち着かなくなる。

それは嫉妬なのか。
苛立ちなのか。
あるいは、自分の見落としを突きつけられる不快感なのか。

分からない。

分からないが、不愉快だった。

「殿下?」

控えていた侍従が声をかける。

アルヴィスははっとして歩き出した。

「……何でもない」

何でもなくはない。

だが、それを口にする気にはなれなかった。

その夜、アルヴィスは執務机に向かいながらも、何度も同じ一文で手を止めた。

南方伯家への返書の文面だ。

穏便に。
しかし弱く見えず。
譲りすぎず。
かといって挑発にもならず。

そんな都合のいい言い回しが、今の自分には見つけられない。

以前なら、どこからともなく“ちょうどいい形”が出てきたのに。

ペン先が紙の上で止まる。

そしてふと、あの冷ややかに整った横顔が脳裏に浮かんだ。

舞踏会の夜、泣きもせずに「承知いたしました」と言った女。
いつも口うるさく細かいことを指摘してきた婚約者。
冷たいと思っていたその女が、今は社交界で“有能な令嬢”として語られている。

「……馬鹿らしい」

吐き捨てた声は、自分で思うより低かった。

だが、その言葉には以前ほど確信がなかった。

焦る王太子。

もし誰かがそう呼んだとしても、今のアルヴィスには否定しきれない。

なぜなら彼自身が、ようやく気づき始めていたからだ。

自分のまわりから消えたものの大きさに。

そして、その不在を埋められる者が、今の自分の手元にはもういないかもしれないという事実に。
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