婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第二十四話 もう戻れない

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第二十四話 もう戻れない

ミレイユの告白めいた叫びが書斎に落ちてから、しばらく誰も動かなかった。

欲しかっただけ。

そのあまりに幼く、あまりに身勝手な本音は、かえって言い訳の余地を奪っていた。
もし泣きながら無実を訴えられたなら、ヴィオラはまだ庇えたかもしれない。
侯爵もまた、“証拠が足りぬ”と怒鳴って棚上げにできたかもしれない。

けれど今のミレイユは違った。

お姉様のものが欲しかった。
だから奪った。
その裏に何があるかは考えなかった。

そこまで口にしてしまえば、もう“誤解”でも“子供の嫉妬”でも済まない。

侯爵は額を押さえたまま、低く言った。

「……下がれ」

ミレイユが目を見開く。

「お父様……」

「聞こえなかったのか。下がれと言った」

その声音には、もはや怒りよりも疲れが滲んでいた。

怒鳴る気力すら削られているのだろう。
それでもその一言だけは、今までより重かった。

ミレイユは泣きそうに唇を震わせたが、誰も助け船を出さない。
ヴィオラでさえ、もう何をどう言えばよいのか分からない顔で立ち尽くしている。

やがてミレイユは、エレノアを一瞬だけ睨むように見た。

その目には、悔しさと惨めさと、それでもまだどこか“どうして私だけが悪いことになるの”という理不尽な不満が混じっていた。

けれど、その視線も長くは続かない。

侯爵がもう一度低く言う。

「下がれ」

今度こそ、ミレイユは何も言えずに身を翻した。

扉が閉まる。

そのあとに残った静けさは、重く、冷たかった。

ヴィオラが椅子へ崩れるように腰を落とす。

「こんな……こんなはずじゃ……」

その呟きに、エレノアの心は動かなかった。

こんなはずじゃない。

本当にそうなのだろう。
ヴィオラはきっと、ここまで大きなものを壊すつもりではなかった。
少し娘を優位にしたい。
少し長女の影を薄くしたい。
その軽い欲と甘さの積み重ねが、こうして家の信用まで削っている。

だが、“つもりではなかった”ことに、どれほどの意味があるだろう。

侯爵はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。

その目は、ひどく老いて見えた。

「……エレノア」

「はい」

「この件は……」

そこで言葉が止まる。

何を言いたいのか、自分でも定まらないのだろう。
長女に謝るべきなのか。
協力を求めるべきなのか。
それとも、このまま家の内側で収める道を探るべきなのか。

迷いと打算が、侯爵の顔の上でせめぎ合っていた。

だがエレノアは助けなかった。

もう、父の言葉を先回りして整えてやる気はない。

侯爵は結局、ひどく苦い声で言った。

「……しばらく、ベルタとマリアンヌは屋敷に留める」

「それがよろしいかと」

「外へ出されれば、余計な噂になる」

エレノアはその言葉に、ほんの少しだけ目を細めた。

やはりそこから始まるのか、と思う。

真っ先に出るのが、“この二人を守る”ではなく“外へ出されれば噂になる”なのだから。

けれど今さら驚きはしない。

「二人の身の安全は、きちんとお約束ください」

静かにそう言うと、侯爵は一瞬言葉に詰まり、やがて渋く頷いた。

「……分かっている」

本当に分かっているかどうかは怪しい。
だが少なくとも、今はそう言うしかないのだろう。

エレノアはそれ以上何も言わず、一礼して書斎を出た。

廊下へ出た途端、肺の奥に溜まっていた空気が少し抜ける。

疲れた。

怒鳴られたわけでも、責められたわけでもない。
それでも、あの書斎に満ちていた“崩れゆく家の気配”は、ひどく重かった。

窓辺で足を止める。

庭は夕暮れに沈みかけ、噴水の水音だけが妙に鮮やかに聞こえた。

マリアンヌとベルタの証言。
ミレイユの本音。
ヴィオラの黙認。
そして、ようやくそれを知って青ざめる侯爵。

もう戻れないのは、誰だろうとエレノアは思う。

婚約を失った自分か。
姉の立場を壊した義妹か。
それとも、長女を便利に使いながら家を保ってきた侯爵家そのものか。

おそらく、全部だ。

ただし、その“戻れなさ”の意味はそれぞれ違う。

自分はもう、以前のように黙って差し出す娘には戻らない。
ミレイユはもう、可哀想で守られるだけの義妹には戻れない。
侯爵家もまた、何事もなかったような顔で“堅実な家”を装うだけの段階には戻れない。

その事実だけが、静かに胸へ落ちていった。

翌日、王宮では別の意味で空気がざわついていた。

晩餐会の一件が尾を引いているだけではない。
南方伯家との距離の広がりに加え、交易祭の共同席再考の話まで流れ始めたことで、ついに周囲の貴族たちが“本気で測り始めた”のだ。

王太子アルヴィスは、その朝も執務室で苛立っていた。

「結局、南方伯家は何を望んでいるのだ」

返書の控えを机へ叩きつける。

側近の一人が慎重に答える。

「望みというより、殿下側がどう出るかを見ておられるのかと」

「だから、その言い方が回りくどい!」

「ですが……」

「もっと単純にできぬのか!」

誰も返せない。

単純にできないから厄介なのだ。

南方伯家だけではない。
東部侯家も、北部修道院も、王妃の実家筋も、今は王太子側の対応を見ている。
ここで軽い返しをすればさらに信用を失うし、かといって大げさに謝れば“ようやく焦ったか”と見られる。

そういう細い橋を、今のアルヴィスは渡れない。

そしてそれを、周囲も分かり始めている。

「殿下」

最年長の側近が、いつもより少しだけ思い切った声で言った。

「一つ、進言がございます」

アルヴィスが苛立った顔で見る。

「何だ」

「……フェルベルク侯爵令嬢を、今一度お呼びになるべきかと」

その瞬間、執務室の空気が変わった。

何人かの書記官が息を止める。
侍従たちも顔を伏せる。

そこへついに触れたか、と皆が思ったのだろう。

アルヴィスの顔が険しくなる。

「今さら何を言う」

「今さらだからこそ、です」

側近は退かなかった。

「殿下の周囲がここまで乱れている以上、せめて一度、話を」

「話してどうする」

「少なくとも、何を失ったのかを――」

「黙れ!」

アルヴィスの怒声が響く。

「私はあの女を切ったのだ! 今さら戻れと言えば、こちらが間違っていたと認めることになるだろう!」

その叫びに、側近は一瞬だけ黙った。

だが部屋の中の多くが、内心ではこう思ったはずだ。

もう、間違っていたことは皆が知り始めている、と。

表向き認めていないのは、本人だけだ。

アルヴィスは荒い呼吸のまま椅子にもたれた。

「……ただ」

数秒の沈黙のあと、低く続ける。

「あの女が今、公爵家で何をしているのかは知りたい」

それが本音だったのだろう。

戻れと言いたいのではない。
だが知りたい。
本当にそんなに有能なのか。
今、自分のまわりで起きている不都合と、どこまで関係があるのか。
そして何より、自分の手から離れた女が、別の男のもとで価値を認められているという事実が、ひどく落ち着かないのだ。

「呼べ」

ぽつりとアルヴィスが言う。

「……話くらいは聞いてやる」

その言い方に、側近たちは誰も何も言わなかった。

話を聞いてやる。

まだそんな言い方をするのか、と胸の内で思っても、口には出せない。

だが命は命だ。

その日の夕刻、フェルベルク侯爵邸には王宮からの使いが来た。

王太子殿下が、エレノア・フェルベルク侯爵令嬢に面会を求めている――と。

使者の到着が伝えられたとき、侯爵は露骨に顔を変えた。

「殿下が、エレノアに……?」

ヴィオラも目を見開く。

そこへ呼ばれたエレノアは、伝言を聞いたあと、ほんの少しだけ沈黙した。

王太子が自分を呼ぶ。

いずれあるかもしれないとは思っていた。
王宮の混乱がここまで表へ出てしまえば、誰かが最後には“失ったもの”を見に来る。

だが思っていた以上に早かった。

「お受けになりますか」

執事が静かに問う。

侯爵もヴィオラも、息を潜めるようにしてエレノアの返答を待っていた。

家のためには、受けてほしいのだろう。
王太子との関係が少しでも戻れば、侯爵家の傷も浅くなる。
たとえ婚約が戻らなくとも、“まだ話せる間柄”というだけで外からの見え方は変わる。

そんな打算が、二人の顔にありありと浮かんでいた。

だがエレノアは、その視線を正面から受けたまま、静かに言った。

「お断りします」

侯爵が息を呑む。

「な……」

「面会の理由が分かりませんもの」

エレノアは続ける。

「婚約はすでに破棄されております。今さら私が個人的にお目にかかる理由はございません」

侯爵が顔をしかめる。

「だが、王太子殿下のご要請だぞ」

「ええ。ですから、正式な用件がおありなら文書でいただければよろしいかと」

その返しに、侯爵は何も言えなかった。

正しいからだ。

もう婚約者でも何でもない以上、“個人的に呼ばれたから行く”ほうがよほど不自然になる。

ヴィオラが慌てたように口を挟む。

「で、でも、あちらは殿下なのよ?」

「私は侯爵家の娘であり、公爵家の実務補佐でもあります」

エレノアは穏やかに言った。

「理由の曖昧な私的面会には応じられません」

その言葉の中に、“私はもう以前の立場ではない”という意思がはっきりとあった。

侯爵は苦々しい顔で黙り込む。

もはや強制はできない。
それをしてしまえば、今のエレノアは家の中で黙るだけの娘ではないと、彼自身が一番よく分かり始めているからだ。

結局、使いには丁寧な断りが返された。

正式な用件がない以上、お受けできない。
必要があれば書面で。

それは礼を失してはいない。
だが同時に、はっきりと距離を示す返答でもあった。

王宮へ戻った使いの報告を聞いて、アルヴィスは露骨に顔を歪めた。

「断っただと?」

「はい……その、正式なご用件であれば文書を、と」

アルヴィスは椅子から立ち上がった。

「何様のつもりだ!」

怒声が執務室に響く。

だがその声には、怒りだけではなく、傷ついたような響きも混じっていた。
まさか、本当に断られるとは思っていなかったのだろう。

いや、頭ではありうると分かっていても、心のどこかで“呼べば来る”と考えていたのかもしれない。
長く自分の後始末をしてきた婚約者。
都合が悪くなれば戻ってきて当然の存在。
そんなふうに。

「殿下」

最年長の側近が低く言う。

「当然の返答かと」

「どこがだ!」

「……すでに婚約は破棄されておりますので」

アルヴィスは言葉を失った。

その事実を突きつけられるたび、彼の中で何かが鈍く軋むのだろう。
婚約破棄は、自分がしたことだ。
だが、した瞬間から“もうこちらの都合では呼べない相手になる”ところまで、きちんと考えてはいなかった。

「なら、侯爵家へ行く」

突然そう言い出し、側近たちは一斉に顔を変えた。

「殿下、それは――」

「文句があるのか」

「いえ、しかし……」

止めるのは難しかった。

アルヴィスが感情に任せて動き出したとき、それを真正面から止められる者は少ない。
しかも今の彼は、焦りと苛立ちと、傷ついた自尊心まで混ざっている。

だからその日のうちに、王太子の馬車はフェルベルク侯爵邸へ向かった。

到着の報せを受けて、侯爵もヴィオラも顔色を変えた。

「殿下が、こちらへ……!」

慌てて応接間が整えられ、使用人たちが走る。

エレノアはその報せを、自室で静かに聞いた。

少しも驚かなかったわけではない。
だが同時に、“やはりそう来るのね”という冷めた感想もあった。

断られたから自分で来る。
その強引さも、自分の求める形で答えが返らないと次の手で押すやり方も、いかにもアルヴィスらしい。

「お嬢様……」

侍女が不安げに見る。

エレノアは立ち上がり、ドレスの裾を整えた。

「会うわ」

「よろしいのですか」

「断っても、また別の形で押してくるでしょう」

そして何より、ここで一度きちんと終わらせておく必要がある。

応接間へ入ると、アルヴィスはすでに苛立った顔で立っていた。

侯爵とヴィオラがその少し後ろに控えている。
二人とも、王太子の機嫌を損ねないことしか考えていない顔だった。

その光景を見た瞬間、エレノアの胸の中にひどく静かなものが広がる。

本当に、もう戻れないのだと思った。

以前ならこの場で、自分は真っ先に王太子の機嫌を読み、父の顔色をうかがい、継母の思惑まで織り込んで言葉を選んでいたはずだ。
けれど今は違う。

その必要を感じない。

「ごきげんよう、殿下」

一礼する。

アルヴィスはその落ち着きが気に入らないらしく、苛立ったまま言った。

「なぜ断った」

挨拶もなく、いきなりそれだった。

「正式な用件が不明でしたので」

「私は呼んだのだぞ」

「ええ。ですから、正式な用件を文書でと申し上げました」

「……相変わらず理屈っぽい女だ」

エレノアは少しも顔色を変えなかった。

むしろ、その言葉さえ今は懐かしいほどだった。

「ご用件は何でしょう」

そう促すと、アルヴィスは一瞬だけ言葉に詰まった。

実際、ここまで来ておいて、“用件”をきちんと定めていなかったのだろう。
会って話せば何とかなると思っていたのかもしれない。
まるで昔のように。

数秒の沈黙のあと、彼はようやく口を開く。

「……最近、王宮のまわりが妙に騒がしい」

「存じております」

「お前も耳にしているなら話は早い。ああいう細かなことに、お前は詳しかっただろう」

“詳しかった”。

その言い方に、侯爵もヴィオラも表情を強張らせる。
つまり今、王太子自身が“エレノアがそれをしていた”と認めかけているのだ。

エレノアはただ静かに見返した。

アルヴィスは続ける。

「だから……少し、話を聞いてやってもいい」

聞いてやってもいい。

そこまで言われて、エレノアは初めて、ほんの少しだけ笑った。

侮蔑ではない。
ただ、あまりにも変わっていなくて、乾いた笑いがこぼれただけだった。

アルヴィスの顔が険しくなる。

「何がおかしい」

「いいえ」

エレノアは首を振る。

「ただ、本当に殿下は何もお変わりにならないのだと思いまして」

「何だと」

「私はもう、殿下の婚約者ではありません」

声は静かだった。
だが、その静けさのまま、はっきりと言い切る。

「ですから、“話を聞いてやる”という立場ではございませんのよ」

応接間がしんと静まり返る。

侯爵もヴィオラも息を呑んだ。
こんな言い方をするエレノアを、二人とも見たことがなかったのだろう。

アルヴィスの顔がみるみる赤くなる。

「お前……!」

「必要なことでしたら、公的な形でご依頼ください」

エレノアは続ける。

「ですが、それに応じるかどうかは、私が決めます」

その一言で、完全に線が引かれた。

以前の関係へは戻らない。
呼ばれたから行くことも、機嫌を読んで整えることも、もうしない。
それを、言外ではなく言葉で示したのだ。

アルヴィスは怒りと屈辱で唇を震わせた。

「……たかが侯爵令嬢が」

その言葉が出た瞬間、応接間の空気がさらに冷えた。

侯爵でさえ顔を変える。
今、その台詞はまずい。
相手が娘だからではない。
すでにクラウゼン公爵家で実務に関わっている令嬢に向かって、しかも自分から助けを求めかけた直後にそれを言う愚かさがまずいのだ。

だがアルヴィスは止まらない。

「私がわざわざ来てやったというのに――」

そのとき、応接間の外で控えめなノックが響いた。

全員の視線が扉へ向く。

執事が少しだけ戸惑った様子で姿を見せた。

「お取込み中、失礼いたします」

侯爵が苛立ったように睨む。

「今は――」

「クラウゼン公爵閣下が、お嬢様をお迎えに」

その一言に、部屋の空気が凍りついた。

アルヴィスが振り向く。
侯爵もヴィオラも目を見開く。
エレノアだけが、ほんのわずかに息をついた。

迎えに来た。

別に今日約束していたわけではない。
だが、午後から公爵家へ戻る可能性は昨夜のうちに伝えてあったはずだ。
きっと時間になっても戻らないから、迎えを寄越したのだろう。

いや、レオンハルト本人が来たというなら、それ以上に察したのかもしれない。

「……通せ」

侯爵がようやく絞り出すように言う。

扉が開き、レオンハルトが姿を現した。

濃紺の外套をまとい、いつも通りの静かな顔をしている。
だが、その静けさの奥にあるものは、応接間の誰よりも場をよく見ていた。

アルヴィスとエレノアの位置。
侯爵夫妻の顔色。
室内の空気。
それらを一瞬で読んだのだろう。

「突然の訪問、失礼します」

まず侯爵へ礼をし、それからエレノアへ視線を向ける。

「お時間でしたので」

たったそれだけだった。

だがエレノアには、それで十分だった。

ここにいていい。
もう出ていい。
そう言われたような気がしたからだ。

アルヴィスが怒気を含んだ声で言う。

「クラウゼン公爵、これは王家の話だ」

レオンハルトは静かにそちらを見る。

「そうでしょうか」

「何だと」

「少なくとも今の私は、我が家の補佐であるエレノア嬢を迎えに来ただけです」

補佐。

その言葉が、応接間の空気を再び変える。

婚約者でも、元婚約者でもない。
可哀想な令嬢でもない。
クラウゼン公爵家の補佐。

それが今のエレノアの立場だと、彼はさらりと言ってのけた。

アルヴィスの顔が歪む。

「その女はフェルベルク家の娘だ!」

「ええ」

レオンハルトは頷いた。

「ですが今この時間、我が家の仕事を預かっております」

淡々とした返答だった。
だからこそ強い。

侯爵は何も言えなかった。
父として止めることも、王太子へ合わせてエレノアを留めることも、どちらも選びきれないまま固まっている。

エレノアはその横顔をちらりと見て、そしてもう十分だと思った。

「殿下」

静かに呼ぶ。

アルヴィスが振り向く。

「私は、もう戻れません」

その一言は、婚約の話だけではなかった。

あの舞踏会の夜の前へ。
黙って後始末をしていた頃へ。
家のために削られる娘へ。
全部、もう戻れない。

アルヴィスは何か言い返しかけたが、言葉にならなかった。

そこへレオンハルトが一歩だけ近づく。

「参りましょう」

その声は穏やかだった。

だがエレノアにとっては、それだけで十分な支えだった。

「はい」

応じて、一礼する。

侯爵へ。
ヴィオラへ。
そして王太子へも、礼だけは尽くす。

そのうえで、エレノアはレオンハルトとともに応接間を出た。

背後では誰も止めなかった。

止められなかったのだろう。
それぞれが、それぞれの立場で、もう何を言っても以前には戻せないと悟り始めていたから。

廊下へ出ると、張り詰めていた空気がふっと緩む。

エレノアはようやく小さく息を吐いた。

レオンハルトが歩調をゆるめ、横を見た。

「遅くなりましたか」

「いいえ」

エレノアは首を振る。

「ちょうどよいところでした」

その返事に、レオンハルトは何も言わず、ただ静かに前を向く。

けれどその沈黙が、ひどく心地よかった。

もう戻れない。

たしかにそうだ。
だがその言葉には、絶望だけではなく解放もある。

戻れないからこそ、もうあの場所に縛られなくていい。
戻れないからこそ、自分の足で別の場所へ行ける。

玄関を出ると、夕方の風が頬を撫でた。

侯爵邸の門の向こうには、クラウゼン公爵家の馬車が待っている。
その現実が、今の自分の立つ場所を何よりはっきり示していた。

エレノアは馬車へ向かいながら、ほんの少しだけ口元をやわらげた。

終わったのだ。
ようやく、本当に。

そして同時に、もう二度と戻らないと、自分の口で言えたのだ。
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