婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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第二十五話 選ばれるのではなく、選ぶ

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第二十五話 選ばれるのではなく、選ぶ

クラウゼン公爵家の馬車が王都の石畳を進むあいだ、エレノアは窓の外を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。

侯爵邸の応接間で王太子アルヴィスと向き合い、
「私は、もう戻れません」
そう言い切った直後だというのに、不思議と胸の内は荒れていなかった。

怒りで震えているわけでもない。
悲しみがぶり返しているわけでもない。
むしろ、長く身体の奥へ刺さっていた棘が、ようやく抜けたあとのような静けさがあった。

隣に座るレオンハルトも、何も急かさなかった。

問いたださない。
慰めようともしない。
ただ、こちらが息を整えるのに必要な沈黙を、そのまま置いてくれている。

そのことが、ひどくありがたかった。

やがてエレノアは、ようやく小さく息を吐いた。

「……みっともないところをお見せしましたわ」

レオンハルトは窓の外から視線を移し、静かにこちらを見た。

「どこがです」

「元婚約者とあのようなやり取りをしたことです」

「必要な線引きに見えました」

返答は、やはり迷いがなかった。

エレノアは少しだけ目を伏せる。

「それでも、少しだけ気が抜けてしまって」

「それでいいでしょう」

レオンハルトは淡々と言う。

「抜くべきところで抜けなければ、また倒れます」

その言い方が、あまりにもこの人らしくて、エレノアは思わず少しだけ笑った。

慰めるのではなく、あくまで現実的な言い方をする。
だがその実、ちゃんとこちらを気にかけている。

その不器用な優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……公爵様は、本当に一貫しておいでですね」

「何がです」

「私を甘やかさないところが」

レオンハルトはわずかに眉を上げた。

「甘やかしてほしかったですか」

その問いに、エレノアは一瞬だけ言葉に詰まり、やがて首を振った。

「いいえ。たぶん、今はこのくらいがちょうどいいのです」

それは本音だった。

今の自分に、優しすぎる慰めは毒になる。
傷ついて当然だ、哀れだった、気の毒だ――そういう言葉を重ねられたら、きっとまた“傷つけられた側”に引き戻されてしまう。

けれどレオンハルトは違う。

戻らないこと。
線を引くこと。
選び直すこと。
そういう前向きな現実の上に、こちらを立たせようとする。

だから楽だった。

馬車が公爵邸へ着き、二人はそのまま小応接間へ入った。

夕方の光が細長く差し込み、部屋の中をやわらかな橙色に染めている。従者が茶を置いて下がると、レオンハルトが静かに口を開いた。

「改めて、聞いてもいいですか」

エレノアは顔を上げる。

「何を、でしょう」

「戻らない、とおっしゃったときのことを」

その問いに、エレノアは少しだけ沈黙した。

言葉にするのは簡単ではない。
けれど、今なら話してもいい気がした。

目の前の相手は、途中で情に流して話をぼかしたりはしない。
変な同情でまとめたりもしない。
だからこそ、自分も変に飾らずに済む。

「……あの方が来たとき、最初は少し驚きました」

ゆっくりと口を開く。

「でも、話し始めた途端に分かったのです。あの方は何も変わっていないのだと」

レオンハルトは何も挟まない。

ただ、静かに聞いている。

「私を呼びつけたのも、必要だからではなく、“来て当然”と思っているからでした。話を聞いてやる、とおっしゃったとき……ああ、この方の中ではまだ、私は都合が悪くなったら呼び戻せる存在なのだと思いました」

茶器の縁を指先でなぞる。

言葉にしてみると、思っていた以上に冷たい実感が胸へ落ちる。

「たぶん、婚約を失ったとか、家を失ったとか、そういうこと以上に……その認識が、一番無理だったのだと思います」

「当然のように、また使えると思われたことが」

レオンハルトが低く言う。

エレノアは頷いた。

「ええ」

そして少しだけ苦く笑う。

「昔の私なら、それでも迷ったかもしれません。家のために、王宮のために、ここで少し動けば丸く収まるのではないかと」

「今は違う」

「違います」

エレノアは、今度ははっきりと言った。

「もう、それでは駄目だと分かりましたから」

部屋の中に、静かな沈黙が落ちる。

けれど、その沈黙は重くない。
言葉がちゃんと届いたあとの、落ち着いた余白だった。

レオンハルトはやがて茶器を置き、言った。

「それでいい」

たったそれだけ。

だが、その一言で十分だった。

責めない。
褒めすぎない。
けれど、きちんと肯定する。

エレノアはそのまっすぐさに、胸の奥がまた少しあたたかくなるのを感じた。

「……不思議ですわね」

「何がです」

「昔は、選ばれることばかり考えていました」

レオンハルトが視線だけで続きを促す。

エレノアは窓の外へ目を向けた。

暮れゆく空。
庭の木々。
静かな屋敷。

「王太子妃候補として選ばれること。家の役に立つ娘として認められること。誰かに必要だと思われること……ずっと、そういうものを失わないように動いていた気がします」

言いながら、自分でも少しだけ驚いた。

これはたぶん、ずっと見ないふりをしてきた本音だった。

「でも今は、違うのです」

「ええ」

「初めて、自分で選んでいる気がします」

その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがぴたりとはまる感覚があった。

そうだ。
これなのだ。

王太子に選ばれるのではなく。
侯爵家の都合で使われるのでもなく。
公爵家に“置いてもらう”のでもない。

自分で、ここにいることを選んでいる。
この仕事を選び、この場所を選び、この先の関わり方を選び取っている。

それが、今までの人生にはほとんどなかった。

レオンハルトはその言葉をしばらく受け止め、それから静かに言った。

「ようやく、ですね」

エレノアは少しだけ目を見開いた。

「ようやく、ですか」

「ええ。あなたは長く、“選ばれる側”に押し込められていたように見えたので」

その見方が、あまりに正確で、エレノアは一瞬言葉を失った。

押し込められていた。
たしかにその通りだ。

表向きは有能な侯爵令嬢。
王太子妃候補。
誰もが羨む立場。

けれど実際には、“選ばれた立場を守るために”自分を削り続けていただけだった。

「公爵様は……」

エレノアは少しだけためらってから尋ねた。

「最初から、そう見えていたのですか」

レオンハルトは考えるような間を置いた。

「最初から全部ではありません」

正直な返答だった。

「ですが、王宮であなたを見ているうちに分かりました。あまりに多くのものを、自分の側ではなく“相手の都合”で選んでいる方だと」

エレノアは目を伏せる。

恥ずかしいわけではない。
けれど、自分の長い癖をこんなにも正確に言い当てられると、胸の奥の深いところを見られたような気がして少し落ち着かない。

その沈黙を破るように、レオンハルトが続けた。

「だから今のあなたは、前よりずっといい顔をしています」

エレノアは顔を上げた。

「……顔に出ていますの」

「ええ」

「また、ですか」

「またです」

その即答ぶりに、思わず笑いがこぼれる。

レオンハルトも、ほんの少しだけ目元をやわらげた。

「今のあなたは、“誰に選ばれるか”ではなく、“何を選ぶか”を考えている。だからでしょう」

その言葉が、まっすぐ胸へ落ちる。

選ばれるのではなく、選ぶ。

それは、今の自分にとってあまりにも大きな言葉だった。

しばらくして、エレノアは茶器へ視線を落としたまま、小さく言った。

「……少し、怖くもあります」

「何が」

「自分で選ぶことがです」

レオンハルトは急かさず待つ。

「今までは、選ばれた立場に従っていればよかったのです。王太子妃候補だから、侯爵家の娘だから、姉だから――そういう理由があれば、自分の望みを後回しにしても納得できました」

「ですが今は、自分で決めるしかない」

「ええ」

エレノアは頷いた。

「その代わり、誰のせいにもできませんから」

その本音に、レオンハルトはわずかに目を細めた。

「そうですね」

否定しない。

だが、突き放しもしない。

「ですが」

彼は静かに続ける。

「誰かのせいにしなくていい、ということでもある」

エレノアはその言葉に、そっと息を呑んだ。

誰かのせいにしなくていい。

責任を一人で背負え、という意味ではない。
自分の選択が、自分のものとして立つという意味だ。

それは確かに怖い。
けれど同時に、ひどく自由なことでもあった。

「……そうですわね」

ようやくそう返すと、レオンハルトは頷いた。

「ええ。だから、焦らなくていい」

その声音は低く、穏やかだった。

「今すぐ全部を決めなくてもいい。ですが、少なくとも今のあなたは、以前の場所へ戻るために動く必要はない」

その一言で、胸の中の最後の迷いが、静かにほどけていくのを感じた。

戻らない。
もう戻れない。
それは喪失ではなく、選び直した結果なのだと。

エレノアはゆっくりと顔を上げた。

「……ありがとうございます」

「何に対してですか」

「分かりません」

正直にそう言うと、レオンハルトは少しだけ口元を動かした。

「では、今はそれで」

その返しがあまりに自然で、また少しだけ笑ってしまう。

夕暮れが夜へ変わる頃、エレノアは帰りの馬車に乗り込んだ。

窓の外では王都の灯りが一つずつともり始めている。

石畳を進む馬車の揺れの中で、エレノアは自分の胸へそっと手を当てた。

選ばれるのではなく、選ぶ。

その言葉は、まるで新しい合言葉のように胸の中で静かに残っていた。

王太子に選ばれた令嬢ではなく。
侯爵家に使われる娘でもなく。
義妹に奪われる側の姉でもなく。

ここから先は、自分で選んでいく。

何を守るか。
どこに立つか。
誰の手を取るか。

そのすべてを。

その夜、自室の窓辺に立ったエレノアは、夜空を見上げながらふと口元をやわらげた。

怖くないわけではない。
けれど、それ以上に、不思議と嬉しかった。

自分の人生が、ようやく自分の手へ戻ってきた気がしたからだ。
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