婚約破棄されたので、もう私が支えるのはやめます

ふわふわ

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最終話 幸せは、私が選ぶ

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最終話 幸せは、私が選ぶ

秋のはじまりは、思っていたより静かに訪れた。

夏の熱がゆるやかに引き、朝晩の風に少しだけ涼しさが混じり始めた頃、クラウゼン公爵邸の庭もまた季節の色を変えつつあった。濃かった緑は落ち着きを帯び、花壇の花々も夏の華やかさから、どこか深みのある色合いへ移っている。

その庭を見下ろせる書斎の窓辺で、エレノアは一通の書類を閉じた。

「これで、最後ですわね」

机の向こうでレオンハルトが顔を上げる。

「侯爵家からの正式通知ですか」

「ええ」

エレノアは静かに頷いた。

フェルベルク侯爵家より、正式に送られてきた文書だった。

内容は簡潔だった。
長女エレノア・フェルベルクのクラウゼン公爵家への輿入れを、侯爵家として認めること。
また、今後の彼女の立場と名誉を傷つけるいかなる言動にも、家として関与しないこと。
さらに、過去の一連の婚約破棄騒動について、フェルベルク侯爵家内部に不適切な事情があったことを認め、長女に責のないことを明記すること。

そこまで書かせたのは、レオンハルトではない。
王妃でもない。
エレノア自身でもない。

侯爵が、自分でそうすると決めたのだという。

もちろん、完全な悔悟からだけではないだろう。
家の立て直し。
社交界への最低限の説明。
公爵家との関係維持。
そうした打算も、きっと含まれている。

それでも、あの父が自分の名でそこまで書いたという事実は、ひとつの終わりとして十分だった。

「ようやく、ですわ」

エレノアは窓の外を見た。

「本当に終わったのだと思います」

レオンハルトはしばらくその横顔を見ていたが、やがて低く言う。

「後悔は?」

エレノアは少しだけ考え、それから首を振った。

「ありません」

言い切ってから、自分でもその響きの静かさに驚く。

昔なら、こういう問いに即答はできなかっただろう。
家を捨てることへの罪悪感。
婚約を失った傷。
義妹に奪われたものへの執着。
そういうものが、必ずどこかに絡みついたはずだ。

けれど今は違う。

あの家にいた頃の自分は、いつも誰かのために選ばれていた。
王太子妃候補として。
侯爵家の娘として。
“しっかりした姉”として。

でも今の自分は、自分で選んだ場所に立っている。

それが何より大きかった。

レオンハルトが椅子から立ち上がり、エレノアの隣へ来る。

「なら、よかった」

その声は、いつものように低く落ち着いていた。

けれどエレノアには、その一言だけで十分だった。

数日後、王都の中央教会で、エレノアとレオンハルトの婚礼が執り行われた。

盛大すぎず、だが軽くもない式だった。

王妃セシリアは来賓として列席し、南方伯家や東部侯家もまた礼を尽くして参列した。
王宮からの顔ぶれは必要最小限だったが、それで十分に意味は伝わる。

この婚礼は、ただの公爵家の慶事ではない。
王都の社交界における一つの答えでもある。

婚約破棄された令嬢ではない。
義妹に奪われた哀れな姉でもない。
自らの手腕と品位を失わず、選び直した未来の先で、公爵夫人となる女。

それが、今のエレノアだった。

式の最中、誓いの言葉を交わすその瞬間でさえ、エレノアの心は不思議なほど静かだった。

緊張がないわけではない。
けれど、それ以上に確かだった。

誰かに選ばれたからではない。
この人の隣に立ちたいと、自分で決めた。
だからこそ、迷いがない。

指輪が指先に収まる。

その重みは、かつて王太子との婚約の証として受け取ったものとは、まるで違って感じられた。

あのときは、“与えられた未来”だった。
今は、“自分で選んだ未来”だ。

それだけで、こんなにも重みが違うのかと、エレノアは胸の奥で静かに思った。

婚礼のあと、王都では当然のようにいくつもの噂が流れた。

だがその噂は、もう以前のようにエレノアを削るものではなかった。

クラウゼン公爵夫人となったエレノアは、すでに公爵家の実務にも深く関わっているらしい。
交易祭での手腕は本物だった。
王妃も信を置いている。
冷たい女ではなく、ただ“無駄に騒がない人”だったのだろう。

そんなふうに。

一方で、王太子アルヴィスとミレイユの名は、静かに沈んでいった。

劇的な廃嫡や追放があったわけではない。
公の場で大声の断罪があったわけでもない。

けれど、王太子はもう以前のように王宮の中心ではなかった。
重要な調整は王妃側を通り、有力家は王太子と直接深く関わることを避け始めている。
ミレイユもまた、王宮に姿を見せることは激減し、社交界で“次期王太子妃”として扱われることはなくなった。

それは静かで、長く、逃げ場のないざまだった。

選ばれたつもりで奪った者が、気づけば誰からも選ばれなくなっていく。
その現実が、少しずつ、しかし確実に二人の首を締めていた。

けれど、エレノアはもうその行く末を追わなかった。

気にならないわけではない。
けれど、それを見届けることが自分の幸せではないと知っているからだ。

秋が深まり、クラウゼン公爵邸の庭木が少しずつ色づき始めた頃。

エレノアは新しく与えられた執務室で、一人の家令から報告を受けていた。

「南方領との秋季交易、予定通りまとまりました」

「よかったわ」

「それから、東部の織物商会より追加の申し出も」

エレノアは書類に目を通しながら頷く。

公爵夫人となっても、彼女はただ飾りの座に収まったわけではなかった。
むしろ以前より自然に、堂々と、仕事の中心へ関わっている。

それを誰も不自然とは思わない。

なぜなら、彼女がそこにいることで物事が整うと、すでに皆が知っているからだ。

報告が一段落したあと、窓辺で一息ついていると、ノックのあとでレオンハルトが入ってきた。

「まだ仕事をしていましたか」

「ええ、少しだけ」

「少しだけ、で済んでいますか」

その問いに、エレノアは思わず笑う。

「公爵様は、今でもそこを確認なさるのですね」

「当然です」

あまりに当然のように返されて、また少しだけおかしくなる。

レオンハルトは机の上の書類を見てから、そっとその端を整えた。

「今日はここまでです」

「命令ですか?」

「提案です」

「でも、従わないと困った顔をなさるのでしょう?」

「ええ。たぶん」

その返しに、エレノアは小さく息をついて立ち上がった。

こういうやり取りが、今ではひどく自然になっている。

最初から激しい恋に落ちたわけではない。
劇的な告白に心を奪われたわけでもない。
ただ、少しずつ、きちんと見られ、きちんと選び、気づけば隣に立つことが最もしっくりくるようになっていた。

それが、この人との関係らしかった。

二人で庭へ出ると、夕暮れの光が木々を柔らかく染めていた。

風は少し冷たい。
けれど嫌な寒さではない。
季節が変わっていく心地よさに近い。

「……公爵様」

「はい」

「幸せとは、もっと分かりやすいものだと思っていました」

レオンハルトが視線を向ける。

エレノアは庭の先を見ながら続けた。

「昔の私は、きっとこう考えていたのです。王太子に愛されて選ばれること、華やかな立場に立つこと、誰からも羨ましがられること。それが幸せなのだと」

「今は違いますか」

「ええ」

エレノアは微笑んだ。

「今の私は、こうして穏やかに息ができることのほうが、ずっと幸せだと思います」

レオンハルトは少しだけ目を細めた。

「それはよかった」

「ええ、とても」

少しの沈黙のあと、エレノアはそっと付け加える。

「そして、その幸せを、私は自分で選んだのだと今は思えます」

それが何より大きかった。

誰かに与えられた幸せではない。
誰かに認められることで得る幸せでもない。
自分が何を大切にしたいかを知り、そのうえで選び取った穏やかな未来。

たとえそれが、かつて夢見たものとは違っていても。
いや、違っていたからこそ、今の自分には本物に思えるのだ。

レオンハルトはその言葉を静かに受け止め、やがてごく低く言った。

「なら、これからもそうしていきましょう」

「何を、ですか」

「あなたが選んだ幸せを、守ることをです」

その一言に、エレノアの胸の奥がやわらかく熱を帯びる。

大きな誓いではない。
けれど、こういう人なのだと改めて思う。

過剰に飾らず、甘やかしすぎず、でも必要なところをきちんと守ると言う。

それがどれほど信頼できることかを、今のエレノアはよく知っていた。

空を見上げると、夕暮れの向こうに一番星が見えた。

婚約を破棄された夜には、まさかこんな日が来るとは思わなかった。
あのときはただ、自分の積み上げたものが全部奪われた気がしていた。

けれど本当は違ったのだ。

奪われて終わるものなら、それは最初から自分のものではなかった。
失ってもなお残るもの。
失ったからこそ分かるもの。
そして、自分で選び直して初めて手にできるもの。

それらがあったから、今ここに立っている。

エレノアは静かに目を細めた。

かつて自分を捨てた者たちは、きっともうこの景色の中にはいない。
王太子も、義妹も、後悔する父も。
あの人たちはあの人たちの末路を生きていくのだろう。

でも、自分は違う。

自分の手で選んだ人と。
自分の手で築く場所で。
自分の手で守りたい幸せを抱いて生きていく。

その未来は、ひどく静かで、ひどく満ち足りていた。

エレノアはそっと口元をやわらげる。

そして、誰に聞かせるでもなく、けれど確かに胸の内でこう思った。

――幸せは、私が選ぶ。
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