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第三十五話 公爵の求婚
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第三十五話 公爵の求婚
初夏の風が、クラウゼン公爵邸の庭を静かに渡っていた。
交易祭が終わってから数日。
王都の熱は少しずつ落ち着き始めていたが、その内側で決まってしまったものまで元に戻ることはなかった。
王太子アルヴィスは、王宮の核心から静かに外され始めている。
ミレイユは、社交界の“甘く見てもらえる余白”を失った。
侯爵家は、ようやく自分たちの内側の歪みがどこまで広がっていたかを知り始めている。
そしてエレノアは――
補助室の机に向かいながら、自分でも驚くほど穏やかだった。
目の前には、夏の視察に向けた最終確認の書類。
並ぶ日程。
受け入れ先の名簿。
同席させるべき顔ぶれと、避けるべき組み合わせ。
以前の自分なら、こういう紙束を見て真っ先に考えたのは、“どこで誰が機嫌を損ねるか”だった。
今もそれを考えないわけではない。
けれど違うのは、その調整が誰かの無責任の尻拭いではなく、自分の仕事として机の上にあることだった。
「この三通、順を入れ替えます」
エレノアがそう言うと、向かいで書類を見ていたレオンハルトが顔を上げた。
「理由は」
「二通目を先に届けると、“最後に回された”という印象が強くなります。順番そのものより、“先に思い出されたか”を気にする方ですから」
レオンハルトは一読して、すぐに頷く。
「ええ。その通りですね」
それだけ。
説明が通る。
余計な反発がない。
必要なことだけが、必要な形で積み重なる。
本当に、この場所は息がしやすい。
「では、それで整えましょう」
レオンハルトが紙をまとめる。
その声を聞きながら、エレノアはふと窓の外へ視線を向けた。
中庭は今日も静かだった。
噴水の音。
揺れる木々。
差し込む明るい光。
侯爵邸にいた頃には、こういう静けさすら“次に何が起きるか分からない間”に思えていた。
今は違う。
静けさは、ただ静けさとしてそこにある。
不意に、レオンハルトが言った。
「今日の分は、ここまでで構いません」
エレノアは少し目を瞬く。
「まだ早くはありませんか」
「ええ。ですが、少し時間をいただきたい」
その言い方はいつもと少し違った。
仕事の延長にしては、言葉の置き方が慎重だったのだ。
エレノアは羽ペンを置いた。
「承知しました」
レオンハルトはしばらく何かを考えるように沈黙し、それから静かに立ち上がった。
「庭へ出ませんか」
「お庭へ?」
「ええ。今日は天気がいいので」
それだけ聞けば、何でもない誘いだ。
けれど、何でもない空気ではなかった。
エレノアはごく小さく頷いた。
「はい」
庭に出ると、初夏の光は思った以上にやわらかかった。
眩しすぎず、風も穏やかで、花壇には季節の花が整然と咲いている。派手ではない。だが、この屋敷らしく手入れが行き届いていて、見ているだけで落ち着く庭だった。
二人は並んで、石畳の小道をゆっくり歩く。
しばらくは何も話さない。
けれどその沈黙は、不自然ではなかった。
レオンハルトは池の手前で足を止めた。
水面に空が映っている。
風が吹くたび、小さく揺れる。
「エレノア嬢」
その呼び方は、いつも通りだった。
けれど声の低さが、少しだけ違った。
「はい」
エレノアも立ち止まり、彼を見る。
レオンハルトは真正面から視線を向けた。
逃がさず、だが押しつけすぎず、ただ真っ直ぐに。
「一つ、きちんとお伝えしておきたいことがあります」
胸の奥で、何かが静かに鳴る。
エレノアは何も言わず、続きを待った。
「私は最初、あなたに補佐として来ていただきたいと思って声をかけました」
「ええ」
「それは本当です。あなたの力が必要だった」
レオンハルトは少しだけ間を置く。
「ですが今は、それだけではありません」
その一言に、エレノアの指先がわずかに強張った。
風がひとつ、静かに吹き抜ける。
「あなたがここで働くようになってから、私は何度も考えました」
レオンハルトの声は低く落ち着いている。
それでも、今は一語一語が普段より重かった。
「あなたは、誰かに選ばれるためではなく、自分で選ぶためにここへ来た。そう理解しています」
「……はい」
「だからこそ、軽いことは言いたくありません」
その言葉に、エレノアの胸が少しだけ熱くなる。
軽いことは言いたくない。
この人らしいと思った。
甘い言葉で囲い込むのではなく、きちんと考えた上で、言うべきことだけを言う。
だからこそ、今この瞬間の重みも分かる。
レオンハルトは続けた。
「私は、あなたとこれからも共に在りたいと思っています」
エレノアは息を止めた。
求婚。
まだその言葉は出ていない。
けれど、もう意味は分かる。
「仕事の上でも」
彼は言う。
「そして、仕事だけでなく私個人の人生においても」
そこで初めて、レオンハルトはごくわずかに息を吐いた。
緊張しているのだと、そのとき初めて分かった。
外からはほとんど見えない。
けれど、完全に揺れていないわけではないのだ。
そのことが、ひどく胸に響いた。
「あなたが望むなら」
静かに、しかしはっきりと。
「私と結婚していただきたい」
ついに、その言葉が落ちる。
庭がひどく静かだった。
風も、鳥の声も、すべて少し遠く感じる。
エレノアはすぐには答えられなかった。
驚いたから。
嬉しいから。
そして何より、その言葉があまりにも真っ直ぐで、きちんと受け取らなければと思ったからだ。
レオンハルトは急かさなかった。
ただ待っている。
“はい”を当然と思っていない待ち方だった。
そこにあるのは、選ばせようとする意思だ。
それが、この人らしい。
エレノアはゆっくりと息を吸った。
「……公爵様」
「はい」
「少し前の私なら、きっとすぐには頷けなかったと思います」
正直にそう言うと、レオンハルトは静かに頷く。
「でしょうね」
その返答があまりに自然で、エレノアは少しだけ笑ってしまった。
「否定なさらないのですね」
「今のあなたが、そのまま頷く方なら、私はたぶん求めていません」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなる。
この人は本当に、どこまでも“選ばせる”人だ。
「私、ずっと考えていました」
エレノアは自分の胸に手を当てるようにして言った。
「選ばれることばかり考えていた頃の私は、誰かの隣に立つことそのものを、自分の価値のように思っていたのです」
レオンハルトは黙って聞いている。
「でも今は違います」
空を見上げ、それからもう一度彼を見る。
「私は、私の意志で選びたい」
「ええ」
「誰の隣に立つかも。どこで生きるかも」
その言葉を口にしながら、エレノアは自分の中に迷いがほとんど残っていないことに気づいた。
怖くないわけではない。
結婚という言葉の重みは分かる。
公爵家に入る意味も。
これから先にある責任も。
けれど、それでも。
「私は、あなたの隣に立ちたいです」
言葉は、思っていたより静かに出た。
だが、確かだった。
「公爵様が選んだからではなく、私がそうしたいから」
その瞬間、レオンハルトの表情がほんのわずかに揺れた。
大きく笑うわけではない。
声を上げるわけでもない。
けれど、その静かな人の顔に、はっきりと安堵と喜びが差したのが分かった。
「……ありがとうございます」
その言い方が、またこの人らしい。
エレノアは少しだけ目を細める。
「そこは、ありがとうなのですね」
「何と言えばいいか、少し考えました」
「珍しいですわね」
「ええ。珍しいです」
その素直さに、エレノアは思わず笑った。
レオンハルトは一歩だけ近づく。
「では改めて」
低く、落ち着いた声。
「あなたを、私の伴侶として迎えたい」
その言い方に、エレノアは静かに頷いた。
「お受けいたします」
それで十分だった。
大げさな誓いも、劇的な抱擁もなかった。
ただ、互いにきちんと見て、言葉を交わして、選んだ。
それが二人には何よりふさわしかった。
しばらくして、レオンハルトがごく小さく息を吐く。
「……少し、安心しました」
「今になってですか?」
「ええ」
「私が断るかもしれないと?」
「可能性はあります」
その返答に、エレノアはくすりと笑う。
「公爵様は、最後までそうなのですね」
「どこまでです」
「私に選ばせるところが」
レオンハルトは少しだけ目をやわらげた。
「そこを違えたくなかったので」
違えたくなかった。
その一言に、エレノアの胸の内がやわらかく満ちる。
この人の求婚は、“手に入れるため”のものではなかった。
“こちらが望むだろう”と決めつけるものでもなかった。
あくまで、選択を差し出し、そのうえで自分の意志を伝える求婚だった。
だからこそ、自分も迷いなく答えられたのだろう。
庭を渡る風が少しだけ強くなる。
池の水面が揺れ、光が散る。
「これから忙しくなりますね」
エレノアがそう言うと、レオンハルトは頷く。
「ええ。かなり」
「侯爵家も王宮も、また騒ぎそうですわ」
「でしょうね」
「それでも、私はもう戻りません」
その言葉に、レオンハルトは静かに言った。
「戻る必要はありません」
その返事は、以前と同じようでいて、今はもっと深い意味を持っていた。
補佐として。
そしてこれからは、伴侶として。
ここがもう、自分の帰る場所になるのだ。
エレノアは庭の向こうに広がる空を見上げた。
昔の自分なら、こんな未来は想像もしなかった。
王太子に選ばれることがすべてだと思っていた。
婚約を失えば終わりだと思っていた。
家から切り離されれば、もう何も残らないとすら思っていた。
けれど違った。
失ったことで、初めて選べるようになった。
そして選んだ先に、今この人がいる。
「公爵様」
「はい」
エレノアは少しだけ笑って言った。
「これから、よろしくお願いいたします」
レオンハルトもまた、ひどく静かな笑みを浮かべた。
「こちらこそ」
そのやり取りは、ごく短いものだった。
けれどエレノアには、それで十分だった。
かつて奪われたと思っていた未来より、ずっと自分らしい未来がここにある。
そしてそれは、誰かに与えられたものではなく、自分で選び取ったものだった。
初夏の光の中、二人はそのままゆっくりと歩き出す。
もう誰かに選ばれるためではなく。
自分たちで選んだ未来へ向かって。
初夏の風が、クラウゼン公爵邸の庭を静かに渡っていた。
交易祭が終わってから数日。
王都の熱は少しずつ落ち着き始めていたが、その内側で決まってしまったものまで元に戻ることはなかった。
王太子アルヴィスは、王宮の核心から静かに外され始めている。
ミレイユは、社交界の“甘く見てもらえる余白”を失った。
侯爵家は、ようやく自分たちの内側の歪みがどこまで広がっていたかを知り始めている。
そしてエレノアは――
補助室の机に向かいながら、自分でも驚くほど穏やかだった。
目の前には、夏の視察に向けた最終確認の書類。
並ぶ日程。
受け入れ先の名簿。
同席させるべき顔ぶれと、避けるべき組み合わせ。
以前の自分なら、こういう紙束を見て真っ先に考えたのは、“どこで誰が機嫌を損ねるか”だった。
今もそれを考えないわけではない。
けれど違うのは、その調整が誰かの無責任の尻拭いではなく、自分の仕事として机の上にあることだった。
「この三通、順を入れ替えます」
エレノアがそう言うと、向かいで書類を見ていたレオンハルトが顔を上げた。
「理由は」
「二通目を先に届けると、“最後に回された”という印象が強くなります。順番そのものより、“先に思い出されたか”を気にする方ですから」
レオンハルトは一読して、すぐに頷く。
「ええ。その通りですね」
それだけ。
説明が通る。
余計な反発がない。
必要なことだけが、必要な形で積み重なる。
本当に、この場所は息がしやすい。
「では、それで整えましょう」
レオンハルトが紙をまとめる。
その声を聞きながら、エレノアはふと窓の外へ視線を向けた。
中庭は今日も静かだった。
噴水の音。
揺れる木々。
差し込む明るい光。
侯爵邸にいた頃には、こういう静けさすら“次に何が起きるか分からない間”に思えていた。
今は違う。
静けさは、ただ静けさとしてそこにある。
不意に、レオンハルトが言った。
「今日の分は、ここまでで構いません」
エレノアは少し目を瞬く。
「まだ早くはありませんか」
「ええ。ですが、少し時間をいただきたい」
その言い方はいつもと少し違った。
仕事の延長にしては、言葉の置き方が慎重だったのだ。
エレノアは羽ペンを置いた。
「承知しました」
レオンハルトはしばらく何かを考えるように沈黙し、それから静かに立ち上がった。
「庭へ出ませんか」
「お庭へ?」
「ええ。今日は天気がいいので」
それだけ聞けば、何でもない誘いだ。
けれど、何でもない空気ではなかった。
エレノアはごく小さく頷いた。
「はい」
庭に出ると、初夏の光は思った以上にやわらかかった。
眩しすぎず、風も穏やかで、花壇には季節の花が整然と咲いている。派手ではない。だが、この屋敷らしく手入れが行き届いていて、見ているだけで落ち着く庭だった。
二人は並んで、石畳の小道をゆっくり歩く。
しばらくは何も話さない。
けれどその沈黙は、不自然ではなかった。
レオンハルトは池の手前で足を止めた。
水面に空が映っている。
風が吹くたび、小さく揺れる。
「エレノア嬢」
その呼び方は、いつも通りだった。
けれど声の低さが、少しだけ違った。
「はい」
エレノアも立ち止まり、彼を見る。
レオンハルトは真正面から視線を向けた。
逃がさず、だが押しつけすぎず、ただ真っ直ぐに。
「一つ、きちんとお伝えしておきたいことがあります」
胸の奥で、何かが静かに鳴る。
エレノアは何も言わず、続きを待った。
「私は最初、あなたに補佐として来ていただきたいと思って声をかけました」
「ええ」
「それは本当です。あなたの力が必要だった」
レオンハルトは少しだけ間を置く。
「ですが今は、それだけではありません」
その一言に、エレノアの指先がわずかに強張った。
風がひとつ、静かに吹き抜ける。
「あなたがここで働くようになってから、私は何度も考えました」
レオンハルトの声は低く落ち着いている。
それでも、今は一語一語が普段より重かった。
「あなたは、誰かに選ばれるためではなく、自分で選ぶためにここへ来た。そう理解しています」
「……はい」
「だからこそ、軽いことは言いたくありません」
その言葉に、エレノアの胸が少しだけ熱くなる。
軽いことは言いたくない。
この人らしいと思った。
甘い言葉で囲い込むのではなく、きちんと考えた上で、言うべきことだけを言う。
だからこそ、今この瞬間の重みも分かる。
レオンハルトは続けた。
「私は、あなたとこれからも共に在りたいと思っています」
エレノアは息を止めた。
求婚。
まだその言葉は出ていない。
けれど、もう意味は分かる。
「仕事の上でも」
彼は言う。
「そして、仕事だけでなく私個人の人生においても」
そこで初めて、レオンハルトはごくわずかに息を吐いた。
緊張しているのだと、そのとき初めて分かった。
外からはほとんど見えない。
けれど、完全に揺れていないわけではないのだ。
そのことが、ひどく胸に響いた。
「あなたが望むなら」
静かに、しかしはっきりと。
「私と結婚していただきたい」
ついに、その言葉が落ちる。
庭がひどく静かだった。
風も、鳥の声も、すべて少し遠く感じる。
エレノアはすぐには答えられなかった。
驚いたから。
嬉しいから。
そして何より、その言葉があまりにも真っ直ぐで、きちんと受け取らなければと思ったからだ。
レオンハルトは急かさなかった。
ただ待っている。
“はい”を当然と思っていない待ち方だった。
そこにあるのは、選ばせようとする意思だ。
それが、この人らしい。
エレノアはゆっくりと息を吸った。
「……公爵様」
「はい」
「少し前の私なら、きっとすぐには頷けなかったと思います」
正直にそう言うと、レオンハルトは静かに頷く。
「でしょうね」
その返答があまりに自然で、エレノアは少しだけ笑ってしまった。
「否定なさらないのですね」
「今のあなたが、そのまま頷く方なら、私はたぶん求めていません」
その言葉に、胸の奥がまた熱くなる。
この人は本当に、どこまでも“選ばせる”人だ。
「私、ずっと考えていました」
エレノアは自分の胸に手を当てるようにして言った。
「選ばれることばかり考えていた頃の私は、誰かの隣に立つことそのものを、自分の価値のように思っていたのです」
レオンハルトは黙って聞いている。
「でも今は違います」
空を見上げ、それからもう一度彼を見る。
「私は、私の意志で選びたい」
「ええ」
「誰の隣に立つかも。どこで生きるかも」
その言葉を口にしながら、エレノアは自分の中に迷いがほとんど残っていないことに気づいた。
怖くないわけではない。
結婚という言葉の重みは分かる。
公爵家に入る意味も。
これから先にある責任も。
けれど、それでも。
「私は、あなたの隣に立ちたいです」
言葉は、思っていたより静かに出た。
だが、確かだった。
「公爵様が選んだからではなく、私がそうしたいから」
その瞬間、レオンハルトの表情がほんのわずかに揺れた。
大きく笑うわけではない。
声を上げるわけでもない。
けれど、その静かな人の顔に、はっきりと安堵と喜びが差したのが分かった。
「……ありがとうございます」
その言い方が、またこの人らしい。
エレノアは少しだけ目を細める。
「そこは、ありがとうなのですね」
「何と言えばいいか、少し考えました」
「珍しいですわね」
「ええ。珍しいです」
その素直さに、エレノアは思わず笑った。
レオンハルトは一歩だけ近づく。
「では改めて」
低く、落ち着いた声。
「あなたを、私の伴侶として迎えたい」
その言い方に、エレノアは静かに頷いた。
「お受けいたします」
それで十分だった。
大げさな誓いも、劇的な抱擁もなかった。
ただ、互いにきちんと見て、言葉を交わして、選んだ。
それが二人には何よりふさわしかった。
しばらくして、レオンハルトがごく小さく息を吐く。
「……少し、安心しました」
「今になってですか?」
「ええ」
「私が断るかもしれないと?」
「可能性はあります」
その返答に、エレノアはくすりと笑う。
「公爵様は、最後までそうなのですね」
「どこまでです」
「私に選ばせるところが」
レオンハルトは少しだけ目をやわらげた。
「そこを違えたくなかったので」
違えたくなかった。
その一言に、エレノアの胸の内がやわらかく満ちる。
この人の求婚は、“手に入れるため”のものではなかった。
“こちらが望むだろう”と決めつけるものでもなかった。
あくまで、選択を差し出し、そのうえで自分の意志を伝える求婚だった。
だからこそ、自分も迷いなく答えられたのだろう。
庭を渡る風が少しだけ強くなる。
池の水面が揺れ、光が散る。
「これから忙しくなりますね」
エレノアがそう言うと、レオンハルトは頷く。
「ええ。かなり」
「侯爵家も王宮も、また騒ぎそうですわ」
「でしょうね」
「それでも、私はもう戻りません」
その言葉に、レオンハルトは静かに言った。
「戻る必要はありません」
その返事は、以前と同じようでいて、今はもっと深い意味を持っていた。
補佐として。
そしてこれからは、伴侶として。
ここがもう、自分の帰る場所になるのだ。
エレノアは庭の向こうに広がる空を見上げた。
昔の自分なら、こんな未来は想像もしなかった。
王太子に選ばれることがすべてだと思っていた。
婚約を失えば終わりだと思っていた。
家から切り離されれば、もう何も残らないとすら思っていた。
けれど違った。
失ったことで、初めて選べるようになった。
そして選んだ先に、今この人がいる。
「公爵様」
「はい」
エレノアは少しだけ笑って言った。
「これから、よろしくお願いいたします」
レオンハルトもまた、ひどく静かな笑みを浮かべた。
「こちらこそ」
そのやり取りは、ごく短いものだった。
けれどエレノアには、それで十分だった。
かつて奪われたと思っていた未来より、ずっと自分らしい未来がここにある。
そしてそれは、誰かに与えられたものではなく、自分で選び取ったものだった。
初夏の光の中、二人はそのままゆっくりと歩き出す。
もう誰かに選ばれるためではなく。
自分たちで選んだ未来へ向かって。
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