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第二話 持参金の明細
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第二話 持参金の明細
翌朝、王都の空気は妙に澄んでいた。
昨夜の騒動などなかったかのように、青空は高く、街路を行き交う馬車の音も穏やかだ。だが、その静けさの下では、すでに水面下の波が広がり始めている。
私はヴァルテール公爵邸の執務室にいた。
重厚な机の上には、分厚い帳簿と契約書の束。紅茶はすでに冷めている。目の前には、父――ヴァルテール公爵が腕を組んで座っていた。
「後悔はしていないか」
低く落ち着いた声。
「しておりません」
即答だった。
父は一瞬だけ目を細め、やがて小さく頷く。
「ならばよい。昨夜の宣言は、正式な婚約破棄と受け取る。王家からの書面はまだ届いていないが、こちらから先に動く」
「はい」
私は帳簿を開く。
そこに記されているのは、王家との共同事業の詳細だ。
北方鉄鉱山開発――総投資額の六割を公爵家が負担。
王都再建基金――七割が公爵家出資。
海上交易路整備――資金だけでなく、商会との交渉もすべて公爵家主導。
数字は、冷静で残酷だ。
「王太子殿下は、これをご存じなのでしょうか」
「知らぬだろうな」
父は淡々と言う。
「殿下は軍事と舞踏会にしか興味を示さなかった。財務は大臣任せだ」
昨夜のあの表情を思い出す。脅しだと、彼は言った。
脅しではない。契約に基づく当然の処理だ。
「撤退は段階的に行う。まずは追加投資の停止。次に、技術者の引き上げ」
「商会には、すでに打診済みです」
父の眉がわずかに動く。
「早いな」
「想定しておりましたので」
婚約破棄の可能性を、私は数年前から計算に入れていた。殿下の視線が変わり始めた頃から、いずれ感情に流される日が来ると読んでいた。
だからこそ、契約の主導権は常にこちらが握っていたのだ。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
執事のクラウスが、恭しく一礼した。
「王宮より使者が参りました」
「早いわね」
父が皮肉気に笑う。
「通せ」
入ってきたのは、王宮財務官補佐の青年だった。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ヴァルテール公爵閣下、そしてリディアナ様。昨夜の件について、陛下は大変お怒りで……」
「怒る理由がどこに?」
父の声は穏やかだが、圧がある。
「い、いえ、その……婚約破棄は王太子殿下のご意思でありまして」
「それに異議はない」
私は口を挟む。
「ただし、婚約に付随する契約も解消されるだけのこと。問題がございますか?」
青年は言葉を詰まらせた。
「王都再建基金の次期支払いが、来月に控えております。もしそれが止まれば、工事が――」
「止まりますわね」
淡々と告げる。
「ですが、婚約関係の解消により、我が家が王家の威信を支える義務はなくなりました」
「そ、それは国民生活に影響が……!」
「では、王太子殿下が責任をお取りになればよろしいのでは?」
青年の顔色が変わる。
ようやく理解したのだろう。これは感情論ではない。現実の話だ。
「陛下は、再考を望んでおられます。せめて基金だけでも継続を……」
父が静かに笑う。
「条件は一つ」
青年が息を呑む。
「王太子が正式に謝罪し、婚約破棄の撤回を申し出ること」
部屋が静まり返る。
「そ、それは……」
「できぬのなら、契約は終了だ」
青年は言葉を失ったまま、深く頭を下げ、退室した。
扉が閉まると、父が私を見る。
「戻る気は?」
「ございません」
私は首を振る。
「婚約を戻しても、殿下の判断力が変わるわけではありません。いずれ同じことが起きます」
「……そうだな」
父は満足そうに頷いた。
「では、撤退を進める」
その日の午後、北方鉱山の現場監督へ通達が送られた。新規掘削の停止。技術者の一時帰還。
夕刻には、王都再建の工事現場で資材搬入が止まった。
王都のあちこちで、小さな異変が起こり始める。
それはまだ、誰も“崩壊”とは呼ばない。
ただの遅延。些細な手違い。
けれど、私は知っている。
一つの歯車が止まれば、やがて全体が軋む。
窓の外を見つめる。遠くに王宮の塔が見える。
昨夜、あの場所で私は“冷たい女”と呼ばれた。
けれど。
感情で動く者が、国を支えられるはずがない。
机の上の帳簿を閉じる。
これから三ヶ月。
王国の財務は、私のいない状態で回ることになる。
それが可能かどうか。
試して差し上げましょう。
冷たい女の、最後の親切として。
翌朝、王都の空気は妙に澄んでいた。
昨夜の騒動などなかったかのように、青空は高く、街路を行き交う馬車の音も穏やかだ。だが、その静けさの下では、すでに水面下の波が広がり始めている。
私はヴァルテール公爵邸の執務室にいた。
重厚な机の上には、分厚い帳簿と契約書の束。紅茶はすでに冷めている。目の前には、父――ヴァルテール公爵が腕を組んで座っていた。
「後悔はしていないか」
低く落ち着いた声。
「しておりません」
即答だった。
父は一瞬だけ目を細め、やがて小さく頷く。
「ならばよい。昨夜の宣言は、正式な婚約破棄と受け取る。王家からの書面はまだ届いていないが、こちらから先に動く」
「はい」
私は帳簿を開く。
そこに記されているのは、王家との共同事業の詳細だ。
北方鉄鉱山開発――総投資額の六割を公爵家が負担。
王都再建基金――七割が公爵家出資。
海上交易路整備――資金だけでなく、商会との交渉もすべて公爵家主導。
数字は、冷静で残酷だ。
「王太子殿下は、これをご存じなのでしょうか」
「知らぬだろうな」
父は淡々と言う。
「殿下は軍事と舞踏会にしか興味を示さなかった。財務は大臣任せだ」
昨夜のあの表情を思い出す。脅しだと、彼は言った。
脅しではない。契約に基づく当然の処理だ。
「撤退は段階的に行う。まずは追加投資の停止。次に、技術者の引き上げ」
「商会には、すでに打診済みです」
父の眉がわずかに動く。
「早いな」
「想定しておりましたので」
婚約破棄の可能性を、私は数年前から計算に入れていた。殿下の視線が変わり始めた頃から、いずれ感情に流される日が来ると読んでいた。
だからこそ、契約の主導権は常にこちらが握っていたのだ。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
執事のクラウスが、恭しく一礼した。
「王宮より使者が参りました」
「早いわね」
父が皮肉気に笑う。
「通せ」
入ってきたのは、王宮財務官補佐の青年だった。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ヴァルテール公爵閣下、そしてリディアナ様。昨夜の件について、陛下は大変お怒りで……」
「怒る理由がどこに?」
父の声は穏やかだが、圧がある。
「い、いえ、その……婚約破棄は王太子殿下のご意思でありまして」
「それに異議はない」
私は口を挟む。
「ただし、婚約に付随する契約も解消されるだけのこと。問題がございますか?」
青年は言葉を詰まらせた。
「王都再建基金の次期支払いが、来月に控えております。もしそれが止まれば、工事が――」
「止まりますわね」
淡々と告げる。
「ですが、婚約関係の解消により、我が家が王家の威信を支える義務はなくなりました」
「そ、それは国民生活に影響が……!」
「では、王太子殿下が責任をお取りになればよろしいのでは?」
青年の顔色が変わる。
ようやく理解したのだろう。これは感情論ではない。現実の話だ。
「陛下は、再考を望んでおられます。せめて基金だけでも継続を……」
父が静かに笑う。
「条件は一つ」
青年が息を呑む。
「王太子が正式に謝罪し、婚約破棄の撤回を申し出ること」
部屋が静まり返る。
「そ、それは……」
「できぬのなら、契約は終了だ」
青年は言葉を失ったまま、深く頭を下げ、退室した。
扉が閉まると、父が私を見る。
「戻る気は?」
「ございません」
私は首を振る。
「婚約を戻しても、殿下の判断力が変わるわけではありません。いずれ同じことが起きます」
「……そうだな」
父は満足そうに頷いた。
「では、撤退を進める」
その日の午後、北方鉱山の現場監督へ通達が送られた。新規掘削の停止。技術者の一時帰還。
夕刻には、王都再建の工事現場で資材搬入が止まった。
王都のあちこちで、小さな異変が起こり始める。
それはまだ、誰も“崩壊”とは呼ばない。
ただの遅延。些細な手違い。
けれど、私は知っている。
一つの歯車が止まれば、やがて全体が軋む。
窓の外を見つめる。遠くに王宮の塔が見える。
昨夜、あの場所で私は“冷たい女”と呼ばれた。
けれど。
感情で動く者が、国を支えられるはずがない。
机の上の帳簿を閉じる。
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王国の財務は、私のいない状態で回ることになる。
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