婚約破棄された令嬢は、誰にも選ばれずに選び続ける

ふわふわ

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冷たい令嬢という噂

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冷たい令嬢という噂

 王城を後にしたその日から、噂は驚くほどの速さで王都を巡った。

「聞いた? ノルディス嬢、泣きもしなかったらしいわ」
「婚約破棄よ? 普通は縋りつくでしょう」
「やっぱり冷たいのよ。だから捨てられたのね」

 そんな声が、私の耳に届くよりも早く、街の空気に染み込んでいく。
 だが、不思議と胸は痛まなかった。
 否定されることにも、誤解されることにも、もう慣れている。

 王都を発つ馬車の中、私は窓の外を流れる景色を静かに眺めていた。
 石畳の道、商人たちの呼び声、夕暮れに染まる尖塔――
 これまで何度も通ったはずの街が、ひどく遠い場所のように見える。

「……終わったのですね」

 誰に向けたわけでもない呟きは、揺れる馬車の中で消えた。
 悲しみがないわけではない。
 ただ、感情を外に出すほど、未練が残っていなかっただけだ。

 ノルディス家の屋敷に到着すると、使用人たちが一斉に頭を下げた。
 だが、その動きはどこかぎこちない。

「お嬢様……お帰りなさいませ」

 声をかけてきた老執事の目には、わずかな戸惑いが浮かんでいた。
 婚約破棄は、令嬢一人の問題ではない。
 家の評価、立場、将来――すべてに影を落とす。

「皆、いつも通りで結構です」

 そう告げると、使用人たちはほっとしたように息をついた。
 泣き叫ばれるより、静かに振る舞われる方が、かえって安心するのだろう。

 私はそのまま執務室へ向かった。
 机の上には、王都滞在中に届いていた書類が山のように積まれている。

 領地の収支報告。
 隣領との交易交渉。
 税率の見直し案。

「……溜めてしまいましたね」

 そう呟きながらも、手は自然と動いた。
 数字を確認し、誤差を洗い出し、修正案を書き込む。
 作業に没頭していると、心が静まっていくのを感じる。

 ――私は、こうして役に立っている時が一番楽だった。

 一方、その頃の王都では。

「なぜ、こんなことになっている?」

 エドガー・バルディンは、執務室で苛立ちを隠そうともせず、書類を机に叩きつけていた。

「報告書の提出が遅れています」
「取引先からの返答も、まだ届いておりません」

「そんなはずはない! 今までは滞りなく――」

 そこで、彼は言葉を止めた。
 今まで“滞りなく”進んでいた理由を、思い出してしまったからだ。

 会議の段取り。
 交渉相手の選定。
 書類の最終確認。

 それらを担っていたのは、誰だったか。

「……些細な問題だ」

 自分に言い聞かせるようにそう言い、エドガーは視線を逸らした。
 婚約破棄をしたばかりだ。
 今さら、彼女の不在を認めるわけにはいかない。

 王城の廊下では、別の囁きが生まれていた。

「聖女様、今日は奇跡を見せないそうよ」
「体調が優れないとか……」

 だが、それはすぐに別の言葉で塗り替えられる。

「神に選ばれた方ですもの。お休みも必要よね」

 疑問は、信仰の名の下に封じ込められていく。

 夜。
 私は屋敷の書斎で最後の書類に目を通し、ペンを置いた。

「冷たい、ですか……」

 噂通りの評価を、否定する気はなかった。
 冷たいのではない。
 感情よりも責任を優先してきただけだ。

 窓の外では、星が静かに瞬いている。
 この領地では、誰も私を“婚約者”として見ない。
 ただ、ノルディス家の一員として、必要とするだけだ。

 その事実が、今は心地よかった。

 翌朝、私は一通の手紙を受け取った。
 差出人は、王都の商会に勤める旧知の人物。

『最近、取引の調整が進みません。
 以前のように話が噛み合わないのです』

 短い文面だが、意味は明確だった。

 私はゆっくりと手紙を折り畳み、机の上に置く。

「……始まりましたね」

 私がいなくなったことで、回らなくなった歯車。
 それを“偶然”と呼べるのは、今のうちだけだ。

 冷たい令嬢と呼ばれた私は、ただ静かに役目を終えただけ。
 それでもなお、世界は少しずつ、不器用に歪み始めている。

 その歪みが、やがて誰の目にも明らかになる日が来ることを――
 この時の私は、まだ冷静に、確信していた。
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