働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第一話 帳簿を開く令嬢

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第一話 帳簿を開く令嬢

 夜会の翌朝、ルクセリア公爵家の執務室には、朝の光が静かに差し込んでいた。

 重厚な机の上には、山と積まれた書類。その中央に、ひときわ厚みのある帳簿が置かれている。

 エルミリア・フォン・ルクセリアは、ゆっくりとそれを開いた。

 さらさら、と紙がめくられる音だけが響く。

「お嬢様、本日はこちらの報告からでございます」

 執事が差し出した封筒を受け取り、彼女は封を切る。

 視線が文字をなぞる。

 わずかに眉が動く。

「……やはり、港の整備費が少し増えておりますわね」

「はい。しかし、その分来季の収穫量は安定すると見込まれております」

「ならば問題ございませんわ」

 淡々とした声。

 怒りも焦りもない。

 ただ、確認し、判断する。

 それだけだ。

 そのとき、部屋の扉が遠慮なく開かれた。

「またそんなものを見ているのかい?」

 軽い足取りで入ってきたのは、ギヨーム・ド・ラトゥール侯爵子息。

 婚約者である彼は、椅子に腰かけもせず、帳簿を覗き込む。

「朝から数字とは、感心しないな」

 エルミリアは顔を上げる。

「おはようございます、ギヨーム様」

「挨拶はいい。君は最近、ますます商人のようだ」

 からかうような笑み。

 彼は帳簿を指で軽く叩いた。

「貴族がこんな細かいものを確認する必要があるか? それは執事の仕事だろう」

 執事は視線を落としたまま、何も言わない。

 エルミリアは扇を閉じ、静かに答えた。

「確認することは、品位を損なう行為ではございませんわ」

「いや、損なうね」

 ギヨームはあっさり言い切る。

「貴族は堂々としていればいい。金の話ばかりでは、威厳が下がる」

 彼は窓辺へ歩き、外の庭を眺める。

「父もよく言っていた。帳簿に縛られる貴族は三流だ、と」

「そうでございますか」

「君も、もう少し肩の力を抜いたほうがいい」

 振り返る彼の表情は、悪意ではない。

 ただ、本気でそう思っている。

 それが、エルミリアには重かった。

「私は働いておりませんわ」

 彼女は穏やかに言う。

「働いていない?」

「ええ。私が手を動かしているわけではございませんもの」

 ギヨームは満足げにうなずいた。

「そうだ、それでいい。貴族が汗を流すなど、みっともない」

 エルミリアは続ける。

「ですが、最終の決裁は致します」

 空気がわずかに止まる。

「……決裁?」

「はい。誰を任せるか。どこに任せるか。続けるか、止めるか。その責任は私にございます」

 彼は少し眉をひそめた。

「責任など、重く考えすぎだ」

「そうでしょうか」

 ギヨームは肩をすくめる。

「金は回るものだ。多少増減があろうと、侯爵家が揺らぐことはない」

 エルミリアはその言葉を、静かに胸に落とした。

 “金は回るもの”。

 誰が回しているのか。

 それを、彼は考えたことがあるのだろうか。

「今夜の夜会では、あまり数字の話をしないように」

 彼は軽く笑う。

「華やかに、堂々と。それが貴族の務めだ」

「……心得ておりますわ」

「ならいい」

 彼は満足して部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 しばしの沈黙。

 執事が恐る恐る口を開く。

「お嬢様」

「構いません」

 エルミリアは再び帳簿を開く。

 数字が並ぶ。

 それは冷たいものではない。

 領地の作物。働く人々の賃金。整備された港。支えられた商会。

 すべてが、ここにある。

「……威厳とは、何でしょうね」

 誰に向けるでもない問い。

 執事は答えない。

 エルミリアは小さく微笑む。

「私は汗を流しておりませんわ。けれど、見ております」

 静かな声。

「見なければ、守れませんもの」

 窓の外では、庭師が黙々と働いている。

 彼らの手の動き。

 あれは労働だ。

 自分は違う。

 だが、目を逸らせば――

 すべてが崩れる。

 彼女はもう一度、ページをめくった。

 その指先は迷いがない。

 この日、エルミリアはまだ知らない。

 やがてその帳簿を否定した男が、帳簿に縛られることになるとは。

 けれど今は、ただ静かに。

 数字を確認し、未来を選び続ける。

 それが、彼女の在り方だった。
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