働いたら負けって、もう負けてますわ。 ―お小遣い制侯爵様は、奥様が怖い―』

ふわふわ

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第二十九話 徳政令の亡霊

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第二十九話 徳政令の亡霊

 王都に、奇妙な噂が流れた。

「南方の伯爵家が、王に泣きついたらしい」 「借金の帳消しを願い出たとか」

 徳政令。

 その言葉は、久しぶりに人々の口に上った。

 かつては救いの札。

 だが同時に、信用を焼き払う火種でもある。

 ラトゥール侯爵邸の書斎。

 ギヨームは報告書を読み終え、ゆっくりと紙を置いた。

「……まだ、この手を使う者がいるのか」

 声は低い。

 驚きよりも、重さが滲む。

「おります」

 ヴィオレーヌは淡々と答える。

「即効性がございますから」

「だが、その後は」

「信用が消えます」

 静かな断言。

 彼は目を閉じる。

 かつての自分。

 金が回らぬとき、王の名を盾にすればよいと本気で考えていた。

 あの頃は、それが当然だと思っていた。

 貴族の特権。

 守られる身分。

 責任のない救済。

「……愚かだな」

 ぽつりと漏れる。

 ヴィオレーヌは否定も肯定もせず、ただ続ける。

「徳政令は、助ける代わりに“次”を失います」

「次」

「誰も貸さなくなる」

 その一言は重い。

 金は回るが、信用は残る。

 残らなければ、金も回らない。

 数日後。

 王宮で緊急の評議が開かれた。

 南方伯爵家の願いは、却下された。

 理由は単純。

 財政に余裕がない。

 だが本当の理由は別にある。

 王は言った。

「自助なくして救済なし」

 貴族たちは沈黙した。

 時代が変わりつつあることを、誰もが感じていた。

 評議の帰り道。

 若い貴族がギヨームに近づく。

「侯爵様、徳政令が出ぬとは厳しい時代ですな」

「厳しくはない」

 ギヨームは静かに答える。

「当然だ」

「当然?」

「責任を負わぬ家が、救われ続けるほうが異常だ」

 若い貴族は黙る。

 かつてなら、彼も同じ言葉を吐いただろう。

 だが今は違う。

 帰宅後。

 侯爵邸の庭に立つ。

 夜風が静かに吹く。

「私は、あの亡霊に縋るところだった」

 徳政令という亡霊。

 一瞬の救い。

 永遠の信用の損失。

「縋られませんでした」

 ヴィオレーヌが隣に立つ。

「止められました」

 彼は苦笑する。

「止められた、か」

「ええ」

 彼女の声は穏やかだ。

「止められたことを、今は良しとされております」

 ギヨームは空を見上げる。

 星は変わらず瞬いている。

 救済の光ではない。

 ただ、そこにある光。

 一方。

 ルクセリア公爵邸では、南方の動向が報告されていた。

「伯爵家、信用失墜」

 エルミリアは短く頷く。

「当然ですわ」

 感情はない。

 責めるでもなく、哀れむでもなく。

 選択の結果。

 それだけ。

 夜が深まる。

 ラトゥール侯爵邸の灯りは消えていない。

 徳政令の亡霊は、静かに遠ざかる。

 救いに頼らない家だけが、明日を迎える。
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