婚約破棄は、他人事ですので

ふわふわ

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第二十四話 当事者になった時に

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第二十四話 当事者になった時に

 理想的な婚約者――。

 その言葉を、アバンダンティア・コーニュコピアは、この数日で何度聞いたか分からない。

 茶会でも、舞踏の場でも、
 控えめな声で、あるいは羨望を隠さぬ調子で、
 人々は同じ評価を口にする。

 落ち着いている。
 無理がない。
 価値観が合っている。

 それらはすべて、事実だ。
 少なくとも、外から見れば。

 だが――
 彼女は、ふとした瞬間に立ち止まるようになっていた。

 夜、ひとりの書斎。

 帳簿も、書簡も閉じ、
 灯りを落とした静かな空間で、
 アバンダンティアは椅子に深く腰掛ける。

(……当事者になると)

 心の中で、その言葉を反芻する。

(どう、かしら)

 観客でいる間は、簡単だった。

 構造を見る。
 配置を読む。
 流れを把握し、価値に変換する。

 感情は、対象。
 熱狂は、資源。
 破綻は、結果。

 すべてが整理できた。

 だが今は――
 自分自身が、配置の一部になっている。

 その違和感は、まだ小さい。
 だが、確実に存在していた。

 数日前の晩餐会。

 席順は完璧だった。
 マーキュリーは、必要な時に話し、
 必要でない時には沈黙を選ぶ。

 周囲は安心し、
 空気は滞らず、
 問題は起きない。

 それなのに。

(……なぜかしら)

 アバンダンティアは、グラスを持つ指先の感覚を思い出す。

 不快ではない。
 緊張もない。

 ただ、
 分析の対象が、自分にも及び始めている。

 彼女は、マーキュリーを見ている。

 同時に、
 マーキュリーに見られている自分を、
 どこかで測っている。

(観察者同士、だったはずですのに)

 役割が、少しずつ変わり始めている。

 翌日、二人は短時間だけ顔を合わせた。

 用件は簡単な確認。
 社交の予定と、同席の必要性。

 それだけのはずだった。

「次の舞踏会ですが」

 マーキュリーが言う。

「主催者から、二人での参加を強く求められています」

「ええ。想定内ですわ」

 アバンダンティアは即答する。

「拒否する理由はありません」

 正しい答えだ。
 合理的だ。
 だが、そのやり取りの最中、
 彼女は自分の内側に、微細な遅れを感じた。

 ほんの一瞬。
 思考が、言葉に追いつくまでの空白。

 マーキュリーは、それを見逃さなかった。

「……何か、気になりますか」

 声は穏やかだ。
 だが、以前よりも一歩近い。

「いいえ」

 アバンダンティアは、首を横に振る。

「ただ、考えていただけですわ」

「何を?」

 その問いは、自然だった。
 だが――
 観察ではなく、関心が混じっている。

 アバンダンティアは、少しだけ言葉を選んだ。

「立場が変わると、
 見えるものも変わるのだと」

 マーキュリーは、すぐには答えなかった。

 彼もまた、
 何かを感じ取っているのだろう。

「……確かに」

 やや遅れて、そう言う。

「私は、
 “理想的であること”を、
 どこかで当然だと思い始めていました」

 その言葉に、アバンダンティアは視線を上げる。

「当然、ですか」

「ええ」

 マーキュリーは、自覚的だった。

「あなたと並ぶと、
 問題が起きない。
 評価が下がらない」

 彼は、少し困ったように続ける。

「……それを、良いことだと
 疑わずにいました」

 アバンダンティアは、静かに頷く。

 それは、責めるべきことではない。
 だが――

(それは、“外側”の評価ですわ)

 彼女は、心の中で整理する。

 理想的であること。
 問題が起きないこと。

 それらは、
 観客にとっての価値だ。

 当事者にとっては――
 まだ、分からない。

「マーキュリー様」

 彼女は、穏やかに言う。

「今は、何も問題ありません」

「ええ」

「ですが」

 一拍置く。

「わたくしたちは、
 すでに“見る側”ではありませんの」

 その言葉は、静かだが、明確だった。

 マーキュリーは、しばらく黙り込む。

 やがて、小さく息を吐いた。

「……そうですね」

 理解はしている。
 だが、
 どう扱えばいいかは、
 まだ分からない。

 アバンダンティアは、それを見て取る。

(当事者になると、難しいですわね)

 その言葉を、
 彼女はまだ口に出さない。

 だが、確かに感じている。

 観覧席は、
 もう、遠い。

 今、自分は――
 舞台の上に立っている。

 その事実が、
 静かに、
 しかし確実に、
 彼女の思考を変え始めていた。
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