『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第十話 声なき嘆願

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第十話 声なき嘆願


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王宮の執務室に、朝の光が差し込む。
分厚いカーテン越しの柔らかな明かりは、いつもなら女王ルイス・クイーンの一日の始まりを告げる合図だった。

だが、その日の机の上は、いつもと違っていた。

書類の山。
正式な上奏文ではない。
封蝋も、決まった書式もない。
それでも、一通一通が丁寧に折られ、慎重に封じられている。

嘆願書。

女王は、最初の一通を手に取った。

差出人は、地方伯爵夫人。
内容は、簡潔だった。

――娘が、鏡を見ることをやめました。
――外に出る理由を、見失っています。
――あの方がいた頃、娘は笑っていました。

女王は、ゆっくりと紙を閉じる。

二通目。
三通目。

――妻が、人と会うのを怖がるようになった。
――老いることが、恥だと信じ込んでしまった。
――エルメス様のところでは、そんな言葉は聞かなかった。

四通目には、男爵の名があった。
短い文面の最後に、こう添えられている。

――王としてではなく、母として、女として、
――どうか、考えていただきたい。

女王は、しばらく机に手を置いたまま、動かなかった。

「……声を上げられぬ者ほど、
 こうして、静かに書くのだな」

独り言のように呟く。

彼女は、思い返す。
エルメス・シャネルが去った日の背中を。
引き留めなかった自分の判断を。

正しかったのか。
それとも、逃したのか。

答えは、机の上に積み上がっていた。

同じ頃、王都の街では、別の形の変化が起きていた。

美容サロン《シャネル》の前。
閉ざされた扉の前に、花束が置かれている。

最初は、一つだけだった。
だが、日を追うごとに増えていく。

誰が置いたのか、名はない。
だが、添えられた小さな紙には、短い言葉が記されていた。

――ありがとうございました。
――また、前を向けました。
――今は、少しだけ、休みます。

通りがかる人々は、それを見て足を止める。
何も言わず、ただ、静かに。

噂は、自然と広がった。

「やっぱり、必要だったのよ」
「いなくなって、初めてわかることってあるわよね」

それは非難でも抗議でもない。
ただの、事実の共有だった。

王宮では、魔法研究院が再び招集されていた。

「……結論は、前回と同じです」

老魔導士が、深く頭を下げる。

「エルメス・シャネルの魔法は、
 理論上の再現が不可能です」

「感情と時間、
 そして施術を受ける者との信頼関係——
 それらすべてが組み合わさって、初めて成立する」

「技術だけを切り取ることはできません」

沈黙。

誰も反論しなかった。

「つまり」

若い研究者が、意を決したように言う。

「彼女がいなければ、
 同じ結果は、二度と得られない」

その言葉が、重く落ちる。

女王は、その報告を聞き終えると、静かに立ち上がった。

「……ありがとう」

研究者たちを下がらせ、再び執務机に戻る。

そこには、新たな嘆願書が、また一通、加えられていた。

差出人は、王宮侍女の連名。

――私たちは、鏡の前で泣いたことがあります。
――エルメス様のところでは、泣いてもよいと、
――そう言われました。

女王は、その紙を胸元に引き寄せた。

「……国とは」

小さく、呟く。

「制度や力だけでは、成り立たぬものだな」

人の心が、あってこそ。

その日の夜、女王は、非公式の会合を招集した。
集まったのは、貴族夫人、王族の女性、そして数名の重臣。

議題は、ただ一つ。

「エルメス・シャネルを、
 どう扱うべきか」

誰も、追放の正当性を口にしなかった。
もはや、それを主張できる者はいない。

「呼び戻すべきだ」
「正式な謝罪が必要ですわ」
「彼女が望まぬなら、無理にではなく……」

意見は分かれた。
だが、方向は同じだった。

——失ったままでは、いられない。

会合が終わり、女王は一人、夜の回廊を歩く。

窓から見える王都の灯りは、変わらず美しい。
だが、その一つ一つの下に、
揺れる心があることを、今ははっきりと感じていた。

「……エルメス」

名を、そっと呼ぶ。

それは命令でも、懇願でもない。
ただの、問いかけだった。

彼女が去ったことで生まれた沈黙は、
もはや無視できるものではない。

声なき嘆願は、
確かに、国を動かし始めていた。

そして女王ルイス・クイーンは、
次に取るべき一手を、
静かに、しかし確実に決めつつあった。

それが、
この国と、
一人の令嬢の未来を、
再び交差させることになるとは——
まだ、表には出ていなかったとしても。
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