『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

文字の大きさ
32 / 39

第三十三話 頼られない勇気

しおりを挟む
第三十三話 頼られない勇気


---

港町の朝は、思ったよりも騒がしかった。
市場の中央で声が重なり、箱が倒れ、誰かが呼び合っている。
エルメスは、宿の入口で立ち止まり、その様子を遠巻きに見た。

「……喧嘩?」

女主人が、奥から顔を出す。

「いや、
 荷の配分で揉めてるだけ」

それだけのことだ。
だが、揉め事は揉め事。
誰かが“まとめ役”を期待される場面でもある。

エルメスは、一歩も動かなかった。

以前なら、
彼女は前に出ていただろう。
言葉を選び、
状況を整理し、
納得できる落とし所を提示する。

——それが、できたから。
——それを、求められていたから。

だが、今は違う。

市場の中央では、
当事者同士が声を張り上げ、
やがて、第三者が割って入る。

「ちょっと待て」
「今日は、船が二つ入ったんだ」
「なら、順番を変えよう」

不器用なやり取り。
遠回りな妥協。
だが、彼ら自身の言葉だ。

エルメスは、
それを、最後まで見届ける。

——解決した。

拍子抜けするほど、
普通に。

女主人が、横で笑う。

「手を出さなかったわね」

「はい」

「……もどかしくなかった?」

エルメスは、少し考え、
正直に答える。

「なりました」

女主人は、
意外そうに眉を上げる。

「でも」

エルメスは、続ける。

「もどかしさを引き受けるのも、
 ここで生きる一部だと思いました」

午前中、
彼女は港の端にある小さな作業場へ向かった。

今日は、
誰にも頼まれていない。
ただ、
昨日見かけた壊れかけの棚が、
気になったから。

工具を手に取り、
木を確かめ、
釘を打つ。

そこへ、
通りがかった老人が声をかける。

「……直すのかい?」

「ええ。
 壊れていましたから」

「頼んだ覚えは、ないが」

「ええ」

エルメスは、笑う。

「だから、
 途中までです」

老人は、
一瞬きょとんとして、
それから、頷いた。

「……それで、いいな」

作業は、
完全ではない。
使えるようにはなるが、
美しくはない。

だが、
完成させないことで、
 誰かの手が、残る。

昼、
エルメスは市場の外れで、
簡単な食事を取る。

干し肉と、果物。
それだけ。

隣の席で、
若い母親が、
子どもを叱っている。

「だから、
 人に頼りすぎちゃだめでしょ!」

子どもは、
むっとして俯く。

エルメスは、
視線を落とし、
その場を離れる。

——口を出さない。
——教えない。
——正さない。

それもまた、
頼られない勇気だ。

午後、
裏庭に、見慣れない男が現れた。

身なりは整っているが、
表情は硬い。

「……エルメス・シャネル様、
 お時間を」

その呼び方に、
胸の奥が、かすかに波立つ。

「……“様”は、
 必要ありません」

男は、
一瞬、言葉に詰まる。

「王都から来ました。
 あなたに、
 相談があり——」

エルメスは、
遮らない。
だが、
座るようにも促さない。

「ここは、
 相談を受ける場所ではありません」

男は、
驚いた顔をする。

「ですが……
 あなたなら——」

「“あなたなら”は、
 もう、使えません」

言葉は、
きっぱりしていた。

「私は、
 ここで暮らす、
 一人の住民です」

沈黙が落ちる。

男は、
何か言いかけ、
やがて、深く頭を下げた。

「……失礼しました」

立ち去る背中は、
どこか軽くなっている。

——期待が、外れたからだ。

だが同時に、
彼は、
自分で考える場所へ戻った。

夕方、
裏庭には、数人が集まっていた。

話題は、
昼の市場の騒ぎ。

「結局さ、
 誰もまとめ役いなかったのに、
 なんとかなったよね」

「不思議」

「……慣れただけじゃない?」

エルメスは、
その輪の中で、
黙って頷く。

頼られないことは、
 孤立ではない。
 自立を、信じるということだ。

夜。
部屋に戻り、
灯りを点ける。

机の上には、
何もない。

それを見て、
不安はない。

むしろ、
誇らしい。

——今日は、
 誰の人生にも、
 介入しなかった。

——そして、
 誰も、
 それで困らなかった。

第三十三話は、
エルメスが、
自分の力を誇示しない回だった。

力を持ちながら、
使わない。

頼られながら、
応じない。

それは、
冷たさではない。

他人の可能性を、
 信じ切る勇気だった。

彼女は、
灯りを消し、
静かに横になる。

明日も、
頼られないかもしれない。

だが、
それでいい。

ここでは、
誰もが、
自分の足で立つことを、
許されているのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愚かな者たちは国を滅ぼす【完結】

春の小径
ファンタジー
婚約破棄から始まる国の崩壊 『知らなかったから許される』なんて思わないでください。 それ自体、罪ですよ。 ⭐︎他社でも公開します

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

【完結】私の望み通り婚約を解消しようと言うけど、そもそも半年間も嫌だと言い続けたのは貴方でしょう?〜初恋は終わりました。

るんた
恋愛
「君の望み通り、君との婚約解消を受け入れるよ」  色とりどりの春の花が咲き誇る我が伯爵家の庭園で、沈痛な面持ちで目の前に座る男の言葉を、私は内心冷ややかに受け止める。  ……ほんとに屑だわ。 結果はうまくいかないけど、初恋と学園生活をそれなりに真面目にがんばる主人公のお話です。 彼はイケメンだけど、あれ?何か残念だな……。という感じを目指してます。そう思っていただけたら嬉しいです。 彼女視点(side A)と彼視点(side J)を交互にあげていきます。

処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!

秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。 民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。 「おまえたちは許さない」 二度目の人生。 エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。 彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。 1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。 「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」 憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。 二人の偽りの婚約の行く末は……

とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜

入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】 社交界を賑わせた婚約披露の茶会。 令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。 「真実の愛を見つけたんだ」 それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。 愛よりも冷たく、そして美しく。 笑顔で地獄へお送りいたします――

【完結】その人が好きなんですね?なるほど。愚かな人、あなたには本当に何も見えていないんですね。

新川ねこ
恋愛
ざまぁありの令嬢もの短編集です。 1作品数話(5000文字程度)の予定です。

【完結済】婚約破棄から始まる物語~真実の愛と言う茶番で、私の至福のティータイムを邪魔しないでくださいな

をち。「もう我慢なんて」書籍発売中
恋愛
 約束の時間に遅れ、さらには腕に女性を貼り付けて登場したアレックス殿下。  彼は悪びれることすらなく、ドヤ顔でこう仰いました。 「レティシア。君との婚約は破棄させてもらう」  婚約者の義務としての定例のお茶会。まずは遅れたことに謝罪するのが筋なのでは? 1時間も待たせたあげく、開口一番それですか? しかも腕に他の女を張り付けて? うーん……おバカさんなのかしら? 婚約破棄の正当な理由はあるのですか? 1話完結です。 定番の婚約破棄から始まるザマァを書いてみました。

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

処理中です...