『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第三十四話 境界線を引くということ

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第三十四話 境界線を引くということ


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港町に、久しぶりに強い雨が降った。
朝から空は重く、雲は低く垂れ込み、
道はすぐにぬかるみ、足音は鈍くなる。

エルメスは、窓辺に立ち、
雨が地面を叩く様子を静かに眺めていた。

——今日は、動かない。

それを決めるのに、
理由はいらなかった。

王都にいた頃なら、
天候は関係なかった。
雨でも、雪でも、
求められれば応じ、
状況が悪ければ、
より多くを差し出す。

だが今は、
違う。

「……境界線、ね」

独り言は、
雨音に紛れて消える。

午前中、
裏庭に人は集まらなかった。
この天気では、無理もない。

エルメスは、
椅子を片づけ、
庭に出るのをやめ、
部屋で本を読むことにした。

内容は、
特別なものではない。
歴史書でも、
魔法書でもない。

ただの、
旅の記録。

誰かが、
どこへ行き、
何を見て、
何も得られなかった話。

ページをめくりながら、
エルメスは思う。

——何も得られない旅も、
 確かに、旅だ。

昼過ぎ、
雨脚が一段と強くなったころ、
宿の扉が叩かれた。

女主人が、
少し困った顔で戻ってくる。

「……来客よ」

「どなたですか?」

「町の外から来た人。
 女性で……
 あなたに会いたいって」

エルメスは、
一瞬だけ、視線を落とす。

「……通しても?」

女主人は、
確認するように聞いた。

「いいえ」

即答だった。

女主人は、
少し驚いたが、
何も言わず、
再び扉の方へ向かう。

数分後、
戻ってきた彼女は、
小さく肩をすくめた。

「……帰ったわ」

「そうですか」

それだけで、
会話は終わる。

胸の奥に、
わずかな違和感が残る。

——冷たかっただろうか。
——拒絶だっただろうか。

エルメスは、
自分に問いかけ、
そして、答える。

違う。

今日は、
 “会わない”と、
 自分で決めただけだ。

それは、
誰かを否定することではない。

自分の輪郭を、
守ることだ。

午後、
雨は弱まり、
町に人の気配が戻る。

裏庭に、
一人の女性が現れた。

常連の一人だ。
最近は、
あまり来なくなっていた。

「……今日は、
 来ちゃだめな日だった?」

言い方は、
冗談めいているが、
目は真剣だ。

エルメスは、
正直に答える。

「……今日は、
 誰にも、
 会うつもりはありませんでした」

女性は、
少し驚き、
それから、頷く。

「そっか」

「……嫌でしたか?」

「ううん」

女性は、
ゆっくりと首を振る。

「昔の私なら、
 傷ついてたと思う」

「でも?」

「今は……
 “今日はそういう日”って、
 受け取れる」

それは、
とても大きな変化だった。

「……境界線、
 引けるようになったのね」

「ええ」

エルメスは、
微笑む。

「あなたも」

女性は、
少し照れたように笑い、
短く話をして、
すぐに帰っていった。

無理に引き留めない。
必要以上に、近づかない。

それが、
この場所の、
暗黙の約束になりつつある。

夕方、
町の通りで、
小さな口論が起きた。

雨で崩れた道の補修を、
誰がやるか、
という話だ。

「エルメスさんに、
 聞けばいいじゃないか」

誰かが、
軽く言う。

その瞬間、
空気が止まる。

エルメスは、
一歩前に出る。

だが、
答えは、
期待されたものではなかった。

「……それは、
 私の役割ではありません」

声は、
静かだが、
はっきりしている。

「ここに住む人たちで、
 決めてください」

誰かが、
戸惑ったように言う。

「でも……
 あなたなら、
 公平に——」

「公平さを、
 誰か一人に預けると、
 他の人は、
 考えなくなります」

沈黙。

だが、
反論は出なかった。

やがて、
数人が集まり、
話し合いが始まる。

不器用で、
時間はかかる。

だが、
確実に、
彼らの問題として、
進んでいく。

エルメスは、
その様子を、
少し離れた場所で見守る。

——介入しない。
——正解を出さない。

それが、
今の彼女の、
選んだ立ち位置だった。

夜。
部屋に戻り、
灯りを点ける。

雨は、
いつの間にか止んでいる。

窓を開けると、
湿った空気の向こうに、
星が見えた。

「……境界線を引くって、
 孤独になることじゃない」

むしろ——
誰とも、
 無理に重ならないという、
 安心だ。

アンフェアリは、
境界線を、
力で引こうとした。

だから、
すべてを失った。

だが、
エルメス・シャネルは違う。

境界線を、
静かに示し、
越えない。

それは、
拒絶ではない。

尊重だ。

第三十四話は、
誰かを救わない回だった。

だが、
誰かの人生に、
余白を残した回でもある。

そして、
その余白こそが——
この町で、
人々が、自分の足で立つための、
確かな地面になりつつあった。

エルメスは、
灯りを消し、
静かに横になる。

明日もまた、
境界線を引く場面は、
きっと訪れる。

だが、
もう迷わない。

それが、
ここで生きると決めた、
彼女の覚悟だった。
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