『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第三十六話 戻らない選択

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第三十六話 戻らない選択


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朝、港町に霧が降りた。
音を吸い込むような白さが、
通りも、人の声も、
すべてを柔らかく包み込んでいる。

エルメスは、窓を開け、
その霧を眺めた。

——今日は、
 王都からの使者が来る。

女主人から、
昨夜、短く告げられていた。

「断ってもいいのよ」
そう付け加えられて。

エルメスは、
その言葉を、
一晩、胸の奥で転がした。

断る。
受けない。
関わらない。

——それは、
 すでに選び続けてきた道だ。

だが、
今日は少し違う。

“戻るかどうか”を、
 問われる日だからだ。

午前、
裏庭に、
整った足音が響いた。

霧の向こうから現れたのは、
王都の紋章を胸に付けた男。

かつて、
何度も顔を合わせた官僚だった。

「……お久しぶりです、
 エルメス・シャネル公爵令嬢」

その呼び名に、
胸が、わずかに波打つ。

「今は、
 そう名乗っていません」

男は、
一瞬、言葉を詰まらせ、
それから、丁寧に頭を下げた。

「失礼しました。
 ——エルメス殿」

それだけで、
彼が、
どれほど言葉を選んでいるかが、
分かった。

「用件を」

エルメスは、
椅子を勧めることなく、
静かに促す。

男は、
書簡を取り出した。

封蝋には、
女王ルイス・クイーンの紋章。

「陛下より、
 正式な要請です」

開封は、
エルメス自身に委ねられている。

だが、
彼女は、
それを受け取らなかった。

「内容は、
 分かっています」

男は、
驚いた顔をする。

「……復権、
 王都への帰還、
 美容魔法の再提供」

エルメスは、
淡々と列挙する。

「王国の女性たちは、
 あなたを待っています。
 市場も、
 貴族社会も、
 混乱が続いている」

「ええ」

「……なぜ、
 ここまで、
 落ち着いていられるのですか」

男の声には、
個人的な感情が滲んでいた。

エルメスは、
少し考え、
正直に答える。

「私は、
 もう“必要とされる場所”で
 生きるのを、
 選ばないと決めました」

霧が、
二人の間を流れる。

「ですが——」

「分かっています」

エルメスは、
遮らずに続ける。

「私が戻れば、
 多くの人が、
 安心するでしょう」

「なら——」

「でも」

言葉を切る。

「それは、
 “私がいなければ、
 成り立たない状態”を
 温存するだけです」

男は、
言葉を失う。

「王国は、
 私がいなくても、
 進まなければならない」

「……それが、
 陛下のお考えとは、
 限りません」

エルメスは、
静かに笑った。

「だからこそ、
 私は戻りません」

沈黙。

男は、
書簡を持つ手を、
ゆっくり下ろした。

「……あなたは、
 ご自分が、
 どれほど影響力を
 持っているか、
 分かっていない」

「いいえ」

エルメスは、
即答する。

「分かっているから、
 戻らないのです」

その言葉は、
揺るがなかった。

男は、
深く息を吐き、
そして、頭を下げた。

「……伝えます」

去り際、
彼は、
小さく言った。

「……それでも、
 戻りたくなったら」

エルメスは、
首を振る。

「戻りません」

霧の中に、
足音が消える。

昼過ぎ、
港町は、
少しずつ霧が晴れ始めた。

市場の喧騒が、
戻ってくる。

エルメスは、
通りを歩きながら、
胸の奥を確かめる。

——迷いは、
 ない。

あるのは、
静かな確信だけ。

午後、
宿の女主人が、
声をかけてきた。

「……来たんでしょう」

「ええ」

「断った?」

「はい」

女主人は、
しばらく黙り、
それから、
少し困ったように笑う。

「……あんた、
 相変わらず、
 重い決断を、
 軽くするわね」

「軽くは、
 ありません」

エルメスは、
首を横に振る。

「ただ、
 一度、
 自分で立つと決めたら、
 戻らないだけです」

夕方、
裏庭で、
子どもたちが遊んでいる。

以前なら、
彼女の周りに集まり、
質問を浴びせていた子たち。

今日は、
ただ、
笑い声だけがある。

エルメスは、
その様子を、
少し離れた場所で見守る。

——ここに、
 私の居場所がある。

それは、
肩書でも、
力でもない。

選び続けた結果としての、
 静かな場所だ。

夜、
部屋に戻り、
灯りを点ける。

机の上に、
何も置かれていない。

だが、
今日は違う。

心の中に、
はっきりと、
線が引かれていた。

——私は、
 戻らない。

第三十六話は、
エルメスが、
“拒絶”を選んだ回だった。

復権でもなく、
和解でもなく、
赦しでもない。

未来を、
 自分の足で選ぶための、
 明確な拒否。

彼女は、
灯りを消し、
霧の残る夜に身を委ねる。

王都は、
遠い。

だが、
もう、
振り返る必要はなかった。
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