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第三十八話 何も与えない手
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第三十八話 何も与えない手
---
朝の港町は、珍しく静かだった。
風はあるが、強くはない。
雲も低いが、雨を落とすほどではない。
まるで、
世界そのものが、
一呼吸置いているような朝だった。
エルメスは、
宿の裏庭で、
湯気の立つカップを両手で包み、
ゆっくりと息を吸う。
——今日は、
誰も、
訪ねてこないだろう。
理由は、
はっきりしていた。
彼女は、
もう“何かを与える人”ではないと、
広く知られ始めていたからだ。
午前、
市場へ向かう途中、
一人の若い女性が、
エルメスに気づいて立ち止まった。
躊躇いが、
はっきりと表情に出ている。
「……あの」
声をかけかけて、
言葉を飲み込む。
エルメスは、
歩みを止め、
待った。
急かさない。
促さない。
「……いえ、
なんでもありません」
女性は、
そう言って、
小さく頭を下げ、
立ち去ろうとする。
エルメスは、
呼び止めなかった。
——それで、いい。
以前なら、
ここで声をかけていた。
「どうしましたか」
「何か困っていますか」
だが、
その言葉は、
相手の選択肢を、
一つ奪う。
——“頼る”という選択肢を、
強制的に提示してしまう。
今のエルメスは、
それをしない。
市場の中央では、
年配の女性たちが、
鏡の前で、
小声で話している。
「……ほら、
やっぱり、
ここ、増えたわよね」
「増えたって、
皺でしょ」
「そうよ」
苦笑いが、
混じる。
「前なら、
気づかなかったのに」
「前が、
おかしかったのよ」
その言葉に、
周囲が一瞬、
黙り込む。
誰も、
否定しなかった。
エルメスは、
それを横目で見ながら、
果物を選ぶ。
——世界は、
彼女が何もしなくても、
確実に変わっている。
昼、
宿に戻ると、
女主人が腕を組んで待っていた。
「……今日は、
静かすぎるわね」
「ええ」
「逆に、
不安にならない?」
エルメスは、
少し考え、
首を横に振る。
「不安より、
確認に近いです」
「確認?」
「私が、
何も与えなくても、
世界は回るかどうか」
女主人は、
一瞬、
目を見開き、
それから、
苦笑した。
「……厄介な人になったわね」
「ええ」
「でも、
嫌いじゃない」
午後、
港の外れで、
小さな事故が起きた。
荷車が、
石に引っかかり、
倒れたのだ。
積まれていた箱が散らばり、
中身が転がる。
人が集まり、
一瞬、
視線がエルメスに向く。
——以前なら、
ここで、
自然と彼女が前に出た。
だが、
今日は違う。
エルメスは、
その場に立ったまま、
一歩も動かない。
数秒の、
気まずい沈黙。
やがて、
一人の青年が、
声を上げる。
「……みんな、
見てないで、
手、貸そう」
別の男が、
頷く。
「そうだな」
人々が動き、
箱が拾われ、
荷車が起こされる。
誰も、
エルメスを、
呼ばなかった。
それを見て、
彼女の胸の奥に、
小さな痛みが走る。
——寂しさ。
だが、
同時に、
はっきりとした安堵があった。
これは、
置いていかれたのではない。
解放されたのだ。
夕方、
例の若い女性が、
再び現れた。
今度は、
まっすぐ、
エルメスの前に立つ。
「……さっきは、
すみませんでした」
「いいえ」
「……聞きたいことが、
一つだけ、
あります」
エルメスは、
頷く。
「答えられないかもしれませんが」
女性は、
深く息を吸い、
言った。
「あなたが、
何も与えないと決めたのは、
優しさですか?
それとも、
冷たさですか?」
静かな問いだった。
エルメスは、
すぐには答えなかった。
しばらく、
沈黙。
そして、
穏やかに口を開く。
「どちらでも、
ありません」
女性は、
目を見開く。
「それは、
覚悟です」
「覚悟……?」
「人は、
与えられると、
自分で掴むことを、
忘れます」
「……」
「だから私は、
何も与えない」
エルメスは、
続ける。
「あなたが、
自分の手で、
何かを掴む瞬間を、
奪わないために」
女性は、
しばらく黙り込み、
やがて、
小さく笑った。
「……難しいですね」
「ええ」
「でも、
少し、
分かった気がします」
彼女は、
深く頭を下げ、
今度こそ、
迷いなく去っていった。
夜。
部屋に戻り、
エルメスは、
灯りを点ける。
机の上には、
相変わらず、
何もない。
だが、
その空白は、
もう、
不安を生まない。
第三十八話は、
エルメスが、
“与えないこと”を、
完全に受け入れた回だった。
救わない。
導かない。
手を引かない。
それでも、
世界は進む。
人は歩く。
彼女は、
灯りを消し、
静かに横になる。
その手は、
空だ。
だが、
だからこそ、
誰かが、
自分の手で、
何かを掴める。
——それが、
彼女の選んだ、
最後まで残る役割だった。
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朝の港町は、珍しく静かだった。
風はあるが、強くはない。
雲も低いが、雨を落とすほどではない。
まるで、
世界そのものが、
一呼吸置いているような朝だった。
エルメスは、
宿の裏庭で、
湯気の立つカップを両手で包み、
ゆっくりと息を吸う。
——今日は、
誰も、
訪ねてこないだろう。
理由は、
はっきりしていた。
彼女は、
もう“何かを与える人”ではないと、
広く知られ始めていたからだ。
午前、
市場へ向かう途中、
一人の若い女性が、
エルメスに気づいて立ち止まった。
躊躇いが、
はっきりと表情に出ている。
「……あの」
声をかけかけて、
言葉を飲み込む。
エルメスは、
歩みを止め、
待った。
急かさない。
促さない。
「……いえ、
なんでもありません」
女性は、
そう言って、
小さく頭を下げ、
立ち去ろうとする。
エルメスは、
呼び止めなかった。
——それで、いい。
以前なら、
ここで声をかけていた。
「どうしましたか」
「何か困っていますか」
だが、
その言葉は、
相手の選択肢を、
一つ奪う。
——“頼る”という選択肢を、
強制的に提示してしまう。
今のエルメスは、
それをしない。
市場の中央では、
年配の女性たちが、
鏡の前で、
小声で話している。
「……ほら、
やっぱり、
ここ、増えたわよね」
「増えたって、
皺でしょ」
「そうよ」
苦笑いが、
混じる。
「前なら、
気づかなかったのに」
「前が、
おかしかったのよ」
その言葉に、
周囲が一瞬、
黙り込む。
誰も、
否定しなかった。
エルメスは、
それを横目で見ながら、
果物を選ぶ。
——世界は、
彼女が何もしなくても、
確実に変わっている。
昼、
宿に戻ると、
女主人が腕を組んで待っていた。
「……今日は、
静かすぎるわね」
「ええ」
「逆に、
不安にならない?」
エルメスは、
少し考え、
首を横に振る。
「不安より、
確認に近いです」
「確認?」
「私が、
何も与えなくても、
世界は回るかどうか」
女主人は、
一瞬、
目を見開き、
それから、
苦笑した。
「……厄介な人になったわね」
「ええ」
「でも、
嫌いじゃない」
午後、
港の外れで、
小さな事故が起きた。
荷車が、
石に引っかかり、
倒れたのだ。
積まれていた箱が散らばり、
中身が転がる。
人が集まり、
一瞬、
視線がエルメスに向く。
——以前なら、
ここで、
自然と彼女が前に出た。
だが、
今日は違う。
エルメスは、
その場に立ったまま、
一歩も動かない。
数秒の、
気まずい沈黙。
やがて、
一人の青年が、
声を上げる。
「……みんな、
見てないで、
手、貸そう」
別の男が、
頷く。
「そうだな」
人々が動き、
箱が拾われ、
荷車が起こされる。
誰も、
エルメスを、
呼ばなかった。
それを見て、
彼女の胸の奥に、
小さな痛みが走る。
——寂しさ。
だが、
同時に、
はっきりとした安堵があった。
これは、
置いていかれたのではない。
解放されたのだ。
夕方、
例の若い女性が、
再び現れた。
今度は、
まっすぐ、
エルメスの前に立つ。
「……さっきは、
すみませんでした」
「いいえ」
「……聞きたいことが、
一つだけ、
あります」
エルメスは、
頷く。
「答えられないかもしれませんが」
女性は、
深く息を吸い、
言った。
「あなたが、
何も与えないと決めたのは、
優しさですか?
それとも、
冷たさですか?」
静かな問いだった。
エルメスは、
すぐには答えなかった。
しばらく、
沈黙。
そして、
穏やかに口を開く。
「どちらでも、
ありません」
女性は、
目を見開く。
「それは、
覚悟です」
「覚悟……?」
「人は、
与えられると、
自分で掴むことを、
忘れます」
「……」
「だから私は、
何も与えない」
エルメスは、
続ける。
「あなたが、
自分の手で、
何かを掴む瞬間を、
奪わないために」
女性は、
しばらく黙り込み、
やがて、
小さく笑った。
「……難しいですね」
「ええ」
「でも、
少し、
分かった気がします」
彼女は、
深く頭を下げ、
今度こそ、
迷いなく去っていった。
夜。
部屋に戻り、
エルメスは、
灯りを点ける。
机の上には、
相変わらず、
何もない。
だが、
その空白は、
もう、
不安を生まない。
第三十八話は、
エルメスが、
“与えないこと”を、
完全に受け入れた回だった。
救わない。
導かない。
手を引かない。
それでも、
世界は進む。
人は歩く。
彼女は、
灯りを消し、
静かに横になる。
その手は、
空だ。
だが、
だからこそ、
誰かが、
自分の手で、
何かを掴める。
——それが、
彼女の選んだ、
最後まで残る役割だった。
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