『時間を止める女は、もういない』

ふわふわ

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第四十話 選ばれなかった未来の、その先で

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第四十話 選ばれなかった未来の、その先で


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朝は、驚くほど穏やかだった。
昨夜の雨は地面を洗い、
港町は、まるで一度リセットされたかのように静かだ。

エルメスは、窓を開け、
湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。

——終わる日だ。

物語としての終わり。
けれど、
人生としては、
何一つ終わらない日。

それが、
この朝だった。

市場に向かうと、
人々はいつも通りに動いている。

魚を並べる者。
声を張る者。
値段に眉をひそめる者。

誰も、
彼女を特別扱いしない。

それは、
かつて想像もできなかった光景だ。

「……なあ、
 最近さ」

通りすがりに、
そんな声が聞こえる。

「歳、とるの、
 怖くなくなってきた」

「は?」

「いや、
 怖いけど……
 前より、
 ちゃんと怖い」

曖昧な言葉。
だが、
確かな実感。

エルメスは、
それを聞き、
何も言わずに歩き去る。

——もう、
 言葉を足す必要はない。

午前、
宿の裏庭で、
小さな集まりができていた。

特別な会ではない。
ただ、
近所の人々が、
椅子を持ち寄って、
日陰で話しているだけ。

子どもも、
大人も、
老人もいる。

誰かが、
話題を振る。

「……エルメス」

名前が、
自然に呼ばれる。

彼女は、
顔を上げる。

「あなた、
 もう、
 魔法、使わないの?」

直接的な問い。

だが、
そこに、
責める色はない。

エルメスは、
少し考え、
穏やかに答える。

「使いません」

「……ずっと?」

「ええ」

「後悔は?」

問いは、
慎重だった。

エルメスは、
はっきりと首を振る。

「ありません」

一瞬、
静寂。

それから、
誰かが笑う。

「……じゃあ、
 ここにいる理由は?」

それは、
王都なら、
決して許されなかった質問。

だが、
今は違う。

エルメスは、
空を見上げ、
ゆっくりと言った。

「選ばれなかった未来を、
 背負わずに生きるためです」

誰も、
すぐには理解しなかった。

それで、いい。

「私は、
 必要とされる場所に、
 戻ることもできました」

「称えられることも、
 崇められることも、
 できたでしょう」

「でも」

言葉を切る。

「それは、
 “私がいなければ、
 困る世界”に、
 戻るということでした」

沈黙が落ちる。

「……ここは、
 違います」

エルメスは、
一人ひとりの顔を見る。

「私がいなくても、
 回る」

「私が黙っていても、
 決まる」

「私が何も与えなくても、
 人は、
 自分で手を伸ばす」

「それが、
 私が選んだ世界です」

誰かが、
小さく息を吐く。

「……なんかさ」

若い女性が言う。

「あなた、
 すごく、
 普通だね」

エルメスは、
微笑んだ。

「それが、
 望みでしたから」

昼、
一人で食事を取る。

質素なパンと、
温かいスープ。

かつて、
女王の食卓に並んでいた料理より、
ずっと簡素だ。

だが、
今の彼女には、
これで十分だった。

午後、
港の端で、
あの青年が歩いているのを見かける。

まだ、
少しぎこちないが、
足取りは安定している。

仲間と話しながら、
時折、
笑っている。

彼は、
エルメスに気づき、
一瞬、
立ち止まりそうになった。

だが、
彼女は、
首を横に振る。

——来なくていい。

青年は、
それを理解したように、
小さく頷き、
仲間の輪へ戻った。

夕方、
女主人が、
珍しく酒を持ってきた。

「……今日で、
 一区切り、
 でしょう」

「ええ」

「それでも、
 明日は来る」

「ええ」

二人は、
並んで座り、
夕焼けを眺める。

「ねえ」

女主人が言う。

「アンフェアリのこと、
 恨んでる?」

エルメスは、
少し考え、
答える。

「恨んでいません」

「赦した?」

「赦しても、
 いません」

女主人は、
驚いた顔をする。

「……じゃあ?」

「彼は、
 私の人生に、
 もう、
 必要ない人です」

それは、
復讐よりも、
ずっと重い言葉だった。

夜。
部屋に戻り、
灯りを点ける。

机の上は、
最初から最後まで、
空のままだった。

だが、
そこに、
何かを書き残す必要はない。

彼女の選択は、
誰かに読まれるためのものではない。

——生きられるためのものだ。

エルメスは、
鏡の前に立つ。

そこに映るのは、
若さを止めた女でも、
奇跡を操る魔女でもない。

ただ、
時間と共に在る、
一人の女性だ。

「……これでいい」

小さく、
そう呟く。

第四十話は、
勝利でも、
逆転でも、
喝采でもなかった。

それでも。

選ばれなかった未来を、
 静かに手放し、
 自分の人生を、
 自分の重さで歩く。

それが、
エルメス・シャネルが選んだ、
唯一の“ざまぁ”だった。

灯りを消す。

外では、
波の音が、
規則正しく続いている。

明日も、
同じ音がするだろう。

それでいい。

物語は終わる。
だが、
彼女の人生は、
今日も、
何事もなく、
続いていく。
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