『沈黙を選んだ令嬢は、対等な未来を手に取る』

ふわふわ

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第8話 静かな同意と、動き出す準備

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第8話 静かな同意と、動き出す準備

 朝の光が、いつもより少しだけ柔らかく感じられた。

 目を覚ました私は、すぐに起き上がることもせず、しばらく天井を眺めていた。
 外から聞こえるのは、庭師が砂利を整える音と、遠くで鳴く鳥の声。

(……今日も、平和ですわ)

 そう思ってから、ようやく身体を起こす。
 昨日までと変わらない朝。
 けれど、胸の奥では、確かに何かが「整った」感覚があった。

 それは高揚でも、不安でもない。
 ただ、静かな同意――自分自身との合意だ。

「お嬢様」

 支度を整えていると、マルタが控えめに声をかけてきた。

「はい」

「旦那様より、お昼前にお時間をいただきたいと」

 私は少し考えてから、頷いた。

「分かりましたわ。では、それまでいつも通りで」

 “いつも通り”。
 その言葉が、これほど心地よく響くようになったのは、いつからだろう。

 朝食後、私は庭に出た。

 芝生は丁寧に刈り込まれ、花壇の花々は静かに季節を主張している。
 その間を歩きながら、私はふと、自分の足取りが軽いことに気づいた。

(決めたから、ですわね)

 白い約束を、受け入れるかどうか。
 アルベリク・フォン・グラーフ侯爵という存在を、自分の生活に迎え入れるかどうか。

 その答えは、もう出ている。

 私は“前向きに検討する”と伝えた。
 それは、曖昧な逃げではなく、慎重な肯定だった。

 そして、肯定したからこそ、
 次に進む準備が必要になる。

 ――私の生活を、壊さないための準備が。

 昼前、父の書斎に呼ばれた。

 扉を開けると、父はすでに書類を整理し終えた様子で、私を待っていた。

「座りなさい」

「失礼いたします」

 向かいに腰を下ろすと、父は一枚の書簡を差し出した。

「グラーフ侯爵からだ」

 私は受け取り、目を通す。

 内容は簡潔だった。

 ・形式上の婚約発表の時期
 ・最低限の社交対応
 ・居所は当面、各自の屋敷
 ・不要な接触は避ける

(徹底していますわね)

 けれど、それがありがたい。

「こちらからの条件は、すべて反映されている」

 父の言葉に、私は頷いた。

「ええ。無理のない形です」

「……本当に、それでいいのだな」

 父は、珍しく念を押すように尋ねた。

 私は、少しだけ考えてから答える。

「はい。私にとっては、これが一番です」

 華やかさも、称賛も、必要ない。
 静かに、自分の時間を守れるなら、それでいい。

 父は、しばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「ならば、進めよう」

 それは、許可というより、確認だった。

 書斎を出た後、私は自室に戻り、窓辺に立った。

 遠く、街の屋根が連なって見える。
 その向こうには、王城がある。

(……もう、戻ることはありませんわね)

 王太子ユージェーヌ。
 オデット・ド・ブランシェ。

 彼らのことを思い浮かべても、胸はざわつかない。
 感情が、すでに遠い。

 それよりも、考えるべきことがある。

 婚約発表がなされれば、再び視線が集まる。
 同情も、嫉妬も、好奇も。

 だが、以前とは違う。

(今回は、守られる側でいられますもの)

 盾になるのは、私ではない。
 それを引き受けると、はっきり言ってくれた人がいる。

 午後、私は久しぶりに、衣装部屋を開けた。

 派手なドレスが並ぶ中で、自然と手が伸びるのは、落ち着いた色合いのものばかりだ。

「……これで、十分ですわね」

 必要以上に着飾る必要はない。
 目立たず、けれど品を失わない。

 それが、今の私だ。

 夕方、マルタが紅茶を運んでくる。

「お嬢様、何か変わりましたか?」

 不意に、そう尋ねられた。

 私は一瞬考え、正直に答える。

「いいえ。何も」

 それから、少しだけ付け加えた。

「でも、“これでいい”と思えるようになりました」

 マルタは、柔らかく微笑んだ。

「それが一番でございますね」

 夜、ベッドに横になり、ランプを消す。

 暗闇の中で、私は静かに目を閉じた。

 白い約束は、まだ形を持たない。
 けれど、確実に輪郭を得つつある。

 私の日常は、壊れない。
 そのまま、次の場所へ移るだけ。

 音もなく、無理もなく。

 ――静かな同意は、
 いつの間にか、確かな一歩に変わっていた。

(第8話・完)
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