『沈黙を選んだ令嬢は、対等な未来を手に取る』

ふわふわ

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第15話 何も起きない一日と、確かに変わった立場

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第15話 何も起きない一日と、確かに変わった立場

 完全な終止符が打たれてから、数日が経った。

 ……そして、驚くほど何も起きなかった。

 王城からの使者は来ない。
 社交界からの招待状も届かない。
 噂話が沈静化したわけではないだろうが、少なくともアルトワ家の敷地内には、外のざわめきが一切入り込んでこなかった。

 私は朝、いつも通りの時間に目を覚ました。

 目覚ましも鳴らさず、誰にも起こされない。
 自然に目が開き、天井を見上げる。

(……本当に、平和ですわ)

 以前の私は、「何も起きない」ことに不安を覚えていた。
 自分が忘れられているのではないか。
 価値がなくなったのではないか。

 けれど今は違う。

 何も起きないのは、
 誰かに“動かされていない”という証拠だ。

 ゆっくりと身支度を整え、朝食の席に着く。
 紅茶の香りが、静かに立ち上る。

「お嬢様、本日は特にご予定はございません」

 マルタがそう告げる。

「ええ。把握していますわ」

 私は、当然のことのように頷いた。

 予定がない。
 それは、私にとって“自由が確保されている”という意味だ。

 朝食後、私は自室の窓辺で本を開いた。

 物語の中で、登場人物たちは相変わらず忙しなく動いている。
 誤解し、すれ違い、声を荒らげる。

(……皆さま、忙しいですわね)

 そう思いながらページをめくる自分に、少しだけ可笑しさを覚えた。

 昼前、父が珍しく私の部屋を訪ねてきた。

「邪魔をしてもいいか」

「もちろんですわ」

 父は、椅子に腰を下ろし、短く息を吐いた。

「報告だ。王家から正式に、“今後、私的接触を行わない”との文書が届いた」

 私は、少しだけ目を瞬いた。

「……文書で?」

「ああ。随分と丁寧にな」

 皮肉を含んだ声音だったが、父の表情は穏やかだった。

「これで完全に切れた。曖昧さは残らない」

「そうですか」

 それだけ答えて、私は紅茶に口をつけた。

 胸が騒がない。
 何かが終わった感覚も、もうない。

 ただ、「整理された」という感覚だけが残っている。

「……不思議なものだな」

 父が、ぽつりと言った。

「お前が何もしないことで、ここまで綺麗に片がつくとは」

 私は、少し考えてから答える。

「何もしなかったのではありませんわ」

 父は、私を見る。

「“引き受けなかった”だけです」

 期待も、役割も、後悔の受け皿も。
 それらを、私の場所に置かせなかった。

 父は、静かに頷いた。

「……強くなったな」

 私は、首を横に振る。

「いいえ。軽くなっただけです」

 重たいものを、持たなくなった。
 それだけの違いだ。

 父が去った後、私は再び本に戻った。

 午後は、うたた寝をして、目を覚まし、また少し読む。
 時間は、驚くほど滑らかに流れていく。

 夕方、マルタが紅茶を運んできた。

「お嬢様」

「はい」

「……皆さま、少し戸惑っていらっしゃいます」

「誰が、ですの?」

「周囲の方々が、でございます」

 私は、思わず微笑んだ。

「そうでしょうね」

 婚約破棄され、注目され、
 再び婚約し、そして――何も起こさない。

 刺激がない。
 波乱もない。

 観察する側にとっては、拍子抜けもいいところだろう。

「私は、今のままで結構ですわ」

 マルタは、安心したように微笑んだ。

「そのご様子が、一番でございます」

 夜、私はベッドに横になり、ランプを消した。

 今日一日を振り返っても、
 特別な出来事は何一つない。

 誰かに会ったわけでも、
 何かを決断したわけでもない。

 けれど。

(……立場は、確かに変わりましたわね)

 私はもう、
 誰かの選択の結果としてここにいる存在ではない。

 選ばれなかった令嬢でも、
 取り戻された元婚約者でもない。

 ただ、自分の距離を守る者。

 何も起きない一日は、
 その事実を、何より雄弁に証明していた。

 私は、穏やかな眠りに身を委ねる。

 静かな夜。
 静かな日常。

 それは、
 私がようやく手に入れた――
 揺るがない立場だった。
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