15 / 40
第15話 何も起きない一日と、確かに変わった立場
しおりを挟む
第15話 何も起きない一日と、確かに変わった立場
完全な終止符が打たれてから、数日が経った。
……そして、驚くほど何も起きなかった。
王城からの使者は来ない。
社交界からの招待状も届かない。
噂話が沈静化したわけではないだろうが、少なくともアルトワ家の敷地内には、外のざわめきが一切入り込んでこなかった。
私は朝、いつも通りの時間に目を覚ました。
目覚ましも鳴らさず、誰にも起こされない。
自然に目が開き、天井を見上げる。
(……本当に、平和ですわ)
以前の私は、「何も起きない」ことに不安を覚えていた。
自分が忘れられているのではないか。
価値がなくなったのではないか。
けれど今は違う。
何も起きないのは、
誰かに“動かされていない”という証拠だ。
ゆっくりと身支度を整え、朝食の席に着く。
紅茶の香りが、静かに立ち上る。
「お嬢様、本日は特にご予定はございません」
マルタがそう告げる。
「ええ。把握していますわ」
私は、当然のことのように頷いた。
予定がない。
それは、私にとって“自由が確保されている”という意味だ。
朝食後、私は自室の窓辺で本を開いた。
物語の中で、登場人物たちは相変わらず忙しなく動いている。
誤解し、すれ違い、声を荒らげる。
(……皆さま、忙しいですわね)
そう思いながらページをめくる自分に、少しだけ可笑しさを覚えた。
昼前、父が珍しく私の部屋を訪ねてきた。
「邪魔をしてもいいか」
「もちろんですわ」
父は、椅子に腰を下ろし、短く息を吐いた。
「報告だ。王家から正式に、“今後、私的接触を行わない”との文書が届いた」
私は、少しだけ目を瞬いた。
「……文書で?」
「ああ。随分と丁寧にな」
皮肉を含んだ声音だったが、父の表情は穏やかだった。
「これで完全に切れた。曖昧さは残らない」
「そうですか」
それだけ答えて、私は紅茶に口をつけた。
胸が騒がない。
何かが終わった感覚も、もうない。
ただ、「整理された」という感覚だけが残っている。
「……不思議なものだな」
父が、ぽつりと言った。
「お前が何もしないことで、ここまで綺麗に片がつくとは」
私は、少し考えてから答える。
「何もしなかったのではありませんわ」
父は、私を見る。
「“引き受けなかった”だけです」
期待も、役割も、後悔の受け皿も。
それらを、私の場所に置かせなかった。
父は、静かに頷いた。
「……強くなったな」
私は、首を横に振る。
「いいえ。軽くなっただけです」
重たいものを、持たなくなった。
それだけの違いだ。
父が去った後、私は再び本に戻った。
午後は、うたた寝をして、目を覚まし、また少し読む。
時間は、驚くほど滑らかに流れていく。
夕方、マルタが紅茶を運んできた。
「お嬢様」
「はい」
「……皆さま、少し戸惑っていらっしゃいます」
「誰が、ですの?」
「周囲の方々が、でございます」
私は、思わず微笑んだ。
「そうでしょうね」
婚約破棄され、注目され、
再び婚約し、そして――何も起こさない。
刺激がない。
波乱もない。
観察する側にとっては、拍子抜けもいいところだろう。
「私は、今のままで結構ですわ」
マルタは、安心したように微笑んだ。
「そのご様子が、一番でございます」
夜、私はベッドに横になり、ランプを消した。
今日一日を振り返っても、
特別な出来事は何一つない。
誰かに会ったわけでも、
何かを決断したわけでもない。
けれど。
(……立場は、確かに変わりましたわね)
私はもう、
誰かの選択の結果としてここにいる存在ではない。
選ばれなかった令嬢でも、
取り戻された元婚約者でもない。
ただ、自分の距離を守る者。
何も起きない一日は、
その事実を、何より雄弁に証明していた。
私は、穏やかな眠りに身を委ねる。
静かな夜。
静かな日常。
それは、
私がようやく手に入れた――
揺るがない立場だった。
完全な終止符が打たれてから、数日が経った。
……そして、驚くほど何も起きなかった。
王城からの使者は来ない。
社交界からの招待状も届かない。
噂話が沈静化したわけではないだろうが、少なくともアルトワ家の敷地内には、外のざわめきが一切入り込んでこなかった。
私は朝、いつも通りの時間に目を覚ました。
目覚ましも鳴らさず、誰にも起こされない。
自然に目が開き、天井を見上げる。
(……本当に、平和ですわ)
以前の私は、「何も起きない」ことに不安を覚えていた。
自分が忘れられているのではないか。
価値がなくなったのではないか。
けれど今は違う。
何も起きないのは、
誰かに“動かされていない”という証拠だ。
ゆっくりと身支度を整え、朝食の席に着く。
紅茶の香りが、静かに立ち上る。
「お嬢様、本日は特にご予定はございません」
マルタがそう告げる。
「ええ。把握していますわ」
私は、当然のことのように頷いた。
予定がない。
それは、私にとって“自由が確保されている”という意味だ。
朝食後、私は自室の窓辺で本を開いた。
物語の中で、登場人物たちは相変わらず忙しなく動いている。
誤解し、すれ違い、声を荒らげる。
(……皆さま、忙しいですわね)
そう思いながらページをめくる自分に、少しだけ可笑しさを覚えた。
昼前、父が珍しく私の部屋を訪ねてきた。
「邪魔をしてもいいか」
「もちろんですわ」
父は、椅子に腰を下ろし、短く息を吐いた。
「報告だ。王家から正式に、“今後、私的接触を行わない”との文書が届いた」
私は、少しだけ目を瞬いた。
「……文書で?」
「ああ。随分と丁寧にな」
皮肉を含んだ声音だったが、父の表情は穏やかだった。
「これで完全に切れた。曖昧さは残らない」
「そうですか」
それだけ答えて、私は紅茶に口をつけた。
胸が騒がない。
何かが終わった感覚も、もうない。
ただ、「整理された」という感覚だけが残っている。
「……不思議なものだな」
父が、ぽつりと言った。
「お前が何もしないことで、ここまで綺麗に片がつくとは」
私は、少し考えてから答える。
「何もしなかったのではありませんわ」
父は、私を見る。
「“引き受けなかった”だけです」
期待も、役割も、後悔の受け皿も。
それらを、私の場所に置かせなかった。
父は、静かに頷いた。
「……強くなったな」
私は、首を横に振る。
「いいえ。軽くなっただけです」
重たいものを、持たなくなった。
それだけの違いだ。
父が去った後、私は再び本に戻った。
午後は、うたた寝をして、目を覚まし、また少し読む。
時間は、驚くほど滑らかに流れていく。
夕方、マルタが紅茶を運んできた。
「お嬢様」
「はい」
「……皆さま、少し戸惑っていらっしゃいます」
「誰が、ですの?」
「周囲の方々が、でございます」
私は、思わず微笑んだ。
「そうでしょうね」
婚約破棄され、注目され、
再び婚約し、そして――何も起こさない。
刺激がない。
波乱もない。
観察する側にとっては、拍子抜けもいいところだろう。
「私は、今のままで結構ですわ」
マルタは、安心したように微笑んだ。
「そのご様子が、一番でございます」
夜、私はベッドに横になり、ランプを消した。
今日一日を振り返っても、
特別な出来事は何一つない。
誰かに会ったわけでも、
何かを決断したわけでもない。
けれど。
(……立場は、確かに変わりましたわね)
私はもう、
誰かの選択の結果としてここにいる存在ではない。
選ばれなかった令嬢でも、
取り戻された元婚約者でもない。
ただ、自分の距離を守る者。
何も起きない一日は、
その事実を、何より雄弁に証明していた。
私は、穏やかな眠りに身を委ねる。
静かな夜。
静かな日常。
それは、
私がようやく手に入れた――
揺るがない立場だった。
10
あなたにおすすめの小説
(完結)伯爵令嬢に婚約破棄した男性は、お目当ての彼女が着ている服の価値も分からないようです
泉花ゆき
恋愛
ある日のこと。
マリアンヌは婚約者であるビートから「派手に着飾ってばかりで財をひけらかす女はまっぴらだ」と婚約破棄をされた。
ビートは、マリアンヌに、ロコという娘を紹介する。
シンプルなワンピースをさらりと着ただけの豪商の娘だ。
ビートはロコへと結婚を申し込むのだそうだ。
しかし伯爵令嬢でありながら商品の目利きにも精通しているマリアンヌは首を傾げる。
ロコの着ているワンピース、それは仕立てこそシンプルなものの、生地と縫製は間違いなく極上で……つまりは、恐ろしく値の張っている服装だったからだ。
そうとも知らないビートは……
※ゆるゆる設定です
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
不実なあなたに感謝を
黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。
※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。
※曖昧設定。
※一旦完結。
※性描写は匂わせ程度。
※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
大好きな旦那様はどうやら聖女様のことがお好きなようです
古堂すいう
恋愛
祖父から溺愛され我儘に育った公爵令嬢セレーネは、婚約者である皇子から衆目の中、突如婚約破棄を言い渡される。
皇子の横にはセレーネが嫌う男爵令嬢の姿があった。
他人から冷たい視線を浴びたことなどないセレーネに戸惑うばかり、そんな彼女に所有財産没収の命が下されようとしたその時。
救いの手を差し伸べたのは神官長──エルゲンだった。
セレーネは、エルゲンと婚姻を結んだ当初「穏やかで誰にでも微笑むつまらない人」だという印象をもっていたけれど、共に生活する内に徐々に彼の人柄に惹かれていく。
だけれど彼には想い人が出来てしまったようで──…。
「今度はわたくしが恩を返すべきなんですわ!」
今まで自分のことばかりだったセレーネは、初めて人のために何かしたいと思い立ち、大好きな旦那様のために奮闘するのだが──…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる