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第16話 初めての外出と、静かな護衛
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第16話 初めての外出と、静かな護衛
その日は、久しぶりに「予定のある朝」だった。
といっても、社交の場でも、公式行事でもない。
ただ一つ、私自身が決めた用事があるだけ。
目を覚ますと、窓の外は穏やかな晴れ。
陽射しは柔らかく、風も強くない。
(……外に出るには、ちょうどいい日ですわね)
私はベッドから起き上がり、ゆっくりと身支度を始めた。
選んだ服は、いつもより少しだけ外向きの装い。
派手ではないが、屋敷の外に出ても違和感のないもの。
「お嬢様、本日は外出のご予定が?」
マルタが、控えめに尋ねる。
「ええ。街まで少し」
「街、でございますか」
その一言に、彼女が驚きを隠さなかったのは無理もない。
婚約発表以降、私はほとんど屋敷から出ていなかった。
「心配はいりませんわ。用事は短時間ですし、買い物も最小限です」
私はそう言って、手袋を取る。
「……念のため、お供を」
「ええ。二人ほどで十分です」
それ以上は、目立つ。
私は“動かない令嬢”でいる必要はないが、
“注目を集める令嬢”になるつもりもなかった。
馬車の用意が整い、屋敷の門をくぐる。
外の空気は、屋敷の中より少しだけ騒がしい。
人の声、車輪の音、遠くで鳴る鐘。
(……懐かしいですわね)
街に出るのは、王太子の婚約者だった頃以来だ。
けれど、その時の記憶とは、どこか違う。
緊張がない。
視線を気にして、背筋を張る必要もない。
馬車が止まり、扉が開く。
石畳の上に足を下ろした瞬間、
私はほんの少しだけ、呼吸が深くなるのを感じた。
「お嬢様、こちらへ」
護衛の一人が、静かに声をかける。
私は頷き、歩き出した。
目的は、街の一角にある小さな書店。
派手な店構えではないが、品揃えがよく、静かな場所だ。
店内に入ると、紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。
(……やはり、落ち着きますわ)
私はゆっくりと棚を見て回る。
新刊、古典、専門書。
人の気配はあるが、誰も私を特別扱いしない。
それが、何より心地よかった。
数冊選び、会計を済ませて外に出る。
その時だった。
「……ヴァレリア?」
聞き覚えのある声が、背後からかかる。
私は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、かつて王城で何度か顔を合わせた貴族の女性。
社交界では、噂話に敏感な人物として知られている。
「お久しぶりですわ」
私は、丁寧に礼をした。
「まあ……お元気そうで」
彼女の視線が、私の服装、護衛、手にした本へと移る。
「最近、お姿を見かけないと思っていたの」
「ええ。屋敷で過ごすことが多かったので」
「そう……」
間が、少しだけ空く。
彼女は、何かを探るように微笑んだ。
「婚約、おめでとうございます。お相手は……とてもお忙しい方だとか」
「そう伺っていますわ」
それ以上、私は何も付け足さない。
沈黙が、相手に委ねられる。
彼女は一瞬、戸惑ったようだったが、やがて軽く肩をすくめた。
「相変わらず、落ち着いていらっしゃるのね」
「そうでしょうか」
「ええ。……羨ましいくらい」
その言葉には、嘘がなかった。
彼女はそれ以上踏み込まず、軽く挨拶をして去っていった。
私は、静かに息を吐く。
(……大丈夫ですわね)
以前なら、この一言一言に、心が揺れていた。
噂の裏を読もうとし、意図を探り、疲れていた。
今は違う。
私は、返すべき言葉だけを返した。
それ以上でも、それ以下でもない。
馬車に戻る途中、護衛の一人が小さく言った。
「……失礼ですが、お嬢様。怖くはありませんでしたか」
「いいえ」
私は、即答した。
「むしろ、安心しました」
「安心、ですか?」
「ええ。外に出ても、私は私のままでいられると分かったので」
護衛は、それ以上何も言わなかった。
屋敷に戻ると、マルタが出迎える。
「お帰りなさいませ。いかがでしたか」
「とても、よい外出でしたわ」
私は本を机に置きながら答える。
「……それは、何よりでございます」
彼女の表情が、ほっと緩む。
午後、私は買ってきた本を開き、窓辺で読み始めた。
屋敷の中は、相変わらず静かだ。
けれど、その静けさは、外と断絶されたものではない。
私は、必要な時に外へ出られる。
そして、戻ってくる場所もある。
夜、ランプを消す前に、ふと思った。
(……これが、守られているということなのかもしれませんわね)
誰かが前に立って、声を上げるわけではない。
誰かが手を引いて、導くわけでもない。
ただ、必要な距離で、
必要な静けさが保たれている。
それだけで、人はこんなにも自由になれる。
初めての外出は、
小さく、静かで、
けれど確かな一歩だった。
私は、穏やかな気持ちで眠りにつく。
明日も、
きっと変わらない日常が続く。
――そして、それでいい。
その日は、久しぶりに「予定のある朝」だった。
といっても、社交の場でも、公式行事でもない。
ただ一つ、私自身が決めた用事があるだけ。
目を覚ますと、窓の外は穏やかな晴れ。
陽射しは柔らかく、風も強くない。
(……外に出るには、ちょうどいい日ですわね)
私はベッドから起き上がり、ゆっくりと身支度を始めた。
選んだ服は、いつもより少しだけ外向きの装い。
派手ではないが、屋敷の外に出ても違和感のないもの。
「お嬢様、本日は外出のご予定が?」
マルタが、控えめに尋ねる。
「ええ。街まで少し」
「街、でございますか」
その一言に、彼女が驚きを隠さなかったのは無理もない。
婚約発表以降、私はほとんど屋敷から出ていなかった。
「心配はいりませんわ。用事は短時間ですし、買い物も最小限です」
私はそう言って、手袋を取る。
「……念のため、お供を」
「ええ。二人ほどで十分です」
それ以上は、目立つ。
私は“動かない令嬢”でいる必要はないが、
“注目を集める令嬢”になるつもりもなかった。
馬車の用意が整い、屋敷の門をくぐる。
外の空気は、屋敷の中より少しだけ騒がしい。
人の声、車輪の音、遠くで鳴る鐘。
(……懐かしいですわね)
街に出るのは、王太子の婚約者だった頃以来だ。
けれど、その時の記憶とは、どこか違う。
緊張がない。
視線を気にして、背筋を張る必要もない。
馬車が止まり、扉が開く。
石畳の上に足を下ろした瞬間、
私はほんの少しだけ、呼吸が深くなるのを感じた。
「お嬢様、こちらへ」
護衛の一人が、静かに声をかける。
私は頷き、歩き出した。
目的は、街の一角にある小さな書店。
派手な店構えではないが、品揃えがよく、静かな場所だ。
店内に入ると、紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。
(……やはり、落ち着きますわ)
私はゆっくりと棚を見て回る。
新刊、古典、専門書。
人の気配はあるが、誰も私を特別扱いしない。
それが、何より心地よかった。
数冊選び、会計を済ませて外に出る。
その時だった。
「……ヴァレリア?」
聞き覚えのある声が、背後からかかる。
私は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、かつて王城で何度か顔を合わせた貴族の女性。
社交界では、噂話に敏感な人物として知られている。
「お久しぶりですわ」
私は、丁寧に礼をした。
「まあ……お元気そうで」
彼女の視線が、私の服装、護衛、手にした本へと移る。
「最近、お姿を見かけないと思っていたの」
「ええ。屋敷で過ごすことが多かったので」
「そう……」
間が、少しだけ空く。
彼女は、何かを探るように微笑んだ。
「婚約、おめでとうございます。お相手は……とてもお忙しい方だとか」
「そう伺っていますわ」
それ以上、私は何も付け足さない。
沈黙が、相手に委ねられる。
彼女は一瞬、戸惑ったようだったが、やがて軽く肩をすくめた。
「相変わらず、落ち着いていらっしゃるのね」
「そうでしょうか」
「ええ。……羨ましいくらい」
その言葉には、嘘がなかった。
彼女はそれ以上踏み込まず、軽く挨拶をして去っていった。
私は、静かに息を吐く。
(……大丈夫ですわね)
以前なら、この一言一言に、心が揺れていた。
噂の裏を読もうとし、意図を探り、疲れていた。
今は違う。
私は、返すべき言葉だけを返した。
それ以上でも、それ以下でもない。
馬車に戻る途中、護衛の一人が小さく言った。
「……失礼ですが、お嬢様。怖くはありませんでしたか」
「いいえ」
私は、即答した。
「むしろ、安心しました」
「安心、ですか?」
「ええ。外に出ても、私は私のままでいられると分かったので」
護衛は、それ以上何も言わなかった。
屋敷に戻ると、マルタが出迎える。
「お帰りなさいませ。いかがでしたか」
「とても、よい外出でしたわ」
私は本を机に置きながら答える。
「……それは、何よりでございます」
彼女の表情が、ほっと緩む。
午後、私は買ってきた本を開き、窓辺で読み始めた。
屋敷の中は、相変わらず静かだ。
けれど、その静けさは、外と断絶されたものではない。
私は、必要な時に外へ出られる。
そして、戻ってくる場所もある。
夜、ランプを消す前に、ふと思った。
(……これが、守られているということなのかもしれませんわね)
誰かが前に立って、声を上げるわけではない。
誰かが手を引いて、導くわけでもない。
ただ、必要な距離で、
必要な静けさが保たれている。
それだけで、人はこんなにも自由になれる。
初めての外出は、
小さく、静かで、
けれど確かな一歩だった。
私は、穏やかな気持ちで眠りにつく。
明日も、
きっと変わらない日常が続く。
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