『沈黙を選んだ令嬢は、対等な未来を手に取る』

ふわふわ

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第17話 小さな噂と、動かない選択

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第17話 小さな噂と、動かない選択

 外出から数日が経った。

 屋敷の中は、相変わらず静かだった。
 あの日、街へ出たことが特別な出来事として扱われることもなく、私の日常は元の形を保っている。

 ――少なくとも、表向きは。

 私は午前の光が差し込む居間で、本を読んでいた。
 ページをめくる指は落ち着いているし、紅茶の温度もちょうどいい。

 けれど、使用人たちの気配が、どこかそわそわしているのを感じていた。

(……来ましたわね)

 この屋敷に長くいれば、空気の変化は自然と分かる。

「お嬢様」

 予想通り、マルタが少し困った表情で声をかけてきた。

「何か、動きがありましたの?」

「はい……街でのお姿が、思いのほか話題になっているようで」

 私は、本を閉じて顔を上げた。

「話題、ですか」

「ええ。『思ったより普通だった』『落ち着いていて近寄りがたい』『以前より、ずっと余裕がある』など……」

 マルタは言葉を選びながら続ける。

「好意的なものが多いのですが、それだけに……」

「それだけに?」

「“今の立場をどう使うつもりなのか”と、探る声も出始めております」

 私は、思わず小さく笑ってしまった。

「使う、ですか」

「はい。グラーフ侯爵家との婚約を、何かの足掛かりにするのではないか、と」

 なるほど。

 動かない人間は、
 “いつ動くのか”を、周囲に意識させる。

 そして勝手に、理由を付けたがる。

「マルタ」

「はい」

「私は、何かを使うつもりはありませんわ」

「……存じております」

 彼女は、ほっとしたように息を吐いた。

「ですが、周囲はそうは思わないでしょうね」

「ええ。だからこそ、動かないのです」

 私は、静かに言った。

 噂に反応すれば、
 それは“図星”と受け取られる。

 否定しても、
 説明しても、
 話題は膨らむだけ。

 ――ならば、最初から相手にしない。

 それが、一番確実だ。

 昼前、父の使いが短い報告を持ってきた。

『グラーフ侯爵家の名を出して接触を試みる者が出ている。
 侯爵は、すでに把握済み。
 対応は不要』

 私は、その文面を読み、静かに頷いた。

(……やはり)

 周囲が動き出すとき、
 それは必ず“勝手な期待”を伴う。

 けれど、今回も私は前に出る必要がない。

 盾は、すでに機能している。

 午後、私は庭をゆっくりと散歩した。

 風は穏やかで、木々の葉が柔らかく揺れている。
 歩きながら、私はふと考える。

(もし、ここで私が何か声明を出したら)

 ――私は利用するつもりはありません。
 ――静かに過ごしたいだけです。

 そう言ったところで、
 誰が納得するだろう。

 人は、自分が期待した物語を、
 簡単には手放さない。

 だから私は、物語に参加しない。

 ただ、日常を続ける。

 夕方、屋敷に一通の書簡が届いた。

 差出人は、アルベリク・フォン・グラーフ。

 短い、簡潔な文。

> 外出後の噂について、把握している。
あなたが動かない選択をしたことは、正しい。
こちらで処理する。
日常を崩さないでほしい。



 私は、その文字を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

(……理解されている、というのは)

 これほどまでに、心を軽くするものなのか。

 私は返事を書くこともなく、書簡をそっと閉じた。

 それでいい。
 この関係では、それで通じる。

 夜、私はベッドに入り、天井を見上げた。

 小さな噂が立ち、
 周囲が勝手に期待し、
 そして、勝手に疲れていく。

 その中心に、私はいない。

 動かないという選択は、
 逃げでも、怠慢でもない。

 それは、
 自分の輪郭を守るための、
 最も明確な意思表示だ。

 私は、今日も何も決断しなかった。
 何も主張しなかった。

 けれど、それで十分だった。

 世界は、私が静かなままでいることを、
 少しずつ理解し始めている。

 ――そして、理解できない者から、
 自然と離れていく。

 それは、とても健全な流れだ。

 私は目を閉じ、穏やかな眠りに身を委ねた。

 明日もきっと、
 何も起きない。

 けれどその「何も起きない」は、
 確かに、私が選び取った結果だった。

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