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第10話 新天地へ
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第10話 新天地へ
出立の朝は、驚くほど静かだった。
ヴァレンシュタイン公爵家の中庭には、いつもより人影が少ない。
荷馬車に積み込まれるのは、最低限の荷物だけ。
豪奢な嫁入り道具も、過剰な装飾品もない。
(……身軽ですわね)
ノエリアは、薄手の外套を羽織りながら、そう思った。
王太子の婚約者として王宮に出入りしていた頃なら、
見送りには貴族が列をなし、
「惜しまれて嫁ぐ令嬢」という演出がなされていたはずだ。
けれど、今回は違う。
必要以上に騒がれない。
期待も、憐れみも、押し付けられない。
(これで、いい)
ノエリアは、心の中で静かに頷いた。
父――ヴァレンシュタイン公爵が、馬車の前に立つ。
「準備は整ったか?」
「はい」
「……無理は、するな」
短い言葉。
だが、そこに込められた思いは、十分すぎるほど伝わってくる。
「はい。
もう、誰かのために無理をするつもりはありません」
その返答に、父は一瞬だけ目を細めた。
「それでいい」
それ以上は、何も言わなかった。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
御者の合図とともに、車輪がゆっくりと回り始めた。
屋敷が遠ざかる。
生まれ育った場所が、少しずつ小さくなっていく。
けれど、不安はなかった。
(ここを出るのは、逃げではありませんわ)
ノエリアは、はっきりとそう思っていた。
自分で選び、
自分で決め、
自分で歩く。
それだけのことだ。
道中、馬車の中で手帳を開く。
王太子の予定が書き込まれていたページは、すでに白紙だ。
代わりに、簡潔なメモが並ぶ。
『公爵家到着』
『使用人との顔合わせ』
『執務環境の確認』
(……仕事は、仕事として)
感情を絡めない。
期待に応えようとしない。
白い結婚――
それは、冷たい契約ではない。
(責任の所在が、明確な契約ですわ)
馬車が進むにつれ、景色が変わっていく。
王都の喧騒が遠のき、
整備された街道から、静かな領地の風景へ。
やがて、黒を基調とした城館が見えてきた。
シュヴァルツクロイツ公爵家。
無駄な装飾はない。
だが、威圧ではなく、秩序を感じさせる佇まい。
(……落ち着きますわね)
到着すると、使用人たちが整然と並んで出迎えた。
「ようこそお越しくださいました、ノエリア様」
執事が一礼する。
その態度には、過剰な同情も、探るような視線もない。
――それが、何よりありがたかった。
館内に案内されながら、ノエリアは気づく。
廊下は無駄に広くない。
調度品は実用本位。
すべてが、効率を重視して配置されている。
(住むための屋敷、ですわ)
見せるための場所ではない。
私室に通されると、簡潔な説明がなされた。
「こちらが、ノエリア様のお部屋でございます。
必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください」
「ありがとうございます」
執事が下がり、部屋に一人になる。
窓から差し込む光は、柔らかい。
遠くに見えるのは、手入れの行き届いた庭。
ノエリアは、ゆっくりと息を吸った。
(……静かです)
王宮では、常に誰かの視線があった。
評価され、測られ、期待され続ける日々。
だが、ここでは――
(誰も、私に何かを求めていない)
それが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
ほどなくして、ノックの音が響く。
「ノエリア様」
扉の向こうから聞こえた声に、ノエリアは小さく微笑んだ。
「どうぞ」
入ってきたのは、アレスト・シュヴァルツクロイツだった。
「移動、お疲れだろう」
「問題ありません」
「無理をする必要はない。
今日は休め」
簡潔で、要点だけ。
だが、その言葉には――
命令ではなく、配慮があった。
「ありがとうございます」
アレストは、頷くだけで踵を返す。
引き止める言葉も、余計な確認もない。
(……本当に)
ノエリアは、心の中で思う。
(期待されないというのは、信頼されているということなのかもしれませんわね)
その夜。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら、ノエリアは静かに目を閉じた。
今日一日で、
婚約者としての自分は、完全に過去になった。
これからは。
(公爵夫人として。
そして、一人の人間として)
新しい日常が、始まる。
――王太子の隣ではない場所で。
ノエリア・ヴァレンシュタインは、
その事実を、少しの寂しさもなく受け入れていた。
ここが、新天地。
そして――
戻らないと決めた場所から、十分に離れた場所だった。
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出立の朝は、驚くほど静かだった。
ヴァレンシュタイン公爵家の中庭には、いつもより人影が少ない。
荷馬車に積み込まれるのは、最低限の荷物だけ。
豪奢な嫁入り道具も、過剰な装飾品もない。
(……身軽ですわね)
ノエリアは、薄手の外套を羽織りながら、そう思った。
王太子の婚約者として王宮に出入りしていた頃なら、
見送りには貴族が列をなし、
「惜しまれて嫁ぐ令嬢」という演出がなされていたはずだ。
けれど、今回は違う。
必要以上に騒がれない。
期待も、憐れみも、押し付けられない。
(これで、いい)
ノエリアは、心の中で静かに頷いた。
父――ヴァレンシュタイン公爵が、馬車の前に立つ。
「準備は整ったか?」
「はい」
「……無理は、するな」
短い言葉。
だが、そこに込められた思いは、十分すぎるほど伝わってくる。
「はい。
もう、誰かのために無理をするつもりはありません」
その返答に、父は一瞬だけ目を細めた。
「それでいい」
それ以上は、何も言わなかった。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
御者の合図とともに、車輪がゆっくりと回り始めた。
屋敷が遠ざかる。
生まれ育った場所が、少しずつ小さくなっていく。
けれど、不安はなかった。
(ここを出るのは、逃げではありませんわ)
ノエリアは、はっきりとそう思っていた。
自分で選び、
自分で決め、
自分で歩く。
それだけのことだ。
道中、馬車の中で手帳を開く。
王太子の予定が書き込まれていたページは、すでに白紙だ。
代わりに、簡潔なメモが並ぶ。
『公爵家到着』
『使用人との顔合わせ』
『執務環境の確認』
(……仕事は、仕事として)
感情を絡めない。
期待に応えようとしない。
白い結婚――
それは、冷たい契約ではない。
(責任の所在が、明確な契約ですわ)
馬車が進むにつれ、景色が変わっていく。
王都の喧騒が遠のき、
整備された街道から、静かな領地の風景へ。
やがて、黒を基調とした城館が見えてきた。
シュヴァルツクロイツ公爵家。
無駄な装飾はない。
だが、威圧ではなく、秩序を感じさせる佇まい。
(……落ち着きますわね)
到着すると、使用人たちが整然と並んで出迎えた。
「ようこそお越しくださいました、ノエリア様」
執事が一礼する。
その態度には、過剰な同情も、探るような視線もない。
――それが、何よりありがたかった。
館内に案内されながら、ノエリアは気づく。
廊下は無駄に広くない。
調度品は実用本位。
すべてが、効率を重視して配置されている。
(住むための屋敷、ですわ)
見せるための場所ではない。
私室に通されると、簡潔な説明がなされた。
「こちらが、ノエリア様のお部屋でございます。
必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください」
「ありがとうございます」
執事が下がり、部屋に一人になる。
窓から差し込む光は、柔らかい。
遠くに見えるのは、手入れの行き届いた庭。
ノエリアは、ゆっくりと息を吸った。
(……静かです)
王宮では、常に誰かの視線があった。
評価され、測られ、期待され続ける日々。
だが、ここでは――
(誰も、私に何かを求めていない)
それが、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。
ほどなくして、ノックの音が響く。
「ノエリア様」
扉の向こうから聞こえた声に、ノエリアは小さく微笑んだ。
「どうぞ」
入ってきたのは、アレスト・シュヴァルツクロイツだった。
「移動、お疲れだろう」
「問題ありません」
「無理をする必要はない。
今日は休め」
簡潔で、要点だけ。
だが、その言葉には――
命令ではなく、配慮があった。
「ありがとうございます」
アレストは、頷くだけで踵を返す。
引き止める言葉も、余計な確認もない。
(……本当に)
ノエリアは、心の中で思う。
(期待されないというのは、信頼されているということなのかもしれませんわね)
その夜。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら、ノエリアは静かに目を閉じた。
今日一日で、
婚約者としての自分は、完全に過去になった。
これからは。
(公爵夫人として。
そして、一人の人間として)
新しい日常が、始まる。
――王太子の隣ではない場所で。
ノエリア・ヴァレンシュタインは、
その事実を、少しの寂しさもなく受け入れていた。
ここが、新天地。
そして――
戻らないと決めた場所から、十分に離れた場所だった。
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