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第一話 選ばれなかった令嬢
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第一話 選ばれなかった令嬢
その日、王都の空気は妙に澄んでいた。
高い天井の舞踏会場には、絹と香水と期待が混じり合った、いつもと変わらぬ華やぎが満ちていたはずだった。けれど、クラリス・フォン・エルヴェインは、その中心に立ちながら、どこか遠くで物事を見ているような感覚に包まれていた。
――今日は、何かが起こる。
理由はなかった。ただ、長年人の顔色と声色を読み続けてきた経験が、そう告げていた。
正面に立つのは、婚約者であるアーヴィン・グレイソン伯爵令息。整った顔立ち、非の打ち所のない立ち居振る舞い。周囲から「次代を担う俊英」と評される男だ。その隣には、淡い色のドレスを身にまとった若い令嬢が控えている。最近、社交界で名を聞くようになった存在だった。
視線が集まる。
さざめきが、期待と好奇心を含んで膨らんでいく。
アーヴィンは一歩前に出た。
その動きに、会場全体が静まり返る。
「本日は、皆様にお伝えしたいことがあります」
張りのある声。迷いはない。
クラリスは黙って耳を傾けた。隣に立つ自分が、まるで背景の装飾に過ぎないかのように扱われていることにも、すでに慣れていた。
「長らく婚約関係にあったクラリス・フォン・エルヴェイン嬢との婚約を、本日をもって解消することを、ここに宣言します」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間、ざわめきが爆発する。
予想通りだった。
だからこそ、クラリスの表情は一切変わらなかった。
人々の視線が突き刺さる。哀れみ、興味、興奮、評価。
だが、どれも彼女の内側には届かない。
アーヴィンは続ける。
「理由は単純です。私は、よりふさわしい伴侶を得るべき立場にあります。クラリス嬢は誠実で、献身的でした。しかし――」
そこで一拍置き、隣の令嬢に視線を向ける。
「彼女には、私と並び立つ資質がありませんでした」
会場がどよめく。
それは、同情よりも先に、評価の空気だった。誰が正しく、誰が劣っていたのか。貴族社会において、それは娯楽に等しい。
クラリスは、ゆっくりと息を吸った。
怒りはない。悲しみもない。
あるのは、静かな確認だけだった。
――ああ、やはり、ここが終わりなのだ。
彼女は一歩前に出た。
ドレスの裾が、床をわずかに擦る音が響く。
「承知いたしました」
その声は、驚くほど澄んでいた。
会場の視線が一斉に集まる。
泣き崩れることも、取り乱すこともないその態度は、かえって人々を戸惑わせた。
「本日をもって、アーヴィン様との婚約を解消すること、私も異議はございません」
淡々とした言葉。
謝罪も、抗議も、縋りもない。
アーヴィンは一瞬だけ眉をひそめた。想定していた反応と違ったのだろう。だが、すぐに表情を整える。
「理解してもらえて助かります。君なら、分かってくれると思っていました」
その言葉に、クラリスは心の中で小さく笑った。
――ええ。分かっていますわ。
あなたが、何を選び、何を切り捨てたのか。
そして、それがどれほど合理的で、どれほど冷酷な判断だったのか。
「これまでのご厚情に感謝いたします」
そう告げ、クラリスは一礼した。
深く、完璧な礼だった。
その姿を見て、誰もが思っただろう。
彼女は敗者だ、と。
けれど、クラリス自身は違った。
この瞬間、確かに何かを失った。
だが同時に、長年背負い続けてきた重荷から解放された感覚も、確かにあったのだ。
婚約者としての役割。
補佐役としての立場。
彼が決断しやすいように整え、衝突を避け、周囲との摩擦をすべて吸収する存在。
それを、彼は「当然」として受け取っていた。
――もう、必要ないのね。
それなら、それでいい。
クラリスは背を向け、静かに会場を後にした。
背後で続くざわめきは、まるで遠い国の話のようだった。
夜風が、火照った頬を撫でる。
王都の灯りが、宝石のように輝いていた。
これから先、何が待っているのかは分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
彼女はもう、誰かの「都合のいい選択肢」ではない。
選ばれなかった令嬢は、その夜、初めて自分の人生を、自分のものとして取り戻したのだった。
その日、王都の空気は妙に澄んでいた。
高い天井の舞踏会場には、絹と香水と期待が混じり合った、いつもと変わらぬ華やぎが満ちていたはずだった。けれど、クラリス・フォン・エルヴェインは、その中心に立ちながら、どこか遠くで物事を見ているような感覚に包まれていた。
――今日は、何かが起こる。
理由はなかった。ただ、長年人の顔色と声色を読み続けてきた経験が、そう告げていた。
正面に立つのは、婚約者であるアーヴィン・グレイソン伯爵令息。整った顔立ち、非の打ち所のない立ち居振る舞い。周囲から「次代を担う俊英」と評される男だ。その隣には、淡い色のドレスを身にまとった若い令嬢が控えている。最近、社交界で名を聞くようになった存在だった。
視線が集まる。
さざめきが、期待と好奇心を含んで膨らんでいく。
アーヴィンは一歩前に出た。
その動きに、会場全体が静まり返る。
「本日は、皆様にお伝えしたいことがあります」
張りのある声。迷いはない。
クラリスは黙って耳を傾けた。隣に立つ自分が、まるで背景の装飾に過ぎないかのように扱われていることにも、すでに慣れていた。
「長らく婚約関係にあったクラリス・フォン・エルヴェイン嬢との婚約を、本日をもって解消することを、ここに宣言します」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間、ざわめきが爆発する。
予想通りだった。
だからこそ、クラリスの表情は一切変わらなかった。
人々の視線が突き刺さる。哀れみ、興味、興奮、評価。
だが、どれも彼女の内側には届かない。
アーヴィンは続ける。
「理由は単純です。私は、よりふさわしい伴侶を得るべき立場にあります。クラリス嬢は誠実で、献身的でした。しかし――」
そこで一拍置き、隣の令嬢に視線を向ける。
「彼女には、私と並び立つ資質がありませんでした」
会場がどよめく。
それは、同情よりも先に、評価の空気だった。誰が正しく、誰が劣っていたのか。貴族社会において、それは娯楽に等しい。
クラリスは、ゆっくりと息を吸った。
怒りはない。悲しみもない。
あるのは、静かな確認だけだった。
――ああ、やはり、ここが終わりなのだ。
彼女は一歩前に出た。
ドレスの裾が、床をわずかに擦る音が響く。
「承知いたしました」
その声は、驚くほど澄んでいた。
会場の視線が一斉に集まる。
泣き崩れることも、取り乱すこともないその態度は、かえって人々を戸惑わせた。
「本日をもって、アーヴィン様との婚約を解消すること、私も異議はございません」
淡々とした言葉。
謝罪も、抗議も、縋りもない。
アーヴィンは一瞬だけ眉をひそめた。想定していた反応と違ったのだろう。だが、すぐに表情を整える。
「理解してもらえて助かります。君なら、分かってくれると思っていました」
その言葉に、クラリスは心の中で小さく笑った。
――ええ。分かっていますわ。
あなたが、何を選び、何を切り捨てたのか。
そして、それがどれほど合理的で、どれほど冷酷な判断だったのか。
「これまでのご厚情に感謝いたします」
そう告げ、クラリスは一礼した。
深く、完璧な礼だった。
その姿を見て、誰もが思っただろう。
彼女は敗者だ、と。
けれど、クラリス自身は違った。
この瞬間、確かに何かを失った。
だが同時に、長年背負い続けてきた重荷から解放された感覚も、確かにあったのだ。
婚約者としての役割。
補佐役としての立場。
彼が決断しやすいように整え、衝突を避け、周囲との摩擦をすべて吸収する存在。
それを、彼は「当然」として受け取っていた。
――もう、必要ないのね。
それなら、それでいい。
クラリスは背を向け、静かに会場を後にした。
背後で続くざわめきは、まるで遠い国の話のようだった。
夜風が、火照った頬を撫でる。
王都の灯りが、宝石のように輝いていた。
これから先、何が待っているのかは分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
彼女はもう、誰かの「都合のいい選択肢」ではない。
選ばれなかった令嬢は、その夜、初めて自分の人生を、自分のものとして取り戻したのだった。
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