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第二話 切り捨てたもの、残されたもの
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第二話 切り捨てたもの、残されたもの
舞踏会の翌朝、エルヴェイン侯爵家の屋敷は、驚くほど静かだった。
使用人たちは必要以上に物音を立てず、廊下ですれ違えば深く頭を下げる。その態度が、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、否応なく突きつけてくる。
クラリス・フォン・エルヴェインは、自室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
朝露に濡れた薔薇が、淡い光を反射している。
――きれいね。
それが、今の正直な感想だった。
胸が張り裂けそうになることもない。涙が込み上げることもない。
むしろ、長い緊張から解き放たれたような、奇妙な軽さがあった。
「お嬢様……」
控えめなノックの後、侍女のマリアが入ってくる。
彼女は幼い頃からクラリスに仕えてきた、数少ない「本音を見せられる相手」だった。
「朝食のご用意が……」
「ええ。すぐに行くわ」
マリアは一瞬、言葉を探すように視線を揺らした。
「……お体は?」
「問題ないわ」
即答だった。
その声音に、マリアはかえって胸を痛めたように唇を噛む。
食堂では、父であるエルヴェイン侯爵がすでに席についていた。
厳格な表情はいつも通りだが、クラリスを見る目だけが、わずかに柔らいでいる。
「昨夜の件は聞いている」
無駄な前置きはなかった。
「はい」
「……辛かっただろう」
それは、労りというより確認に近い言葉だった。
だが、クラリスは首を横に振る。
「いいえ。父上」
侯爵が眉をひそめる。
「正直に申し上げますと……肩の荷が下りました」
その言葉に、父は小さく目を見開いた。
やがて、静かに息を吐く。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
エルヴェイン家は、王国でも古い歴史を持つ家柄だ。
華やかさよりも実務を重んじ、表に出るより裏で支えることを良しとしてきた。
クラリスは、その気質を色濃く受け継いでいた。
だからこそ、アーヴィンとの婚約は「相性がいい」と判断された。
彼が前に立ち、彼女が後ろで整える。
誰もが納得する役割分担だった。
――でも、それは「対等」ではなかった。
朝食後、書斎に呼ばれたクラリスは、久しぶりに家の帳簿や報告書に目を通した。
婚約期間中、彼女はほとんどそれらに関わらせてもらえなかった。
「花嫁修業に集中しなさい」という名目で。
だが、数字は嘘をつかない。
いくつかの取引、いくつかの人事。違和感が、確かに存在していた。
――これ……以前、私が指摘した件だわ。
アーヴィンに意見したことがある。
だが返ってきたのは、「君は心配性だな」という一言だけだった。
クラリスはペンを走らせ、静かに整理を始めた。
これは「侯爵令嬢として」ではなく、「エルヴェイン家の一員として」やるべきことだ。
一方その頃、グレイソン伯爵家は、祝賀ムードに包まれていた。
「これで、無駄な足枷が外れたな」
アーヴィンは、ワイングラスを傾けながら満足そうに言った。
隣に座る新しい婚約者は、彼の言葉に微笑みで応える。
「クラリス様は……優しすぎたのだと思いますわ」
「優しさだけでは、伯爵夫人は務まらない」
そう言い切る声に、迷いはない。
彼にとって、婚約破棄は「正しい選択」だった。
効率的で、将来を見据えた、賢明な判断。
誰かを傷つけたという認識すら、ほとんどなかった。
――彼女は、理解してくれただろう。
そう信じて疑わなかった。
だが、その頃クラリスは、静かに、確実に、自分の立ち位置を変え始めていた。
婚約者という仮の肩書きを失った代わりに、
彼女は「判断する側」に戻ったのだ。
選ばれなかったのではない。
切り捨てられたのでもない。
ただ、舞台が変わっただけ。
そしてその変化が、やがて誰の目にも明らかな形で現れることを、
この時、まだ誰も知らなかった。
舞踏会の翌朝、エルヴェイン侯爵家の屋敷は、驚くほど静かだった。
使用人たちは必要以上に物音を立てず、廊下ですれ違えば深く頭を下げる。その態度が、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、否応なく突きつけてくる。
クラリス・フォン・エルヴェインは、自室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
朝露に濡れた薔薇が、淡い光を反射している。
――きれいね。
それが、今の正直な感想だった。
胸が張り裂けそうになることもない。涙が込み上げることもない。
むしろ、長い緊張から解き放たれたような、奇妙な軽さがあった。
「お嬢様……」
控えめなノックの後、侍女のマリアが入ってくる。
彼女は幼い頃からクラリスに仕えてきた、数少ない「本音を見せられる相手」だった。
「朝食のご用意が……」
「ええ。すぐに行くわ」
マリアは一瞬、言葉を探すように視線を揺らした。
「……お体は?」
「問題ないわ」
即答だった。
その声音に、マリアはかえって胸を痛めたように唇を噛む。
食堂では、父であるエルヴェイン侯爵がすでに席についていた。
厳格な表情はいつも通りだが、クラリスを見る目だけが、わずかに柔らいでいる。
「昨夜の件は聞いている」
無駄な前置きはなかった。
「はい」
「……辛かっただろう」
それは、労りというより確認に近い言葉だった。
だが、クラリスは首を横に振る。
「いいえ。父上」
侯爵が眉をひそめる。
「正直に申し上げますと……肩の荷が下りました」
その言葉に、父は小さく目を見開いた。
やがて、静かに息を吐く。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
エルヴェイン家は、王国でも古い歴史を持つ家柄だ。
華やかさよりも実務を重んじ、表に出るより裏で支えることを良しとしてきた。
クラリスは、その気質を色濃く受け継いでいた。
だからこそ、アーヴィンとの婚約は「相性がいい」と判断された。
彼が前に立ち、彼女が後ろで整える。
誰もが納得する役割分担だった。
――でも、それは「対等」ではなかった。
朝食後、書斎に呼ばれたクラリスは、久しぶりに家の帳簿や報告書に目を通した。
婚約期間中、彼女はほとんどそれらに関わらせてもらえなかった。
「花嫁修業に集中しなさい」という名目で。
だが、数字は嘘をつかない。
いくつかの取引、いくつかの人事。違和感が、確かに存在していた。
――これ……以前、私が指摘した件だわ。
アーヴィンに意見したことがある。
だが返ってきたのは、「君は心配性だな」という一言だけだった。
クラリスはペンを走らせ、静かに整理を始めた。
これは「侯爵令嬢として」ではなく、「エルヴェイン家の一員として」やるべきことだ。
一方その頃、グレイソン伯爵家は、祝賀ムードに包まれていた。
「これで、無駄な足枷が外れたな」
アーヴィンは、ワイングラスを傾けながら満足そうに言った。
隣に座る新しい婚約者は、彼の言葉に微笑みで応える。
「クラリス様は……優しすぎたのだと思いますわ」
「優しさだけでは、伯爵夫人は務まらない」
そう言い切る声に、迷いはない。
彼にとって、婚約破棄は「正しい選択」だった。
効率的で、将来を見据えた、賢明な判断。
誰かを傷つけたという認識すら、ほとんどなかった。
――彼女は、理解してくれただろう。
そう信じて疑わなかった。
だが、その頃クラリスは、静かに、確実に、自分の立ち位置を変え始めていた。
婚約者という仮の肩書きを失った代わりに、
彼女は「判断する側」に戻ったのだ。
選ばれなかったのではない。
切り捨てられたのでもない。
ただ、舞台が変わっただけ。
そしてその変化が、やがて誰の目にも明らかな形で現れることを、
この時、まだ誰も知らなかった。
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