侯爵令嬢ローゼリアは、甘く溺愛されながら自分の道を歩く』

ふわふわ

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2−1 静かな朝と、小さな一歩

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第2章 お菓子作りという救い

2-1 静かな朝と、小さな一歩

昼をとうに過ぎた頃、
侯爵家の屋敷の一室――ローゼリアの寝室に光が差し込んだ。

ふかふかの枕に顔をうずめたまま、
彼女は片手を伸ばしてカーテンを少し開ける。
まぶしい日差しが差し込み、白い部屋を淡く照らした。

「……ふぁぁ……お昼、ですわね」

ゆっくりと起き上がり、寝ぼけまなこのまま伸びをする。
柔らかい布のナイトドレスが肩から滑り落ちそうになり、
慌てて袖を直しながら鏡の前に座った。

鏡の中には、
少し寝癖のついた金の髪、
それでも上品に整った顔立ちの自分が映っていた。

「婚約破棄された令嬢、ね……」

ぽつりと呟いて、微笑んだ。
「でも、なんて楽な響きでしょう」

侍女マリアがノックもせずに入ってきた。
「お嬢様、もうお昼を過ぎておりますよ!」

「ええ、完璧な寝坊ですわ。今日も良い朝です」

「……“朝”ではございませんが」

「細かいことは気にしないの。自由人の特権ですわ」

マリアはため息をつきながらも、
どこか楽しげに微笑んでいた。
「お昼の紅茶をお持ちしますね」

「お願い。あとできれば、甘いものも」

「昨日焼いたフィナンシェがございますが……」

「残ってるの? まあ、それなら温め直して持ってきて」

「かしこまりました」

マリアが去ったあと、
ローゼリアは椅子の背にもたれて天井を見上げた。

「本当に……こんな穏やかな時間、久しぶり」

十年間、彼女は王妃教育に縛られていた。
朝から晩まで礼儀、言葉、舞踏、政務、宗教、音楽。
笑顔ひとつにも正解があり、
間違えば父に叱責され、教師に冷たく訂正された。

それが今――。
好きな時間に起きて、好きな服を着て、好きなものを食べる。
ただそれだけのことが、
この上なく贅沢に思えた。

「私……こんなに小さなことを幸せだと思えるのね」

ローゼリアは微笑んで、窓の外を見た。
冬の光が庭園の氷をきらきらと照らしている。


---

数分後、マリアが戻ってきた。
銀のトレイの上には、
紅茶と温め直したフィナンシェ。
香ばしい焦がしバターの香りが漂う。

「お嬢様、焼き加減、昨日より少し焦げております」

「いいの。焦げるくらいが“人生の味”よ」

「名言ですね」

二人で小さく笑い合う。

ローゼリアは紅茶を啜りながら、
昨日の夜、手帳に書いた「明日からやることリスト」を思い出した。

> ・お菓子のレシピを増やす
・お昼まで寝る(最重要)
・庭園で読書
・マリアにティーカップの新調を頼む
・自分の人生を楽しむ



「そういえば、最初の項目は“お菓子のレシピを増やす”でしたわね」

「お嬢様、また作るのですか?」

「当然よ。今度はケーキに挑戦します」

「ケーキ、でございますか」

「はい。“人生再建記念ケーキ”です」

「……どんな記念ですか?」

「王太子殿下との別れを祝して――
“もう二度と胃が痛くならない生活”を祝うケーキ」

マリアは吹き出しそうになりながらも、
「最高の理由です」と微笑んだ。


---

午後。

厨房では、再びローゼリアの“実験”が始まっていた。
今日はスポンジケーキ。
王妃教育で学んだ理論を、今度は実践に生かす。

「泡立ては空気を入れるように、優しく、でも素早く……」

彼女の白い手が泡立て器を巧みに操る。
マリアは後ろで見守りながら、
「まるで職人のようですね」と呟いた。

「これでも昔、王城の料理人にこっそり教わったの」

「王城の?!」

「お菓子の話をしたら、私の瞳が真剣すぎて怖かったらしいわ」

「容易に想像できます」

粉をふるい、バターを加え、型に流し込む。
オーブンに入れた瞬間、
ローゼリアはふっと肩の力を抜いた。

「ねぇ、マリア。お菓子って、不思議ね」

「と申しますと?」

「混ぜるほど柔らかくなって、熱を加えると膨らんで……
冷ますと落ち着いて、やがて香りが広がる。
まるで人の心みたい」

「……素敵なたとえです」

「婚約破棄の夜は、あんなに苦かったのに、
今は甘い香りで満たされてる。
もしかしたら、これが“救い”なのかもしれないわね」

「お菓子作りが、ですか?」

「ええ。焼き上がるまでの時間って、
自分の心を見つめる時間に似ているの。
焦っても膨らまないし、
混ぜすぎても壊れてしまう。
だから“待つ”しかないのよ」

「……深いお言葉ですね」

「ふふ、今日の私は哲学者ではなく菓子職人ですわ」


---

甘い香りが漂い始めた。
ローゼリアはオーブンを覗き込み、笑顔を浮かべた。

「いい感じに膨らんでる……!」

その瞬間、厨房の扉が開いた。

「お嬢様!」

現れたのは、執事のハロルドだった。
白髪混じりの髪を撫でつけ、いつも冷静沈着な彼が、
今は少し焦っているように見える。

「旦那様がお呼びです」

ローゼリアは首を傾げた。
「お父様が? 何のご用かしら」

「王都からの使者が参っております」

「……また面倒な話の匂いがしますわね」

マリアが心配そうに見つめる。
「お嬢様、私もお供いたします」

「いいの。これくらい、もう怖くないわ」

ローゼリアはエプロンを外し、
粉のついた手を布でぬぐってから立ち上がった。


---

応接室に入ると、
父・レオンハルト侯爵が険しい顔で座っていた。
その向かいには、王都の文官と思しき男が控えている。

「ローゼリア、お前に伝達がある」

文官は巻物を取り出し、恭しく読み上げた。
「“元王太子妃候補・ローゼリア・フォン・シュタインハルトは、
王太子殿下のご意向により、
今後の政治的関与を一切禁止とする”――以上でございます」

「まぁ。つまり、王都から“静かにしていろ”という命令ですわね」

「お嬢様!」とマリアが慌てて制止するが、
ローゼリアは平然としている。

「いいえ、むしろ好都合ですわ」

「好都合……?」と文官が目を瞬かせる。

「政治に関与できないなら、
私が思う存分“お菓子作り”に専念できるということですもの」

文官は返す言葉を失い、侯爵は頭を抱えた。

「……ローゼリア、お前という娘は……」

「お父様。私はもう、誰の目も気にせずに生きると決めました。
王都が私を縛るなら、私は“甘さ”で世界を広げてみせます」

「甘さ、だと?」

「ええ。
砂糖と笑顔で人は幸せになれるのです。
権力よりも、美味しい香りのほうが心を動かしますわ」

侯爵はため息をついたが、
その表情には、わずかな誇らしさも混じっていた。

「……好きにしろ。ただし、屋敷を爆発させるな」

「ええ、オーブンの火加減は心得ていますわ」

マリアはくすっと笑い、
文官は苦笑いを浮かべた。


---

その夜。

ローゼリアは一人、庭園のベンチに座って夜空を見上げていた。
冷たい空気の中、星が静かに瞬く。

「王都がどう思おうと、関係ないわ」

両手で抱えた温かいマグカップから、甘い香りが立ちのぼる。
今日、初めて自分のために淹れたホットチョコレート。

「私が作るお菓子で、誰かが笑顔になる。
そんな日が来たら――それが、私の“再生”の証ね」

マリアが静かに毛布を掛けてくれた。
「お嬢様、冷えますよ」

「ありがとう。ねぇマリア、いつか屋敷の外にも出てみたいわ」

「お菓子を売るため、ですか?」

「いいえ。人に会うためよ。
この世界には、まだ知らない“甘い出会い”がきっとある気がするの」

マリアは微笑んだ。
「そのときは、わたくしも一緒に行かせてくださいね」

「もちろんよ、マリア。あなたは私の“第一の味見係”だもの」

二人の笑い声が夜空に溶け、星々が瞬いた。


---

ローゼリアの心に、確かな灯がともる。
それは恋でも名誉でもなく――
“お菓子を焼く幸せ”という、
誰にも奪えない彼女だけの光だった。


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