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第三話 契約という名の現実
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第三話 契約という名の現実
翌朝、私はいつも通りの時間に目を覚ました。
婚約破棄の翌日だというのに、体調も気分も、驚くほど平穏だった。胸の奥に沈殿しているものは確かにあるが、それは嵐ではなく、静かな湖の底に溜まった澱のようなものだ。
身支度を整え、机に向かう。
そこには、すでに用意させていた書類の束が積まれていた。
――婚約契約書。
王家とグリューンリヒト家、そして私個人が交わした、正式な文書。
私はそれを一枚ずつ、丁寧に確認していく。
署名の日付。証人の名。条文の文言。
感情を挟む余地はない。
ここに書かれているのは、事実と約束だけだ。
婚約は、恋の誓いではない。
それは、互いの家が責任を分かち合うための契約であり、将来にわたる義務の集合体だ。
――そして、破棄とは、その契約を一方的に破る行為。
私が王宮の大広間で口にした「補償」という言葉が、軽い冗談ではなかったことを、条文ははっきりと示していた。
婚約期間中に費やした準備費用。
王太子妃候補として制限された私の行動。
失われた時間と機会。
それらはすべて、「破棄の際には相応の措置を講じる」と明文化されている。
「……逃げ道は、きちんと塞がれているわね」
小さく呟き、次の頁をめくる。
フェリクス殿下がこの内容を、どこまで理解していたかは分からない。
だが少なくとも、恋に浮かれて忘れていいものではない。
侍女が、静かに扉を叩いた。
「お嬢様、失礼いたします。ご実家より使いの者が参っております」
「通して」
入ってきたのは、父の補佐を務める実務官だった。
彼は一礼し、私の前に腰を下ろす。
「……お辛いところ、申し訳ありません」
「お気遣いは不要です。状況は把握しています」
彼は一瞬、驚いたように瞬きをした。
「すでに?」
「ええ。婚約破棄は、感情ではなく事務の問題ですから」
その言葉に、彼は深く息を吐いた。
「さすがでいらっしゃいます。ご当主も、同じ意見です」
彼は、持参した別の書類を差し出した。
それは、王家から届いた正式な通知だった。
――婚約破棄の事実確認。
――今後の対応についての協議要請。
私は内容に目を通し、眉をひそめる。
「……随分と、曖昧な表現ですね」
「はい。補償や責任については、一切触れられておりません」
「でしょうね」
私は書類を机に置いた。
「殿下は、恋愛がすべてを解決するとお思いなのでしょう。でも……」
言葉を切り、ゆっくりと視線を上げる。
「現実は、そんなに優しくありません」
実務官は、深く頷いた。
「ご当主は、ミレイナ様のお考えを尊重なさると仰せです。補償交渉についても、主導権はお嬢様に」
「ありがとうございます」
私は、感謝の意を込めて一礼した。
――ここから先は、私の仕事だ。
誰かに代わってもらうつもりはない。
婚約者として、王太子妃候補として積み上げてきたものを、曖昧に終わらせる気はなかった。
実務官が退出した後、私は再び机に向かい、羊皮紙を広げる。
補償交渉の論点。
王家側の弱点。
こちらが譲歩できる点と、できない点。
淡々と整理していくうちに、頭は不思議なほど冴えていった。
ふと、王宮で見たミュリエルの姿が脳裏をよぎる。
不安そうで、か弱く、守られることに疑いを持たない表情。
――彼女は、契約という言葉を、どれほど理解しているのだろう。
王太子に愛されている。
それだけで、すべてが許されると思っているのかもしれない。
だが、この国は、恋だけで回ってはいない。
私はペンを取り、覚書に一行を書き加えた。
「感情と責任を混同している点を、丁寧に切り分けること」
その瞬間、なぜか一人の人物の名が思い浮かんだ。
ディートリヒ・シュヴァルツヴァルト公爵。
王宮でも寡黙で、冷静で、感情を表に出さない男。
彼なら、この状況をどう見るだろうか。
――興味深い、と言った目をしていた。
その記憶が、胸の奥に静かに残る。
私はふっと息を吐き、窓の外を見た。
空は澄み渡り、昨日の騒ぎが嘘のように穏やかだ。
婚約破棄は、すでに起きた。
嘆いても、取り消されることはない。
ならば、次に進むしかない。
契約を破ったのなら、その責任を果たしてもらう。
それは報復ではなく、当然の帰結だ。
私は、ペンを置き、静かに決意を固めた。
この一件を、曖昧な「恋の物語」で終わらせはしない。
――現実として、きちんと決着をつける。
それが、ミレイナ・グリューンリヒトの選ぶ道だった。
翌朝、私はいつも通りの時間に目を覚ました。
婚約破棄の翌日だというのに、体調も気分も、驚くほど平穏だった。胸の奥に沈殿しているものは確かにあるが、それは嵐ではなく、静かな湖の底に溜まった澱のようなものだ。
身支度を整え、机に向かう。
そこには、すでに用意させていた書類の束が積まれていた。
――婚約契約書。
王家とグリューンリヒト家、そして私個人が交わした、正式な文書。
私はそれを一枚ずつ、丁寧に確認していく。
署名の日付。証人の名。条文の文言。
感情を挟む余地はない。
ここに書かれているのは、事実と約束だけだ。
婚約は、恋の誓いではない。
それは、互いの家が責任を分かち合うための契約であり、将来にわたる義務の集合体だ。
――そして、破棄とは、その契約を一方的に破る行為。
私が王宮の大広間で口にした「補償」という言葉が、軽い冗談ではなかったことを、条文ははっきりと示していた。
婚約期間中に費やした準備費用。
王太子妃候補として制限された私の行動。
失われた時間と機会。
それらはすべて、「破棄の際には相応の措置を講じる」と明文化されている。
「……逃げ道は、きちんと塞がれているわね」
小さく呟き、次の頁をめくる。
フェリクス殿下がこの内容を、どこまで理解していたかは分からない。
だが少なくとも、恋に浮かれて忘れていいものではない。
侍女が、静かに扉を叩いた。
「お嬢様、失礼いたします。ご実家より使いの者が参っております」
「通して」
入ってきたのは、父の補佐を務める実務官だった。
彼は一礼し、私の前に腰を下ろす。
「……お辛いところ、申し訳ありません」
「お気遣いは不要です。状況は把握しています」
彼は一瞬、驚いたように瞬きをした。
「すでに?」
「ええ。婚約破棄は、感情ではなく事務の問題ですから」
その言葉に、彼は深く息を吐いた。
「さすがでいらっしゃいます。ご当主も、同じ意見です」
彼は、持参した別の書類を差し出した。
それは、王家から届いた正式な通知だった。
――婚約破棄の事実確認。
――今後の対応についての協議要請。
私は内容に目を通し、眉をひそめる。
「……随分と、曖昧な表現ですね」
「はい。補償や責任については、一切触れられておりません」
「でしょうね」
私は書類を机に置いた。
「殿下は、恋愛がすべてを解決するとお思いなのでしょう。でも……」
言葉を切り、ゆっくりと視線を上げる。
「現実は、そんなに優しくありません」
実務官は、深く頷いた。
「ご当主は、ミレイナ様のお考えを尊重なさると仰せです。補償交渉についても、主導権はお嬢様に」
「ありがとうございます」
私は、感謝の意を込めて一礼した。
――ここから先は、私の仕事だ。
誰かに代わってもらうつもりはない。
婚約者として、王太子妃候補として積み上げてきたものを、曖昧に終わらせる気はなかった。
実務官が退出した後、私は再び机に向かい、羊皮紙を広げる。
補償交渉の論点。
王家側の弱点。
こちらが譲歩できる点と、できない点。
淡々と整理していくうちに、頭は不思議なほど冴えていった。
ふと、王宮で見たミュリエルの姿が脳裏をよぎる。
不安そうで、か弱く、守られることに疑いを持たない表情。
――彼女は、契約という言葉を、どれほど理解しているのだろう。
王太子に愛されている。
それだけで、すべてが許されると思っているのかもしれない。
だが、この国は、恋だけで回ってはいない。
私はペンを取り、覚書に一行を書き加えた。
「感情と責任を混同している点を、丁寧に切り分けること」
その瞬間、なぜか一人の人物の名が思い浮かんだ。
ディートリヒ・シュヴァルツヴァルト公爵。
王宮でも寡黙で、冷静で、感情を表に出さない男。
彼なら、この状況をどう見るだろうか。
――興味深い、と言った目をしていた。
その記憶が、胸の奥に静かに残る。
私はふっと息を吐き、窓の外を見た。
空は澄み渡り、昨日の騒ぎが嘘のように穏やかだ。
婚約破棄は、すでに起きた。
嘆いても、取り消されることはない。
ならば、次に進むしかない。
契約を破ったのなら、その責任を果たしてもらう。
それは報復ではなく、当然の帰結だ。
私は、ペンを置き、静かに決意を固めた。
この一件を、曖昧な「恋の物語」で終わらせはしない。
――現実として、きちんと決着をつける。
それが、ミレイナ・グリューンリヒトの選ぶ道だった。
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