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第八話 守られるという錯覚
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第八話 守られるという錯覚
王宮での協議から数日が過ぎた。
その間、王都の空気は微妙に変わり始めていた。噂は沈静化するどころか、形を変えて流れている。
――王太子は、思ったより苦戦しているらしい。
――グリューンリヒト令嬢は、感情を出さずに事を進めているとか。
――あの平民の少女は、今も王宮にいるそうだ。
最後の噂が、特に興味深かった。
私は屋敷の書斎で、王都から届いた報告書に目を通していた。父の補佐官がまとめた簡潔な内容だが、要点は明確だ。
ミュリエルは、現在も王宮の一角に与えられた部屋で暮らしている。
護衛がつき、生活費は王家の名で賄われ、出入りに制限はない。
――まるで、当然の権利であるかのように。
私は書類を机に置き、指先で軽く縁をなぞった。
「……守られている、つもりなのね」
彼女に悪意がないことは、分かっている。
だが、無自覚であることと、無責任であることは、同義ではない。
王太子フェリクス・アルノーが、彼女を「守る」と決めたこと。
それ自体は、個人の感情として否定しない。
だが、問題はその方法だ。
彼は、王太子という立場の重みを、彼女に預けることで軽くしようとしている。
彼女もまた、その庇護がどこから来ているのかを、深く考えようとはしていない。
――守られている、という錯覚。
それは、最も危うい状態だ。
昼過ぎ、王都から戻った使者が、追加の情報をもたらした。
「ミュリエル様は……最近、王宮内で発言が増えているようです」
「発言?」
「はい。政務に関する場に顔を出し、ご意見を述べることもあるとか」
私は、思わず眉をひそめた。
「……それは、誰の許可で?」
「王太子殿下が、『彼女の意見も尊重すべきだ』と」
思考が、静かに冷えていく。
平民の少女が、正式な立場も手続きを経ずに、政務に口を出す。
それを止める者がいない。
守られているのではない。
持ち上げられているのだ。
その違いを、彼女は理解していない。
私は、深く息を吐いた。
「……これ以上、黙って見ている段階ではないわね」
補佐官は、私の表情を見て、姿勢を正した。
「お嬢様は、何か動かれますか?」
「いいえ。私が直接言うことではありません」
そう答えながらも、次の一手はすでに決まっていた。
――動くのは、制度だ。
夕方、私は王都へ向けて、正式な書状を送った。
宛先は、王宮書記局。
内容は、極めて事務的だ。
「先日の協議を踏まえ、関係者の整理について確認したい。
婚約破棄に直接関与しない第三者の、政務への関与は、どの規定に基づくものか」
責める言葉は、一切使わない。
ただ、根拠を求める。
それだけで、十分だ。
数日後、王都で小さな騒ぎが起きた。
ミュリエルが、ある会合で不用意な発言をしたという。
「殿下が仰っていましたわ。難しいことは、愛があれば解決すると」
その場にいた貴族たちは、一瞬、言葉を失ったらしい。
冗談として流せる空気ではなかった。
――愛があれば、解決する。
それは、責任を負う立場の者が口にしていい言葉ではない。
その日の夜、私は追加の報告を受け取った。
「一部の貴族から、正式な抗議が出ています。あの発言は、国政を軽んじていると」
私は、静かに頷いた。
「当然です」
ここまで来れば、個人の感情では済まされない。
守られているという錯覚は、現実の重さに耐えられない。
夜更け、私は机に向かい、次の資料を整理していた。
協議の続き。
補償の算定。
名誉回復の文言。
その合間に、ふと、ディートリヒ公爵の言葉を思い出す。
――構造を正しく見ることだ。
ミュリエルは、構造の外にいるつもりでいる。
だが、実際には、構造の中心に引き込まれている。
その自覚がないまま。
私は、窓の外を見た。
月明かりが、静かに庭を照らしている。
彼女を引きずり下ろすつもりはない。
だが、持ち上げ続けることも、許されない。
制度は、感情よりも遅い。
だが、一度動き出せば、確実だ。
守られているという錯覚は、いずれ剥がれ落ちる。
それが、彼女にとって救いになるか、傷になるかは分からない。
ただ一つ確かなのは――
そのとき、私はもう、蚊帳の外にはいないということだ。
私は静かに書類を閉じた。
婚約破棄の影響は、
いま、確実に、王宮の内側へと広がり始めている。
王宮での協議から数日が過ぎた。
その間、王都の空気は微妙に変わり始めていた。噂は沈静化するどころか、形を変えて流れている。
――王太子は、思ったより苦戦しているらしい。
――グリューンリヒト令嬢は、感情を出さずに事を進めているとか。
――あの平民の少女は、今も王宮にいるそうだ。
最後の噂が、特に興味深かった。
私は屋敷の書斎で、王都から届いた報告書に目を通していた。父の補佐官がまとめた簡潔な内容だが、要点は明確だ。
ミュリエルは、現在も王宮の一角に与えられた部屋で暮らしている。
護衛がつき、生活費は王家の名で賄われ、出入りに制限はない。
――まるで、当然の権利であるかのように。
私は書類を机に置き、指先で軽く縁をなぞった。
「……守られている、つもりなのね」
彼女に悪意がないことは、分かっている。
だが、無自覚であることと、無責任であることは、同義ではない。
王太子フェリクス・アルノーが、彼女を「守る」と決めたこと。
それ自体は、個人の感情として否定しない。
だが、問題はその方法だ。
彼は、王太子という立場の重みを、彼女に預けることで軽くしようとしている。
彼女もまた、その庇護がどこから来ているのかを、深く考えようとはしていない。
――守られている、という錯覚。
それは、最も危うい状態だ。
昼過ぎ、王都から戻った使者が、追加の情報をもたらした。
「ミュリエル様は……最近、王宮内で発言が増えているようです」
「発言?」
「はい。政務に関する場に顔を出し、ご意見を述べることもあるとか」
私は、思わず眉をひそめた。
「……それは、誰の許可で?」
「王太子殿下が、『彼女の意見も尊重すべきだ』と」
思考が、静かに冷えていく。
平民の少女が、正式な立場も手続きを経ずに、政務に口を出す。
それを止める者がいない。
守られているのではない。
持ち上げられているのだ。
その違いを、彼女は理解していない。
私は、深く息を吐いた。
「……これ以上、黙って見ている段階ではないわね」
補佐官は、私の表情を見て、姿勢を正した。
「お嬢様は、何か動かれますか?」
「いいえ。私が直接言うことではありません」
そう答えながらも、次の一手はすでに決まっていた。
――動くのは、制度だ。
夕方、私は王都へ向けて、正式な書状を送った。
宛先は、王宮書記局。
内容は、極めて事務的だ。
「先日の協議を踏まえ、関係者の整理について確認したい。
婚約破棄に直接関与しない第三者の、政務への関与は、どの規定に基づくものか」
責める言葉は、一切使わない。
ただ、根拠を求める。
それだけで、十分だ。
数日後、王都で小さな騒ぎが起きた。
ミュリエルが、ある会合で不用意な発言をしたという。
「殿下が仰っていましたわ。難しいことは、愛があれば解決すると」
その場にいた貴族たちは、一瞬、言葉を失ったらしい。
冗談として流せる空気ではなかった。
――愛があれば、解決する。
それは、責任を負う立場の者が口にしていい言葉ではない。
その日の夜、私は追加の報告を受け取った。
「一部の貴族から、正式な抗議が出ています。あの発言は、国政を軽んじていると」
私は、静かに頷いた。
「当然です」
ここまで来れば、個人の感情では済まされない。
守られているという錯覚は、現実の重さに耐えられない。
夜更け、私は机に向かい、次の資料を整理していた。
協議の続き。
補償の算定。
名誉回復の文言。
その合間に、ふと、ディートリヒ公爵の言葉を思い出す。
――構造を正しく見ることだ。
ミュリエルは、構造の外にいるつもりでいる。
だが、実際には、構造の中心に引き込まれている。
その自覚がないまま。
私は、窓の外を見た。
月明かりが、静かに庭を照らしている。
彼女を引きずり下ろすつもりはない。
だが、持ち上げ続けることも、許されない。
制度は、感情よりも遅い。
だが、一度動き出せば、確実だ。
守られているという錯覚は、いずれ剥がれ落ちる。
それが、彼女にとって救いになるか、傷になるかは分からない。
ただ一つ確かなのは――
そのとき、私はもう、蚊帳の外にはいないということだ。
私は静かに書類を閉じた。
婚約破棄の影響は、
いま、確実に、王宮の内側へと広がり始めている。
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