選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第九話 傾き始めた天秤

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第九話 傾き始めた天秤

 王都に戻った私は、屋敷の応接間で静かに来客を待っていた。
 約束の時刻より、少し早い。だが、こういう場では早めに席に着く方がいい。遅れてくる者は、たいてい立場を誤解している。

 テーブルの上には、整然と並べた資料の束。
 数は多くない。だが、必要なものだけが揃っている。

 ――事実。
 ――条文。
 ――前例。

 感情の入り込む余地は、最初から用意していない。

 やがて、扉がノックされ、王宮書記局の役人が入ってきた。年若いが、実務に慣れた表情だ。続いて、見慣れた長身の男が姿を現す。

 ディートリヒ・シュヴァルツヴァルト公爵。

 彼は会釈だけで挨拶を済ませ、私の向かいに腰を下ろした。

「本日は、事実確認の補足ということで」

 書記局の役人が口火を切る。

「はい。先日の協議以降、状況に変化がありましたので」

 私は、淡々と答えた。

 役人が頷き、視線を資料に落とす。

「まず、第三者の関与について。確認したところ、正式な任命や権限付与は確認できませんでした」

 予想通りだ。
 私は、わずかに首を傾げる。

「では、先日の発言は、私的なものとして扱われるのですね」

「……その認識になります」

 空気が、わずかに重くなる。

 私的な発言。
 それが政務の場で行われたことの重さを、役人は理解している。

「では、私的な発言が、国政に影響を及ぼした場合の責任は、どこに帰属しますか?」

 私は、問いを投げた。

 役人は一瞬、言葉に詰まった。

「……通常は、その場の責任者に」

 私は、視線を上げた。

「王太子殿下、ということになりますね」

 沈黙が落ちる。
 重く、逃げ場のない沈黙。

 ディートリヒ公爵が、静かに口を開いた。

「天秤は、すでに傾き始めている」

 役人が、驚いたように彼を見る。

「公爵、それは……」

「誰が悪いか、という話ではない。どこに責任が集まるか、という話だ」

 彼の言葉は、淡々としているが、鋭い。

「庇護は、善意で始まる。だが、制度に組み込まれない庇護は、必ず歪みを生む」

 私は、その言葉に頷いた。

「ですから、私は整理を求めています。誰を責めるのでもなく、どこに線を引くのかを」

 役人は、深く息を吐いた。

「……理解しました。王宮としても、このまま看過できる状況ではありません」

 彼は、資料をめくりながら続ける。

「すでに、数名の重臣から意見書が提出されています。発言の件だけでなく、近頃の判断全般について」

 私は、内心で状況を整理する。

 ――一部の問題が、全体の評価に繋がり始めている。

 これが、傾き始めた天秤だ。

 フェリクス殿下個人の恋愛が、
 王太子としての資質を測る材料に変わりつつある。

 役人が、慎重に言葉を選ぶ。

「本件については、次回の会合で、より正式な形で扱われる見込みです。ミレイナ様にも、出席をお願いすることになるでしょう」

「承知しました」

 私は即答した。

 逃げる理由はない。
 ここまで来た以上、立ち会うのが筋だ。

 役人が退出した後、応接間には私とディートリヒ公爵だけが残った。
 一瞬の沈黙。

「……やり過ぎたかしら」

 私は、ふと、そう口にした。

 彼は首を振る。

「やり過ぎてはいない。早過ぎただけだ」

「それは……」

「だが、早い方が被害は小さい」

 彼は、私を真っ直ぐに見た。

「君は、誰かを貶めようとしていない。線を引こうとしているだけだ。それが分かる者は、分かる」

 私は、視線を落とした。

「分からない者も、います」

「もちろんだ」

 彼は、短く笑った。ほとんど表情は変わらないが。

「だが、分からない者に合わせて制度を歪める必要はない」

 その言葉は、私の胸の奥に、静かに落ちた。

 夕刻、屋敷を出ると、王都の空は赤く染まっていた。
 人々は、まだ知らない。
 天秤が、どちらへ傾き始めているのかを。

 だが、内部では、確実に重りが移動している。

 恋愛という軽い言葉で誤魔化せないほど、
 王太子という立場は、重い。

 私は、歩きながら考える。

 ミュリエルは、今も守られているつもりでいるだろう。
 フェリクス殿下も、まだ選択の重さを直視していない。

 だが、天秤は正直だ。
 積み重なった事実の重みを、必ず示す。

 屋敷の門が見えたとき、私は立ち止まり、深く息を吸った。

 この件は、まだ終わらない。
 だが、流れは変わった。

 私は、最初からそれを望んでいたわけではない。
 ただ、曖昧に終わらせたくなかっただけだ。

 ――正しく、責任を測るために。

 赤い空の下、私は静かに確信する。

 天秤は、もう元には戻らない。
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