選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第十八話 名を与えない選択

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第十八話 名を与えない選択

 余白に踏み込んだ翌朝、私は久しぶりに、何の予定も入れていない一日を迎えた。
 予定がない、という事実が、これほど明確な選択になるとは思わなかった。

 机の上には、昨日の会合で使われた資料が整然と置かれている。
 どれも未決定。
 どれも保留。

 それは失敗ではない。
 むしろ、正しい終わり方だった。

 私は椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めた。王都はいつも通りに動いている。誰かが議論し、誰かが決裁し、誰かが不満を抱え、誰かが忘れていく。その連なりの中で、私の名前は、今は呼ばれていない。

 ――それでいい。

 名前を呼ばれないことは、退場ではない。
 名を与えない、という選択なのだ。

 午前中、父の補佐官が報告に来た。
 表情は落ち着いているが、どこか探るようでもある。

「外務卿補佐から、正式な文書が届いています」

「内容は?」

「意見聴取への謝意と、今後の検討方針です。
 ……役職名は、一切出ていません」

 私は、わずかに頷いた。

「約束を守った、ということですね」

「はい。ですが……」

 補佐官は、言葉を選んだ。

「“助言者”としての継続的な関与を、期待する声はあります」

 私は、はっきりと言った。

「期待は、引き受けません」

 期待という言葉は、責任の仮面をかぶっている。
 それを受け取った瞬間、線は曖昧になる。

「必要な場に呼ばれたら、行きます。
 意見を求められたら、答えます。
 でも、名は要りません」

 補佐官は、一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐに納得した顔で頷いた。

「……それが、一番難しい選択ですね」

「ええ。だから、今するのです」

 午後、私は屋敷の奥の小さな応接間で、ひとり茶を淹れた。
 侍女を下がらせ、あえて自分で。湯の音が、静かに響く。

 この時間は、誰のものでもない。
 役割も、評価も、期待も、ここには入れない。

 カップを手に取りながら、私はふと考える。

 もし、ここで「役」を引き受けていたらどうなったか。
 制度の顔になり、象徴になり、やがて責められる立場になっていただろう。

 それは、悪い未来ではない。
 だが、私の望んだ未来でもない。

 私は、象徴になるために線を引いたのではない。
 象徴にならずに、線を守るために引いたのだ。

 夕刻、意外な来訪者があった。
 かつて、私に「冷たい」と囁いた令嬢の一人だ。

 彼女は緊張した様子で、深く一礼した。

「……今日は、謝罪ではありません。
 お礼を、言いに来ました」

「お礼?」

「はい。あの一件の後、家で婚約の話が出ました。
 条件が曖昧で……ですが、あなたの件を例に出して、整理することができました」

 私は、少し驚いた。

「それは……良かったですね」

「はい。結果的に、破談になりましたが……後悔はありません」

 彼女は、少しだけ笑った。

「“決めなかった”ことが、救いになることもあるのだと、知りました」

 私は、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。

 影響とは、こうして届く。
 称賛でも、噂でもなく、選択の形で。

 夜、私は書斎に戻り、机の上の白紙を見つめた。
 そこには、まだ何も書かれていない。

 名前も、役職も、肩書きもない。
 だが、空白ではない。

 ここには、選ばなかった可能性と、残した余地がある。

 私は、ペンを手に取ったが、何も書かなかった。
 今は、名を与えないままでいい。

 名を与えれば、固定される。
 固定されれば、また誰かが、それを利用する。

 灯りを落とす前、私は静かに思う。

 私は、前に出ることも、後ろに下がることもできる。
 その自由を、手放さない。

 名を与えない選択は、逃げではない。
 責任を、正しい場所に留めるための判断だ。

 余白は、まだ残っている。
 そして私は、その余白の縁に立ち続ける。

 ――呼ばれないなら、呼ばれないままでいい。

 それが、今の私にとって、
 もっとも誠実な在り方だった。
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