選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる

ふわふわ

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第十九話 戻らない名前

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第十九話 戻らない名前

 王都に冬の気配が本格的に入り込んだ頃、私は久しぶりに朝の鐘を意識して聞いていた。
 低く、澄んだ音が空気を震わせ、街の一日を静かに区切る。

 その音を聞きながら、私は思う。
 ――もう、あの名前で呼ばれることはない。

 元婚約者。
 王太子妃候補。
 可哀想な令嬢。

 どれも、今の私には当てはまらない。
 そして、意図的に戻らないと決めた名前でもある。

 机の上には、ここ数日で届いた書状が並んでいた。数は少ないが、内容ははっきりしている。

 ――役職を打診するもの。
 ――名義貸しを求めるもの。
 ――象徴として担ぎ上げようとするもの。

 私は、それらすべてに、同じ文面で返事を出していた。

 「現在、恒常的な役割を引き受ける意思はありません」

 理由は添えない。
 説明を始めた瞬間、交渉になるからだ。

 午前中、父が珍しく茶の席に同席した。
 書類ではなく、何も置かれていない小卓を挟んで向かい合う。

「……完全に、戻らないつもりか」

 父の問いは、静かだった。

「はい」

 私は、迷わず答えた。

「戻れば、また名前が付けられます。
 その名前は、必ず誰かの都合で使われる」

 父は、少しだけ目を細めた。

「それでも、戻る者は多い」

「承知しています」

「怖くはないか」

 私は、一拍置いた。

「怖くない、と言えば嘘になります。
 でも……戻って期待に応え続ける方が、もっと怖い」

 父は、それ以上、何も言わなかった。
 ただ、静かに茶を飲み、頷いた。

 午後、王都の街を歩いた。
 護衛も最低限。目立たない外套を羽織り、人の流れに身を置く。

 誰も、私に気づかない。
 それが、これほど心地よいとは思わなかった。

 市場では、果物を選ぶ女性の声が響き、職人の店先では笑い声が交わされている。
 政治も、制度も、責任も――ここでは、少し遠い。

 だが、無関係ではない。
 人々の生活は、必ずどこかで繋がっている。

 私は立ち止まり、小さな書店に入った。
 棚に並ぶ本の背を眺めていると、ふと、店主が声をかけてくる。

「お嬢さん、最近は契約関係の本がよく売れるんですよ」

「そうなのですか」

「ええ。婚約だの、共同事業だの……
 曖昧なまま進めて、後で揉めるのは御免だ、って」

 私は、何気なく頷いた。

「賢明ですね」

「まったくです。
 昔は“気持ち”で済ませたことが、今は通らない」

 その言葉を聞いたとき、胸の奥で小さく何かがほどけた。

 影響は、広がっている。
 名前を出さなくても、選択は残る。

 夕刻、屋敷に戻ると、一通の手紙が届いていた。
 差出人の名を見て、私はしばらく動かなかった。

 フェリクス・アルノー。

 封は、簡素だ。
 公的な形式ではない。
 それが、かえって重かった。

 私は、すぐには開かなかった。
 机に置き、灯りを点け、深く息を整える。

 そして、ゆっくりと封を切った。

 中の文面は、短い。

 「君の名が、私の周囲から消えた。
  それが、想像以上に重い。
  責めるつもりはない。ただ……
  君が戻らない理由が、今なら分かる気がする」

 私は、手紙を読み終え、静かに折り畳んだ。

 返事は、出さない。
 それが、答えだ。

 彼は、ようやく“選ばれなかった重さ”を理解し始めたのだろう。
 だが、その理解は、私を必要としない場所で育つべきだ。

 夜、書斎で一人、灯りの下に座る。
 白紙は、まだ白い。

 だが、そこにはもう、戻るための余白はない。
 残っているのは、進むための余白だけだ。

 私は、ペンを取り、日付だけを書いた。
 それ以上は、何も書かない。

 戻らない名前は、捨てたのではない。
 役目を終えただけだ。

 人は、名前で縛られる。
 だが同時に、名前から自由にもなれる。

 私は、深く息を吸い、窓の外を見る。
 冬の星が、澄んだ空に瞬いている。

 ――もう、戻らない。

 それは拒絶ではない。
 選び続けるための、静かな決断だった。
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