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第二十四話 戻れない理由
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第二十四話 戻れない理由
辺境公爵領に、穏やかな朝霧が立ちこめていた。
城の塔から見下ろす街は、まだ眠りの余韻を残しながらも、確実に目覚めへ向かっている。
パン屋の煙突から細い煙が上がり、厩舎では馬のいななきが聞こえた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、その光景を静かに眺めていた。
「……今日も、動き始めていますね」
それは、確認の言葉だった。
期待でも、不安でもない。
日常が、日常として機能しているかどうか。
彼女が見るのは、ただそれだけだ。
執務室では、朝一番の報告が揃っていた。
自治組織の試験運用は、三つ目の区域へと拡大。
問題は発生しているが、いずれも想定内で、修正可能な範囲だ。
「この件は、現場判断で対応できます」
若い文官が言う。
「はい。
中央に上げる必要はありません」
即答だった。
文官は、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……よろしいのですか?」
「規定どおりです。
現場で処理できる問題を、わざわざ上に集めると、全体が遅くなります」
それは、かつて王宮で何度も繰り返された失敗だった。
判断を集めすぎ、
責任を曖昧にし、
結果として、誰も決められなくなる。
ここでは、同じ轍を踏まない。
午前の会議が終わるころ、フェリクス・フォン・グランツが一通の文書を差し出した。
「王宮からだ。
今回は、正式な要請になる」
マルグリットは、視線だけで促す。
「読んでいいですか?」
「ああ」
内容は簡潔だった。
――王宮改革に伴い、外部顧問の常設を検討している。
――候補として、マルグリット・フォン・ルーヴェンを正式に招きたい。
「……常設、ですか」
声に、感情は乗らない。
「条件は?」
「待遇は破格だ。
地位も、権限も、以前とは比較にならない」
フェリクスは、彼女の反応を注意深く見ている。
「だが……」
「はい」
マルグリットは、文書を静かに机に置いた。
「戻る前提、ですね」
そこには、助言ではなく“関与”が求められている。
距離を詰め、判断の中心に立つこと。
つまり――
再び、あの場所に立てということだ。
「どうする?」
フェリクスが問う。
「断ります」
即答だった。
少しの間も、考えなかった。
「理由は?」
「戻れない理由が、すでに明確だからです」
彼女は、窓の外に視線を向ける。
「王宮では、判断が“立場”に縛られます。
誰が言ったか、誰の案か、誰が責任を取るのか」
「ここでは違う、と」
「はい。
ここでは、判断は“必要性”に基づきます」
それは、単純で、そして難しい違いだ。
王宮では、
正しい判断より、
“問題にならない判断”が選ばれる。
彼女は、それを何度も見てきた。
「私は、もう戻れません」
静かな声だった。
「戻れば、また同じ役割を期待される。
全部を整え、全部を背負い、
誰かが楽になるための歯車になる」
フェリクスは、何も言わなかった。
彼女の言葉が、感情ではなく、経験から来ていることを知っている。
その日の午後、マルグリットは返書を書いた。
――お申し出、感謝いたします。
――しかし、常設顧問としての就任は、お受けできません。
――現在の立場から、文面による助言のみ、引き続き協力いたします。
それ以上も、それ以下もない。
王宮でその返書を読んだロイド・ヴァルシュタインは、長く沈黙した。
「……やはり、か」
誰も責められない。
責めるべきは、過去の選択だ。
彼女を“便利な存在”として扱い、
判断の責任を押し付けてきた。
その積み重ねが、
今の距離を生んでいる。
夜、辺境公爵領。
マルグリットは、城の中庭を歩いていた。
空には、星が静かに瞬いている。
「……戻れない理由は、弱さではありません」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「守るものが、はっきりしただけです」
判断を歪めない場所。
責任が明確な場所。
誰かの代わりに、人生を消費しない場所。
それを手に入れた今、
失う理由は、どこにもなかった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、足を止め、夜空を見上げる。
王宮の灯りは、ここからは見えない。
だが、それでいい。
彼女が進むのは、
戻れない場所を背にして、
選び続ける未来だった。
辺境公爵領に、穏やかな朝霧が立ちこめていた。
城の塔から見下ろす街は、まだ眠りの余韻を残しながらも、確実に目覚めへ向かっている。
パン屋の煙突から細い煙が上がり、厩舎では馬のいななきが聞こえた。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、その光景を静かに眺めていた。
「……今日も、動き始めていますね」
それは、確認の言葉だった。
期待でも、不安でもない。
日常が、日常として機能しているかどうか。
彼女が見るのは、ただそれだけだ。
執務室では、朝一番の報告が揃っていた。
自治組織の試験運用は、三つ目の区域へと拡大。
問題は発生しているが、いずれも想定内で、修正可能な範囲だ。
「この件は、現場判断で対応できます」
若い文官が言う。
「はい。
中央に上げる必要はありません」
即答だった。
文官は、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……よろしいのですか?」
「規定どおりです。
現場で処理できる問題を、わざわざ上に集めると、全体が遅くなります」
それは、かつて王宮で何度も繰り返された失敗だった。
判断を集めすぎ、
責任を曖昧にし、
結果として、誰も決められなくなる。
ここでは、同じ轍を踏まない。
午前の会議が終わるころ、フェリクス・フォン・グランツが一通の文書を差し出した。
「王宮からだ。
今回は、正式な要請になる」
マルグリットは、視線だけで促す。
「読んでいいですか?」
「ああ」
内容は簡潔だった。
――王宮改革に伴い、外部顧問の常設を検討している。
――候補として、マルグリット・フォン・ルーヴェンを正式に招きたい。
「……常設、ですか」
声に、感情は乗らない。
「条件は?」
「待遇は破格だ。
地位も、権限も、以前とは比較にならない」
フェリクスは、彼女の反応を注意深く見ている。
「だが……」
「はい」
マルグリットは、文書を静かに机に置いた。
「戻る前提、ですね」
そこには、助言ではなく“関与”が求められている。
距離を詰め、判断の中心に立つこと。
つまり――
再び、あの場所に立てということだ。
「どうする?」
フェリクスが問う。
「断ります」
即答だった。
少しの間も、考えなかった。
「理由は?」
「戻れない理由が、すでに明確だからです」
彼女は、窓の外に視線を向ける。
「王宮では、判断が“立場”に縛られます。
誰が言ったか、誰の案か、誰が責任を取るのか」
「ここでは違う、と」
「はい。
ここでは、判断は“必要性”に基づきます」
それは、単純で、そして難しい違いだ。
王宮では、
正しい判断より、
“問題にならない判断”が選ばれる。
彼女は、それを何度も見てきた。
「私は、もう戻れません」
静かな声だった。
「戻れば、また同じ役割を期待される。
全部を整え、全部を背負い、
誰かが楽になるための歯車になる」
フェリクスは、何も言わなかった。
彼女の言葉が、感情ではなく、経験から来ていることを知っている。
その日の午後、マルグリットは返書を書いた。
――お申し出、感謝いたします。
――しかし、常設顧問としての就任は、お受けできません。
――現在の立場から、文面による助言のみ、引き続き協力いたします。
それ以上も、それ以下もない。
王宮でその返書を読んだロイド・ヴァルシュタインは、長く沈黙した。
「……やはり、か」
誰も責められない。
責めるべきは、過去の選択だ。
彼女を“便利な存在”として扱い、
判断の責任を押し付けてきた。
その積み重ねが、
今の距離を生んでいる。
夜、辺境公爵領。
マルグリットは、城の中庭を歩いていた。
空には、星が静かに瞬いている。
「……戻れない理由は、弱さではありません」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「守るものが、はっきりしただけです」
判断を歪めない場所。
責任が明確な場所。
誰かの代わりに、人生を消費しない場所。
それを手に入れた今、
失う理由は、どこにもなかった。
マルグリット・フォン・ルーヴェンは、足を止め、夜空を見上げる。
王宮の灯りは、ここからは見えない。
だが、それでいい。
彼女が進むのは、
戻れない場所を背にして、
選び続ける未来だった。
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