2 / 40
第2話 優雅な一日ほど、気が抜けません
しおりを挟む
第2話 優雅な一日ほど、気が抜けません
翌朝、ルナ・ルクスはいつも通りの時間に目を覚ました。
――正確には、「いつも通り起きられるよう、起こされなかった時間」に、である。
天蓋の向こうから差し込む光は柔らかく、鳥の声は計算されたかのように静かだった。昨夜の舞踏会の余韻は、身体ではなく頭の奥にだけ残っている。筋肉痛はない。けれど、思考が少し鈍い。前世で言うところの、精神疲労というやつだ。
侍女が扉を叩き、朝茶の用意が整ったと告げる。
ルナは寝台から起き上がり、姿勢を整えた。こういう所作ひとつでも、油断はできない。誰が見ているかわからないし、見ていなくても「見られている前提」で動くのが貴族という生き物だ。
サロンに運ばれた紅茶は、昨夜より少し軽めの配合だった。侍女は何も言わないが、配慮であることは明白だ。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、侍女はわずかに微笑み、静かに下がった。
――この距離感も、仕事。
ルナは紅茶を飲みながら、昨日の舞踏会を思い返す。
誰と誰が親しいか。
どの家が最近勢いを増しているか。
誰が不機嫌で、誰が機嫌を取りたがっていたか。
情報として整理され、頭の中に並ぶ。覚えようとしたわけではない。自然に、勝手に、残っている。
これが「社交慣れ」というやつなのだろう。
午前は読書の時間だった。
だが選ばれたのは、純粋な娯楽本ではない。歴史書、美術論、最近話題の楽曲についての評論。どれも、いつどこで話題に出ても困らないように、という配慮の塊だ。
ページをめくりながら、ルナは内心でため息をつく。
――これ、完全に業務研修ですわ。
前世でも、似たようなことはあった。
「自由参加」の勉強会。
「任意」の自己啓発。
参加しないと評価が下がる、あの感じ。
昼前になると、今度は来客の報せが入る。
遠縁にあたる貴族夫人が、近況報告を兼ねた挨拶に来るという。断る理由はない。断った場合の「意味」が、面倒すぎる。
応接間で交わされる会話は、終始穏やかだった。
天気、流行、舞踏会の感想。
言葉は柔らかいが、探り合いの色は濃い。
「昨夜はお疲れでしょう?」
そう言われた瞬間、ルナは正解の微笑みを選ぶ。
「ええ。でも、とても勉強になりましたわ」
嘘ではない。
だが本音でもない。
相手が満足した様子で帰ったあと、ルナは背もたれに深く寄りかかった。
「……疲れましたわ」
誰もいない部屋で、ようやく本音が零れる。
午後は庭園を散策する予定だった。
表向きは気晴らし。実際は「見られる前提の外出」である。服装、歩き方、立ち止まる場所。すべてが暗黙の評価対象だ。
薔薇の手入れをしている庭師に声をかける。
それだけで、翌日には「気さくな令嬢」という評判が立つ。立たせなければ、「冷淡」になる。
――どちらにしても、仕事ですわね。
夕方、再び紅茶。
菓子は新作で、説明が添えられていた。どこの職人が作り、どういう評判か。知らなければならない情報が、自然に混ざっている。
日が沈む頃、ルナは気づいた。
今日一日、肉体的に何かをした記憶がほとんどない。
それなのに、頭は重く、集中力は落ちている。
前世での「何もしていないのに疲れる日」を思い出し、苦笑した。
――ああ、なるほど。
公爵令嬢の一日は、優雅で、静かで、何事もない。
だがその実、常に気を張り、考え続け、正解を選び続ける。
ルナは紅茶の残りを飲み干し、静かに結論づけた。
「優雅な一日ほど……気が抜けませんわね」
そして心の中で、もう一つ付け加える。
――これは確かに、「働いていない」とは言えませんわ。
その認識が、これからの彼女の選択を、少しずつ変えていくことになる。
翌朝、ルナ・ルクスはいつも通りの時間に目を覚ました。
――正確には、「いつも通り起きられるよう、起こされなかった時間」に、である。
天蓋の向こうから差し込む光は柔らかく、鳥の声は計算されたかのように静かだった。昨夜の舞踏会の余韻は、身体ではなく頭の奥にだけ残っている。筋肉痛はない。けれど、思考が少し鈍い。前世で言うところの、精神疲労というやつだ。
侍女が扉を叩き、朝茶の用意が整ったと告げる。
ルナは寝台から起き上がり、姿勢を整えた。こういう所作ひとつでも、油断はできない。誰が見ているかわからないし、見ていなくても「見られている前提」で動くのが貴族という生き物だ。
サロンに運ばれた紅茶は、昨夜より少し軽めの配合だった。侍女は何も言わないが、配慮であることは明白だ。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、侍女はわずかに微笑み、静かに下がった。
――この距離感も、仕事。
ルナは紅茶を飲みながら、昨日の舞踏会を思い返す。
誰と誰が親しいか。
どの家が最近勢いを増しているか。
誰が不機嫌で、誰が機嫌を取りたがっていたか。
情報として整理され、頭の中に並ぶ。覚えようとしたわけではない。自然に、勝手に、残っている。
これが「社交慣れ」というやつなのだろう。
午前は読書の時間だった。
だが選ばれたのは、純粋な娯楽本ではない。歴史書、美術論、最近話題の楽曲についての評論。どれも、いつどこで話題に出ても困らないように、という配慮の塊だ。
ページをめくりながら、ルナは内心でため息をつく。
――これ、完全に業務研修ですわ。
前世でも、似たようなことはあった。
「自由参加」の勉強会。
「任意」の自己啓発。
参加しないと評価が下がる、あの感じ。
昼前になると、今度は来客の報せが入る。
遠縁にあたる貴族夫人が、近況報告を兼ねた挨拶に来るという。断る理由はない。断った場合の「意味」が、面倒すぎる。
応接間で交わされる会話は、終始穏やかだった。
天気、流行、舞踏会の感想。
言葉は柔らかいが、探り合いの色は濃い。
「昨夜はお疲れでしょう?」
そう言われた瞬間、ルナは正解の微笑みを選ぶ。
「ええ。でも、とても勉強になりましたわ」
嘘ではない。
だが本音でもない。
相手が満足した様子で帰ったあと、ルナは背もたれに深く寄りかかった。
「……疲れましたわ」
誰もいない部屋で、ようやく本音が零れる。
午後は庭園を散策する予定だった。
表向きは気晴らし。実際は「見られる前提の外出」である。服装、歩き方、立ち止まる場所。すべてが暗黙の評価対象だ。
薔薇の手入れをしている庭師に声をかける。
それだけで、翌日には「気さくな令嬢」という評判が立つ。立たせなければ、「冷淡」になる。
――どちらにしても、仕事ですわね。
夕方、再び紅茶。
菓子は新作で、説明が添えられていた。どこの職人が作り、どういう評判か。知らなければならない情報が、自然に混ざっている。
日が沈む頃、ルナは気づいた。
今日一日、肉体的に何かをした記憶がほとんどない。
それなのに、頭は重く、集中力は落ちている。
前世での「何もしていないのに疲れる日」を思い出し、苦笑した。
――ああ、なるほど。
公爵令嬢の一日は、優雅で、静かで、何事もない。
だがその実、常に気を張り、考え続け、正解を選び続ける。
ルナは紅茶の残りを飲み干し、静かに結論づけた。
「優雅な一日ほど……気が抜けませんわね」
そして心の中で、もう一つ付け加える。
――これは確かに、「働いていない」とは言えませんわ。
その認識が、これからの彼女の選択を、少しずつ変えていくことになる。
13
あなたにおすすめの小説
【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。
なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。
本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
【完結】 笑わない、かわいげがない、胸がないの『ないないない令嬢』、国外追放を言い渡される~私を追い出せば国が大変なことになりますよ?~
夏芽空
恋愛
「笑わない! かわいげがない! 胸がない! 三つのないを持つ、『ないないない令嬢』のオフェリア! 君との婚約を破棄する!」
婚約者の第一王子はオフェリアに婚約破棄を言い渡した上に、さらには国外追放するとまで言ってきた。
「私は構いませんが、この国が困ることになりますよ?」
オフェリアは国で唯一の特別な力を持っている。
傷を癒したり、作物を実らせたり、邪悪な心を持つ魔物から国を守ったりと、力には様々な種類がある。
オフェリアがいなくなれば、その力も消えてしまう。
国は困ることになるだろう。
だから親切心で言ってあげたのだが、第一王子は聞く耳を持たなかった。
警告を無視して、オフェリアを国外追放した。
国を出たオフェリアは、隣国で魔術師団の団長と出会う。
ひょんなことから彼の下で働くことになり、絆を深めていく。
一方、オフェリアを追放した国は、第一王子の愚かな選択のせいで崩壊していくのだった……。
【完結】私を捨てた国のその後を見守ってみた。
satomi
恋愛
侯爵令嬢のレナは公然の場でというか、卒業パーティーで王太子殿下イズライールに婚約破棄をされた挙句、王太子殿下は男爵令嬢のラーラと婚約を宣言。
殿下は陛下や王妃様がいないときを狙ったんでしょうね。
レナの父はアルロジラ王国の宰相です。実家にはレナの兄が4名いますがみんなそろいもそろって優秀。
長男は領地経営、次男は貿易商、3男は情報屋、4男は…オカマバー経営。
レナは殿下に愛想をつかして、アルロジラ王国の行く末を見守ろうと決意するのです。
次男監修により、国交の断絶しているエミューダ帝国にて。
ご令嬢は一人だけ別ゲーだったようです
バイオベース
恋愛
魔法が有り、魔物がいる。
そんな世界で生きる公爵家のご令嬢エレノアには欠点が一つあった。
それは強さの証である『レベル』が上がらないという事。
そんなある日、エレノアは身に覚えの無い罪で王子との婚約を破棄される。
同じ学院に通う平民の娘が『聖女』であり、王子はそれと結ばれるというのだ。
エレノアは『聖女』を害した悪女として、貴族籍をはく奪されて開拓村へと追いやられたのだった。
しかし当の本人はどこ吹く風。
エレノアは前世の記憶を持つ転生者だった。
そして『ここがゲームの世界』だという記憶の他にも、特別な力を一つ持っている。
それは『こことは違うゲームの世界の力』。
前世で遊び倒した農業系シミュレーションゲームの不思議な力だった。
だってわたくし、悪女ですもの
さくたろう
恋愛
妹に毒を盛ったとして王子との婚約を破棄された令嬢メイベルは、あっさりとその罪を認め、罰として城を追放、おまけにこれ以上罪を犯さないように叔父の使用人である平民ウィリアムと結婚させられてしまった。
しかしメイベルは少しも落ち込んでいなかった。敵対視してくる妹も、婚約破棄後の傷心に言い寄ってくる男も華麗に躱しながら、のびやかに幸せを掴み取っていく。
小説家になろう様にも投稿しています。
【完結】廃墟送りの悪役令嬢、大陸一の都市を爆誕させる~冷酷伯爵の溺愛も限界突破しています~
遠野エン
恋愛
王太子から理不尽な婚約破棄を突きつけられた伯爵令嬢ルティア。聖女であるライバルの策略で「悪女」の烙印を押され、すべてを奪われた彼女が追放された先は荒れ果てた「廃墟の街」。人生のどん底――かと思いきや、ルティアは不敵に微笑んだ。
「問題が山積み? つまり、改善の余地(チャンス)しかありませんわ!」
彼女には前世で凄腕【経営コンサルタント】だった知識が眠っていた。
瓦礫を資材に変えてインフラ整備、ゴロツキたちを警備隊として雇用、嫌われ者のキノコや雑草(?)を名物料理「キノコスープ」や「うどん」に変えて大ヒット!
彼女の手腕によって、死んだ街は瞬く間に大陸随一の活気あふれる自由交易都市へと変貌を遂げる!
その姿に、当初彼女を蔑んでいた冷酷伯爵シオンの心も次第に溶かされていき…。
一方、ルティアを追放した王国は経済が破綻し、崩壊寸前。焦った元婚約者の王太子がやってくるが、幸せな市民と最愛の伯爵に守られた彼女にもう死角なんてない――――。
知恵と才覚で運命を切り拓く、痛快逆転サクセス&シンデレラストーリー、ここに開幕!
ソロキャンする武装系女子ですが婚約破棄されたので傷心の旅に出たら——?
ルーシャオ
恋愛
ソロキャンする武装系女子ですが婚約破棄されたので傷心の旅に出たら——?
モーリン子爵家令嬢イグレーヌは、双子の姉アヴリーヌにおねだりされて婚約者を譲り渡す羽目に。すっかり姉と婚約者、それに父親に呆れてイグレーヌは別荘で静養中の母のもとへ一人旅をすることにした。ところが途中、武器を受け取りに立ち寄った騎士領で騎士ブルックナーから騎士見習い二人を同行させて欲しいと頼まれる。
そのころ、イグレーヌの従姉妹であり友人のド・ベレト公女マリアンはイグレーヌの扱いに憤慨し、アヴリーヌと婚約者へとある謀略を仕掛ける。そして、宮廷舞踏会でしっかりと謀略の種は花開くことに——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる