婚約破棄された令嬢は、選ばれる人生をやめました

ふわふわ

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第12話 協力者という言葉では、足りなくなった

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第12話 協力者という言葉では、足りなくなった

 シュタインベルク公国の夜は、深く、静かだった。

 執務棟の灯りはすでにほとんど落ち、回廊には人の気配もない。
 その中で、まだ一室だけ、明かりが残っていた。

 ――カルヴァスの執務室だ。

 机の上には、いくつもの書類が積まれている。
 どれも重要な案件だ。
 判断を後回しにすれば、確実に国益を損なう。

 だが、彼の視線は、文字を追っていなかった。

(……集中できない)

 カルヴァスは、書類から目を離し、椅子の背に体を預ける。

 原因は、わかっている。

 ――セラフィナ。

 今日の昼、彼女は外交補佐官とともに、港湾都市へ視察に出ていた。
 公爵夫人としてではなく、完全に“実務担当”として。

 判断も的確で、動きも早い。
 周囲の評価は、日ごとに高まっている。

 それ自体は、喜ばしいことのはずだった。

(……はず、だ)

 だが、胸の奥に、説明のつかないざわめきが残る。

 執務室の扉が、控えめにノックされた。

「入れ」

 入ってきたのは、側近のクラウスだった。

「公爵、港から報告が」

「……どうだった」

「奥様の提案通り、問題なく進行しています。
 商会側も、非常に満足している様子で」

 満足――。

 その言葉に、カルヴァスの胸がわずかに軋んだ。

「……他に?」

 クラウスは、少し言いにくそうに続ける。

「奥様に、隣国の使節が直接声をかけていました。
 非公式ではありますが……」

 その瞬間。

 カルヴァスは、無意識に立ち上がっていた。

「……誰だ」

「港湾同盟の一国です。
 協力関係の打診かと」

 協力関係。

 それは、政治的には極めて自然な流れだ。

 だが――。

(勝手に近づくな)

 その思考が浮かんだ瞬間、カルヴァスは息を詰めた。

 ……今のは、なんだ。

 政治的判断ではない。
 合理的な計算でもない。

 ただの――感情だ。

「公爵?」

 クラウスが、不思議そうに声をかける。

 カルヴァスは、ゆっくりと腰を下ろし、額に手を当てた。

「……いや。問題ない」

 だが、心臓の鼓動は、いつもより早かった。

 クラウスが退出したあとも、彼はしばらく動けずにいた。

(協力者だ)

 何度も、そう言い聞かせる。

 彼女は、有能な協力者。
 白い結婚の相手。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 ――そのはずだった。

 だが。

(なぜ、他国の視線に、苛立つ)

 答えは、出ていた。

 出てしまっていた。

 その夜、カルヴァスは珍しく、執務を切り上げた。

 向かった先は、セラフィナの部屋。

 扉の前で、一度だけ足が止まる。

(……何を言うつもりだ)

 それでも、ノックした。

「……はい」

 扉が開き、セラフィナが顔を出す。

「カルヴァス様?
 何か、急ぎの案件でしょうか」

「……いや」

 その返答は、あまりにも曖昧だった。

 彼女は一瞬だけ首を傾げ、部屋へ招き入れる。

 室内には、紅茶の香りが漂っていた。

「お疲れのようですね」

「そう見えるか」

「ええ。少し」

 的確すぎる観察に、カルヴァスは苦笑しかけて、やめた。

「今日の港の件だが……」

「問題はありませんでしたわ。
 予定通り、進められます」

「それは、わかっている」

 言葉が、続かない。

 セラフィナは、静かに彼を見つめている。

 急かさない。
 問い詰めない。

 ただ、待つ。

 その姿勢が、余計に胸を締めつけた。

「……他国が、君に接触した」

 彼女は、驚いた様子もなく頷いた。

「はい。形式的な挨拶程度ですわ」

「……応じるつもりは?」

「公爵家の判断次第です」

 その答えは、完璧だった。

 だが――。

「私の判断だとしたら?」

 思わず、そう聞いていた。

 セラフィナは、一瞬だけ目を瞬かせる。

「……どういう意味でしょうか」

 カルヴァスは、視線を逸らした。

「……いや」

 言い直そうとして、言葉を止める。

(誤魔化すな)

 自分自身に、そう言われた気がした。

「正直に言う」

 彼は、深く息を吸った。

「君が、他国に引き抜かれる可能性を考えた」

 沈黙。

 部屋の空気が、わずかに張り詰める。

「それが、我慢ならなかった」

 その言葉を口にした瞬間。

 カルヴァスは、はっきりと理解した。

(……ああ)

 これは、政治でも合理でもない。

「……それは」

 セラフィナが、静かに口を開く。

「独占欲、というものでしょうか」

 核心を、あっさり突かれた。

 カルヴァスは、何も否定できなかった。

「……そう、かもしれない」

 長い沈黙のあと、彼は続ける。

「君を、協力者としてだけ見ていない」

 それは、告白ではない。
 だが、否定もしない宣言だった。

 セラフィナは、少しだけ考えるように視線を落とす。

「……白い結婚、でしたわね」

「承知している」

「干渉しない、とも」

「ああ」

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

「でしたら」

 穏やかな声。

「今は、その自覚だけで十分ですわ」

 拒絶でも、受容でもない。

 だが――逃げ道は残してくれた。

「急ぐ必要はありません」

 そう言って、彼女は微笑んだ。

「私たちは、合理的な関係ですもの」

 その言葉が、胸に刺さる。

 同時に、救いでもあった。

「……感謝する」

 カルヴァスは、静かに頭を下げた。

 部屋を出る直前、彼は一度だけ振り返る。

 セラフィナは、いつもと変わらず、紅茶を手に立っていた。

 だが、その表情は――
 ほんの少しだけ、柔らかかった。

 廊下を歩きながら、カルヴァスは自覚する。

 もう、“協力者”という言葉では足りない。

 だが、踏み込むには、まだ時間が必要だ。

 白い結婚は、依然として白いまま。

 ――けれど。

 そこに確かに、色づき始めた感情があることを、
 彼はもう否定できなかった。


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