21 / 39
第21話 選択は、静かな夜に下される
しおりを挟む
第21話 選択は、静かな夜に下される
その夜、シュタインベルク公国は不思議な静けさに包まれていた。
騒動もない。
緊急の報告もない。
誰かの失策を糾弾する声もない。
――ただ、すべてが“落ち着いている”。
それが、かえって際立っていた。
セラフィナは自室の机に向かい、書類を閉じた。
(……今日は、ここまででいいでしょう)
無理をすれば、まだ続けられる。
だが、それは必要ではない。
ここ数日、意識的に仕事量を調整している。
それは、誰かに命じられたわけではない。
――自分で、決めたことだ。
コン、コン。
静かなノック音。
もう、その音に驚くことはなかった。
「……どうぞ」
扉の向こうに立っていたのは、カルヴァスだった。
「遅い時間に、すまない」
「いいえ。
ちょうど、一区切りでしたわ」
彼は部屋に入り、いつものように距離を保って立つ。
以前なら、
“白い結婚だから”という理由で、自然と生まれていた距離。
今は――
意識しなければ、曖昧になる。
「王国の件だが」
「ええ」
セラフィナは、先を促した。
「内部の要職者が、相次いで職を離れている」
「想定通りです」
淡々とした返答。
「責任を引き受ける者がいなければ、
組織は、形だけになります」
カルヴァスは、少し黙ってから言った。
「……君は、もう王国を見ていないな」
「はい」
即答だった。
「見る必要が、ありません」
それは冷酷ではない。
整理された判断だ。
沈黙が落ちる。
だが、今日はその沈黙が、どこか違っていた。
「……セラフィナ」
カルヴァスが、彼女の名を呼ぶ。
「今夜は、王国の話ではない」
その一言で、空気が変わる。
「白い結婚の件だ」
ついに、その言葉が出た。
セラフィナは、視線を逸らさずに答える。
「……はい」
「このまま、曖昧な状態を続けることもできる」
彼の声は、低く、落ち着いている。
「社交界も、政治も、それを許容するだろう」
「ええ」
彼女も理解している。
「だが」
カルヴァスは、一歩だけ近づいた。
「それは、“何も選ばない”という選択だ」
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
「私は、それを続けたくない」
彼は、はっきりと言った。
「君を、曖昧な立場に置き続けることも」
命令ではない。
誘導でもない。
――確認だ。
セラフィナは、しばらく考えた。
頭の中には、いくつもの選択肢が浮かぶ。
白い結婚を維持する。
距離を取る。
あるいは――関係を変える。
どれも、間違いではない。
だが。
(……逃げない、と決めましたわね)
彼女は、静かに口を開いた。
「選択肢を、整理しましょう」
カルヴァスは、頷いた。
「第一に」
セラフィナは言う。
「白い結婚を、完全に形式的なものとして維持する」
「……それは、今までと同じだな」
「いいえ」
彼女は、首を振った。
「今はもう、“同じ”ではありません」
カルヴァスは、何も言わなかった。
「第二に」
「距離を、意図的に取る」
「それは……」
「不自然です」
彼女は、はっきりと言った。
「今の関係を壊すための距離は、
公爵家にとっても、私にとっても、合理的ではありません」
「では、第三は?」
セラフィナは、深く息を吸う。
「白い結婚という前提を、
見直す」
その言葉は、重かった。
だが、揺れてはいなかった。
「……見直す、とは」
「即座に答えを出す、という意味ではありません」
彼女は続ける。
「ただ、“白い結婚だから”という理由で、
感情や選択を封じるのを、やめる」
カルヴァスは、ゆっくりと理解する。
「……君は」
「はい」
セラフィナは、微笑んだ。
「選ばないことで、
安全な場所に留まるつもりはありません」
その言葉に、カルヴァスは短く息を吐いた。
「……私もだ」
彼は、はっきりと言った。
「なら、結論は一つだな」
二人の視線が、正面から重なる。
「白い結婚は――」
セラフィナが、静かに続ける。
「白いままにするかどうかを、
これから決めていく関係に変わります」
それは、破棄でも、成立でもない。
“移行”だ。
カルヴァスは、ゆっくりと頷いた。
「公爵家としても、
夫としても、
それを受け入れる」
その言葉は、誓いではない。
だが――
逃げないという意思だった。
「今夜は、それで十分ですわ」
セラフィナは、そう言って、穏やかに微笑む。
「結論を急げば、
合理性を失いますから」
カルヴァスは、ほんの少しだけ笑った。
「……君らしい」
扉を出る前、彼は一度だけ立ち止まる。
「セラフィナ」
「はい」
「選んでくれて、ありがとう」
彼女は、一瞬だけ驚き――
そして、静かに答えた。
「こちらこそ」
その夜、白い結婚は終わらなかった。
だが――
ただの前提では、なくなった。
それだけで、
二人にとっては、十分な前進だった。
---
その夜、シュタインベルク公国は不思議な静けさに包まれていた。
騒動もない。
緊急の報告もない。
誰かの失策を糾弾する声もない。
――ただ、すべてが“落ち着いている”。
それが、かえって際立っていた。
セラフィナは自室の机に向かい、書類を閉じた。
(……今日は、ここまででいいでしょう)
無理をすれば、まだ続けられる。
だが、それは必要ではない。
ここ数日、意識的に仕事量を調整している。
それは、誰かに命じられたわけではない。
――自分で、決めたことだ。
コン、コン。
静かなノック音。
もう、その音に驚くことはなかった。
「……どうぞ」
扉の向こうに立っていたのは、カルヴァスだった。
「遅い時間に、すまない」
「いいえ。
ちょうど、一区切りでしたわ」
彼は部屋に入り、いつものように距離を保って立つ。
以前なら、
“白い結婚だから”という理由で、自然と生まれていた距離。
今は――
意識しなければ、曖昧になる。
「王国の件だが」
「ええ」
セラフィナは、先を促した。
「内部の要職者が、相次いで職を離れている」
「想定通りです」
淡々とした返答。
「責任を引き受ける者がいなければ、
組織は、形だけになります」
カルヴァスは、少し黙ってから言った。
「……君は、もう王国を見ていないな」
「はい」
即答だった。
「見る必要が、ありません」
それは冷酷ではない。
整理された判断だ。
沈黙が落ちる。
だが、今日はその沈黙が、どこか違っていた。
「……セラフィナ」
カルヴァスが、彼女の名を呼ぶ。
「今夜は、王国の話ではない」
その一言で、空気が変わる。
「白い結婚の件だ」
ついに、その言葉が出た。
セラフィナは、視線を逸らさずに答える。
「……はい」
「このまま、曖昧な状態を続けることもできる」
彼の声は、低く、落ち着いている。
「社交界も、政治も、それを許容するだろう」
「ええ」
彼女も理解している。
「だが」
カルヴァスは、一歩だけ近づいた。
「それは、“何も選ばない”という選択だ」
胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
「私は、それを続けたくない」
彼は、はっきりと言った。
「君を、曖昧な立場に置き続けることも」
命令ではない。
誘導でもない。
――確認だ。
セラフィナは、しばらく考えた。
頭の中には、いくつもの選択肢が浮かぶ。
白い結婚を維持する。
距離を取る。
あるいは――関係を変える。
どれも、間違いではない。
だが。
(……逃げない、と決めましたわね)
彼女は、静かに口を開いた。
「選択肢を、整理しましょう」
カルヴァスは、頷いた。
「第一に」
セラフィナは言う。
「白い結婚を、完全に形式的なものとして維持する」
「……それは、今までと同じだな」
「いいえ」
彼女は、首を振った。
「今はもう、“同じ”ではありません」
カルヴァスは、何も言わなかった。
「第二に」
「距離を、意図的に取る」
「それは……」
「不自然です」
彼女は、はっきりと言った。
「今の関係を壊すための距離は、
公爵家にとっても、私にとっても、合理的ではありません」
「では、第三は?」
セラフィナは、深く息を吸う。
「白い結婚という前提を、
見直す」
その言葉は、重かった。
だが、揺れてはいなかった。
「……見直す、とは」
「即座に答えを出す、という意味ではありません」
彼女は続ける。
「ただ、“白い結婚だから”という理由で、
感情や選択を封じるのを、やめる」
カルヴァスは、ゆっくりと理解する。
「……君は」
「はい」
セラフィナは、微笑んだ。
「選ばないことで、
安全な場所に留まるつもりはありません」
その言葉に、カルヴァスは短く息を吐いた。
「……私もだ」
彼は、はっきりと言った。
「なら、結論は一つだな」
二人の視線が、正面から重なる。
「白い結婚は――」
セラフィナが、静かに続ける。
「白いままにするかどうかを、
これから決めていく関係に変わります」
それは、破棄でも、成立でもない。
“移行”だ。
カルヴァスは、ゆっくりと頷いた。
「公爵家としても、
夫としても、
それを受け入れる」
その言葉は、誓いではない。
だが――
逃げないという意思だった。
「今夜は、それで十分ですわ」
セラフィナは、そう言って、穏やかに微笑む。
「結論を急げば、
合理性を失いますから」
カルヴァスは、ほんの少しだけ笑った。
「……君らしい」
扉を出る前、彼は一度だけ立ち止まる。
「セラフィナ」
「はい」
「選んでくれて、ありがとう」
彼女は、一瞬だけ驚き――
そして、静かに答えた。
「こちらこそ」
その夜、白い結婚は終わらなかった。
だが――
ただの前提では、なくなった。
それだけで、
二人にとっては、十分な前進だった。
---
0
あなたにおすすめの小説
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
【完結】恋は、終わったのです
楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。
今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。
『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――あの子に出会った時からだろうか。
――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵令息から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる