婚約を捨てたのはあなたですのに、今さら愛を乞われても困ります

ふわふわ

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28 泣けば済むと思った女

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28 泣けば済むと思った女

公の場での追及から二日後、王宮の空気は目に見えて変わっていた。

廊下を行き交う者たちの足取りは相変わらず整っている。
書類も運ばれ、給仕も礼を失わず、王妃宮の花も変わらず美しく整えられている。
だが、その静かな秩序の内側で、人々はもう知ってしまっていた。

王太子の判断は、ただの恋愛沙汰ではなかった。
王家の実務を揺らし、外交の空気を乱し、商会の信用を削り、そして何より――その感情そのものが、外から少しずつ歪められていた可能性が高い。

その事実を知った者たちは、もう以前のようにはリネットを見られなかった。

可哀想な少女。
守られるべきか弱い存在。
そんな物語は、少なくとも王宮の中では、急速に力を失いつつあった。

けれど、当のリネットはまだ、その変化を完全には理解していなかった。

いや、理解しかけているからこそ、なおさら昔のやり方へしがみついていたのかもしれない。

「また、ですの?」

王妃宮付きの女官が差し出した記録紙を見て、リネットはかすれた声を上げた。

教育室の空気は冷えている。
窓から光は入っているのに、部屋の中だけ別の季節みたいだった。

エルミーヌは記録板を閉じ、静かに答える。

「はい。本日も進度の確認が必要でございます」

「進度、進度って……」

リネットは紙を握りしめる。

そこには簡潔に、しかし容赦なく書かれていた。

礼法、改善薄し。
会話応答、自己中心の傾向あり。
場の把握、依然として不十分。
感情の処理に課題。

感情の処理に課題。

その一文が、ひどく馬鹿にされているように感じた。
まるで子どもではないか。

「わたくし、きちんと努力しておりますわ」

リネットは震える声で言う。

「毎日ここへ来て、言われた通りに座って、覚えて、答えて……なのに、どうしてこんな書き方をされなければならないのです」

エルミーヌは表情を変えなかった。

「努力をなさっていることは承知しております」

「でしたら!」

「ですが、成果が追いついておりません」

その一言で、室内の空気がぴたりと止まる。

侍女見習いたちも、記録係も、誰も顔を上げない。
その沈黙が、リネットには何より耐え難かった。

「……結局、皆さまそうなのね」

唇が震える。

「そう、とは」

「わたくしが何をしても、どうせアリアベル様には敵わないと思っていらっしゃるのでしょう」

エルミーヌはしばらく答えなかった。
そして、その“答えない時間”が、リネットにはもう十分な答えに思えた。

「違います」

ようやく返った声は低かった。

「今申し上げているのは、アリアベル様との比較ではございません。王太子妃候補として必要な基準でございます」

「同じことですわ!」

リネットはついに立ち上がった。

椅子がまた嫌な音を立てる。

「そうやって、皆さま、言い方だけ変えて責めているのです! 足りない、届かない、場が見えていない――そんなことばかり!」

「……」

「わたくしだって、好きでこんな立場になったわけではありません!」

叫んでから、自分でその言葉のまずさに気づいた。

好きでなったわけではない。
それは半分だけ本当で、半分は嘘だ。
王太子の隣の席を欲しがったのは自分だ。
アリアベルからそれを奪い取ることに快感がなかったわけではない。

だが今は、そんな本音を自分でも見たくなかった。

エルミーヌの目が、初めてはっきり厳しくなった。

「リネット様」

その声音には、もう教育係としての柔らかさがほとんど残っていない。

「お言葉を慎まれませ」

「どうして! どうしてわたくしばかり――」

「ばかりではございません」

ぴしゃりと切られた。

「問題が表に出ているから申し上げているのです」

リネットの喉がひゅっと狭くなる。

表に出ている。

つまりもう、王宮の中でも“これは看過できぬ”と見なされているということだ。

「本日もここまでといたします」

エルミーヌはそう言って記録板を閉じた。

「頭を冷やしてから、明日また」

「嫌ですわ!」

思わず叫ぶ。

「どうせ明日も同じことを言うのでしょう! 礼法が足りない、気遣いが足りない、感情が未熟だって!」

「……」

「わたくしばかり悪いみたいではありませんか!」

その瞬間、教育室の扉が開いた。

誰も予想していなかった方向から、静かな声が落ちる。

「悪いところがあるなら、改めるしかないでしょう」

王妃だった。

全員がその場で立ち上がり、頭を下げる。
リネットも反射的に膝を折ったが、顔から血の気が引くのが自分でもわかった。

どうしてここに。
今の言葉を、どこまで聞かれた。

王妃は室内を一瞥し、エルミーヌへ軽く頷く。

「下がりなさい。あとは私が話します」

「かしこまりました」

教育係たちが静かに退出していく。
扉が閉まると、広くもない教育室は急に狭く感じられた。

王妃はリネットの前まで歩み寄る。

「顔を上げなさい」

リネットは震えながら従った。

王妃の表情は怒鳴るものではない。
だが、だからこそ余計に怖かった。
声を荒げず、感情を露わにせず、それでも逃がさない類いの静けさだ。

「あなたは」

王妃が低く言う。

「まだ泣けば済むと思っているのですか」

その一言で、リネットの胸が大きく脈打った。

図星だった。
あまりにも図星すぎて、反射的に目に涙が滲む。

「……そんな」

「違うと?」

リネットは何も言えない。

違う、と言っても無駄だとわかる。
この人は、もうその程度の涙では動かない。

王妃は続ける。

「泣くこと自体が悪いとは申しません。悔しければ涙も出ましょう。ですが、あなたの涙は、物事を受け止めるためではなく、そこから逃げるために使われてきたように見えます」

リネットの指先が震える。

言い返したい。
そんなことない、と。
でも、言い返すほど言葉が整わない。

「教育係が何を言っても、“可哀想な私”へ戻れば話は止まる。そう思っているのでしょう」

「……違います」

かろうじて出た声は、ひどく弱かった。

「本当に傷ついておりますの」

「そうでしょうね」

王妃はあっさり認めた。

「ですが、傷ついていることと、責任がないことは別です」

その言葉が、冷たい刃のように落ちる。

責任。
またその言葉。

どうして皆、そんなことばかり言うのだろう。
どうして、泣いている相手へそんなに平然と“責任”など持ち出せるのか。

「あなたは今、王太子妃候補として教育を受けている」

王妃は静かに言う。

「それは、愛された娘へのご褒美ではありません。責任を果たせるかどうかを見られる席です」

リネットは唇を噛んだ。

ご褒美ではない。
愛された娘への祝福ではない。
そんな言葉ばかり、最近はどこへ行っても聞かされる。

「私……」

ようやく言葉を探す。

「わたくし、頑張っておりますわ」

「ええ」

「慣れないことばかりで、必死で」

「それもわかっています」

「でしたらどうして……」

そこで涙が零れた。

今度の涙は、少なくとも半分は本物だった。
悔しさも惨めさも、たしかに本物だ。

けれど王妃の眼差しは少しも揺れない。

「頑張ることと、足りていることは別だからです」

リネットは、そこでとうとう言葉を失った。

それはあまりにも残酷で、あまりにも正しかった。
頑張っている。
でも足りない。
その現実を、誰ももう曖昧に包んではくれない。

王妃は少しだけ声を緩めた。

「リネット」

名前だけを呼ぶ。

その呼び方に、先ほどまでの冷たさとは違うものが混じった。
だが優しさというより、最後の確認に近かった。

「私はあなたを今この場で断罪するつもりはありません」

リネットの胸が一瞬だけ軽くなる。

けれど次の言葉が、それをすぐ押し潰した。

「ですが、変わらない限り、この先はありません」

変わらない限り、この先はない。

教育室の壁も窓も、一瞬遠くなる気がした。

「それは……」

「そのままの意味です」

王妃は真っ直ぐに言う。

「あなたは、泣いて許される年齢でも立場でもない。そして、王太子妃候補という席は、可哀想であることを免罪符にできる場所ではない」

リネットは声もなく泣いた。

助けて、と言いたかった。
でも誰に向けてか自分でもわからない。

ユリヴェールか。
王妃か。
それとも、もう戻れないところまで来てしまった自分自身にか。

王妃は最後にこう言った。

「次に同じことがあれば、私は“まだ慣れないだけ”とは見なしません」

それだけ告げて、王妃は踵を返した。

扉が閉まり、教育室にはリネットだけが取り残される。

しばらくの間、彼女はその場から動けなかった。

泣けば済むと思った女。

まさにその通りだったのだろう。
少なくとも今までは。
泣けば相手が引き、責める空気が薄まり、自分はまた守られる側へ戻れた。

でも、もう駄目なのだ。

泣いても、皆が止まらない。
泣いても、言うべきことを言われる。
泣いても、自分の足りなさは消えない。

リネットは震える指で、卓に置かれた今日の記録紙を掴んだ。

感情の処理に課題。

馬鹿にするなと思った。
けれど今は、その一文がひどく正確に見えてしまう。

扉の外で、控えていた侍女がそっと様子を窺っている気配がした。
いつもなら、今ここで涙を見せれば、誰かが優しく背を撫でてくれる。
“お可哀想に”と囁いてくれる。

でも、今日は違う気がした。

侍女は入ってこない。
おそらく、王妃の後ろ姿を見たのだろう。
今はもう軽々しく慰める場ではないと、わかっているのだ。

それがまた、リネットをひどく惨めにさせた。

涙が武器ではなくなった時、自分には何が残るのだろう。

その問いだけが、冷たく胸の奥へ沈んでいく。

そして、答えがまだ何もないことを、リネット自身がいちばんよく知っていた。
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