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29 今さらの復縁懇願
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29 今さらの復縁懇願
王都の午後は、晴れていてもどこか重たかった。
春先の陽射しはやわらかいはずなのに、王宮から届く使いの足音や、社交界を行き交う噂の気配が、空気の中へ薄く沈んでいる。
婚約破棄からしばらく経った今も、事態は少しも“落ち着いた”とは言えなかった。
むしろ、落ち着くどころか、ようやく本当の形が見え始めている。
その日、アリアベルは公爵邸の小さな応接間で、王妃宮から届いた文書の控えを確認していた。
机の上には整理された紙束。
王宮側の照会、王妃宮からの確認事項、商会とのやり取りの要約。
どれも感情とは無関係に見えて、実際には婚約破棄の余波そのものだ。
「お嬢様」
扉の外からマルセルの声がした。
「どうぞ」
入ってきた彼は、いつも通り乱れのない顔をしている。
だが、わずかに声を落として言った言葉は、今日の予定にはないものだった。
「第一王太子殿下付きの者が参っております」
アリアベルは手を止めた。
「また?」
「はい。ですが今回は、“家を通して”来ております」
それだけで、以前とは違うとわかる。
婚約破棄直後のユリヴェールは、家と家の問題を理解せぬまま、個人的に話せば何とかなると考えていた。
けれど今は違う。少なくとも、そういう形ではもう扉が開かないと知ったのだろう。
「内容は」
「殿下ご本人が、どうしてもお嬢様へ直接お話ししたいと」
アリアベルは視線を落とした。
来るとは思っていた。
今さら価値に気づき、今さら惜しみ、今さら言葉を重ねたくなる。そういう男だと、もうわかっている。
「お父様は」
「“必要はない”とのお考えです」
「でしょうね」
「ただし、お嬢様が受けて、はっきり終わらせたいとお思いになるなら、止めはなさらないと」
その言い方に、アリアベルは少しだけ息を吐いた。
さすが父だ。
会う必要はない。だが、会わぬことで後を引くなら、それもまた煩わしいと見ているのだろう。
「場所は」
「王宮ではなく、王家所有の離れの温室前庭をご希望です」
「ずいぶんと……」
アリアベルは少しだけ苦笑した。
「感傷的な場所を選ぶのね」
「おそらく、第三者の耳を避けたいのでしょう」
「それもあるでしょうけれど」
アリアベルは椅子の背へ静かにもたれた。
「自分に都合のよい空気を作りたいのよ。庭とか温室とか、そういう場所は、話の中身が浅くても少しだけ美しく見せてくれるもの」
マルセルは表情を崩さず頷く。
「いかがなさいますか」
少しだけ、考える。
会いたくはない。
もう十分に終わった相手だ。
言い訳も、後悔も、今さらの懺悔も、本来なら聞く義理はない。
けれど同時に、今ここではっきり切っておかなければ、彼はまだ“話せばわかる余地がある”と思い込み続けるかもしれない。
それは面倒だ。
ひどく面倒で、そして少しだけ危険でもある。
「受けるわ」
アリアベルは言った。
「ただし条件をつけて」
「承知いたしました」
「時間は短く。場所は向こうの希望で構わない。でも、外にはこちらの者を置くこと。完全な二人きりにはしない」
「かしこまりました」
「それから」
アリアベルはマルセルを見た。
「終わったら、二度と同じ機会を作らないと先に伝えて」
「はい」
その日の夕刻。
王家の離れにある温室前庭は、季節の花々が咲き始める前の静かな匂いに満ちていた。
大きな硝子の向こうには、育てられた緑が並び、庭石の間を細い水路が流れている。
日暮れ前の光が斜めに差し込み、どこか夢のように整えられた場所だった。
なるほど、とアリアベルは思う。
たしかに、こういう場所なら言い訳も少しは美しく聞こえるかもしれない。
ユリヴェールは、すでに待っていた。
以前より少し痩せたように見える。
頬の線がやや鋭くなり、目の下にはうっすら影があった。
けれど、それで“苦しんでいる男”として同情されるほどではない。
むしろ、最近までの苛立ちと寝不足が、ようやく顔へ出てきただけのようにも見える。
「アリアベル」
彼がその名を呼ぶ。
かつて婚約者として当然のように呼ばれていた名なのに、今は少しも懐かしくなかった。
「殿下」
アリアベルは一定の距離を保ったまま、一礼だけした。
「お時間は長く取れませんわ。ご用件を」
その言い方に、ユリヴェールはわずかに顔を曇らせた。
たぶん、もう少し感傷の余地があると思っていたのだろう。
「……そんなに急がずとも」
「急ぎます」
アリアベルは静かに言う。
「私にはもう、殿下との昔話に費やす時間はございません」
その一言で、空気が少し硬くなる。
ユリヴェールは何かを飲み込むように息を整え、それから言った。
「最近になって、ようやく見えてきたことがある」
アリアベルは答えない。
「お前が、どれだけ支えていたか」
まだ“お前”なのね、と思う。
そこに違和感がないこと自体が、もうこの人の限界なのだろう。
「夜会でも、外交でも、商会とのやり取りでも……」
ユリヴェールは続ける。
「今になって、皆がお前の名前を出す。お前がいなければ回らなかったのだと」
「そうでしょうね」
アリアベルは淡々と返した。
「それで?」
ユリヴェールの眉がわずかに寄る。
「それで、とは」
「気づいたのでしょう。私が何をしていたか。それはわかりました。では、その先は?」
彼は少しだけ視線を揺らした。
おそらく、もっと“やっとわかっていただけたのですね”のような反応を期待していたのだ。
けれど、そんなものが出るはずもない。
「私は……」
ユリヴェールは言葉を探す。
「私は、間違えていたのかもしれない」
かもしれない。
その曖昧さに、アリアベルは内心で冷えた。
「かもしれない、ではありませんわ」
「アリアベル」
「間違えていたのです」
まっすぐに言うと、彼は口をつぐんだ。
庭の向こうで風が葉を揺らす。
温室の硝子が、日暮れ前の光を鈍く返していた。
「殿下は、感情に流された」
アリアベルは続ける。
「しかも、その感情がどう作られたかも見ようとしないまま、公の場で婚約を破棄なさった」
「……私は、リネットを守るべきだと思った」
「ええ。そうでしょう」
「お前はいつも強くて、何があっても平然としていて」
その言葉に、アリアベルは目を細めた。
今さらだ。
本当に今さらだった。
「私は、あちらのほうが……」
ユリヴェールは言い淀む。
「弱く見えた」
アリアベルは一瞬だけ、笑いそうになった。
笑いたいのではない。
呆れが、あまりにもきれいな形で戻ってきたからだ。
「弱く見えたから、守ったのですか」
「そうだ」
「そして、強く見えた私は、何をされても平気だと思った?」
その問いに、ユリヴェールはすぐ答えられなかった。
それが答えだ。
アリアベルは、そこでようやく少しだけ感情を混ぜた声を出した。
「殿下が必要としていたのは、私ではなく、“傷つかない便利な誰か”だったのでしょう」
「違う!」
ユリヴェールが思わず声を荒げる。
「私は、お前のことを……」
だが、その先が続かない。
好きだった、というのか。
愛していた、と。
そのどちらも今の彼には薄すぎて、口へ乗せられないのだろう。
「何ですの」
アリアベルは逃がさなかった。
「殿下は、私のことを何だと思っていらしたの」
ユリヴェールは苦しげに息を吐いた。
「お前は、いつも正しくて、何でもできて……」
「答えになっておりませんわ」
「私は!」
彼は一歩だけ近づきかける。
だがアリアベルが動かないまま見返すと、結局そこで止まった。
「……お前が、必要だった」
ようやく出たのは、その言葉だった。
必要だった。
それは愛ではない。
少なくとも今のアリアベルには、そうとしか聞こえなかった。
「そうでしょうね」
彼女は静かに言った。
「王太子として、婚約者として、社交の場で、外交の場で、王宮の中で。私は必要だったでしょう」
「アリアベル」
「でも、それは私という人間ではなく、私が差し出していた働きです」
ユリヴェールの顔が苦しげに歪む。
やっと、自分の言葉の薄さに気づいたのかもしれない。
「違う」
「では、何が違うのですか」
「私は今、失ってからわかったんだ」
ユリヴェールの声が低くなる。
「お前がどれほど……どれほど自分にとって大きかったか」
その言葉は、たぶん彼なりの本気なのだろう。
けれど、アリアベルの胸は少しも揺れなかった。
失ってからわかった。
それは、遅れてきた理解ではある。
でも同時に、“失うまでは見ようとしなかった”という告白でもある。
「殿下」
アリアベルは穏やかに、しかしはっきりと言った。
「それは、今さらですわ」
ユリヴェールが息を呑む。
「私はもう、殿下に見つけていただく立場ではございません。失ってから価値に気づかれたところで、それは私への救いにはならないのです」
「だが!」
「だが、ではありません」
アリアベルの声は静かだった。
静かで、だからこそ少しも揺るがない。
「私が欲しかったのは、失ってから惜しまれることではなく、隣にいる時に正しく見てもらうことでした」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがきれいに落ち着くのを感じた。
そうなのだ。
ずっと言いたかったのは、たぶんそれだった。
婚約を続けたかったわけではない。
王太子妃の座に執着しているわけでもない。
ただ、自分が隣にいた時間、自分がしてきたこと、自分が何を支えていたかを、“その時に”見てもらいたかったのだ。
それを、失ってから“惜しい”と言われても、もう遅い。
ユリヴェールは顔を伏せるように少しだけ俯いた。
「……やり直せないのか」
その問いに、アリアベルは一切迷わなかった。
「できませんわ」
「一度きりでも」
「できません」
「私は、今なら――」
「今の殿下に、今の私へ差し出せるものは何ですの」
そこで彼は完全に言葉を失った。
王太子としての地位か。
婚約者の座か。
あるいは“今度こそ見る”という、あまりにも曖昧な約束か。
どれも、もう足りない。
アリアベルは続ける。
「殿下は今、ようやく自分の足元が見えなくなってきて、私の働きが必要だったと気づいた。それは理解します」
「……」
「でも、それと私が殿下のもとへ戻ることは、何の関係もありません」
風がまたひとつ吹き抜ける。
遠くで鳥が鳴いた。
日暮れはもうすぐだった。
「私はもう、以前の場所へ戻るつもりはございません」
アリアベルははっきり言う。
「そして、殿下が今必要としているのは、私ではなく、ご自分の愚かさと正面から向き合うことです」
その一言は、最後の扉を閉める音に近かった。
ユリヴェールはしばらく動かなかった。
アリアベルも待たない。
もう言うべきことは十分だ。
これ以上ここにいても、彼の後悔に付き合うだけになる。
「これで失礼いたします」
そう告げて一礼し、踵を返す。
背後で、彼がかすれた声で呼んだ。
「アリアベル」
足は止めない。
「……すまなかった」
その謝罪は、本音なのだろう。
だからこそ、なおさら遅い。
アリアベルは振り返らずに答えた。
「ええ。遅すぎましたわ」
それだけ残して、歩き出した。
前庭を抜けるころ、外で控えていたマルセルが静かに頭を下げる。
「お疲れさまでございました」
「ええ」
「終わりましたか」
アリアベルは、ようやくそこで小さく息を吐いた。
「ええ。終わらせたわ」
馬車へ向かいながら、胸の中に不思議な静けさが広がっていく。
痛くないわけではない。
長い時間をかけて積み重ねてきたものを、“今さら”の一言で全部切り離せるほど、人の心は単純ではない。
それでも、もう迷いはなかった。
今さらの復縁懇願。
失ってから気づいた価値。
遅れてきた謝罪。
どれも、昔のアリアベルなら少しは胸を揺らしたかもしれない。
でも今は違う。
辺境で見たもの。
正しく評価されたこと。
差し出された手。
そして、隣にいる時に見てもらえなかった痛み。
その全部が、今の自分の足元を支えている。
だから、もう戻らない。
戻れないのではなく、戻らないのだと、アリアベルははっきり思った。
王都の午後は、晴れていてもどこか重たかった。
春先の陽射しはやわらかいはずなのに、王宮から届く使いの足音や、社交界を行き交う噂の気配が、空気の中へ薄く沈んでいる。
婚約破棄からしばらく経った今も、事態は少しも“落ち着いた”とは言えなかった。
むしろ、落ち着くどころか、ようやく本当の形が見え始めている。
その日、アリアベルは公爵邸の小さな応接間で、王妃宮から届いた文書の控えを確認していた。
机の上には整理された紙束。
王宮側の照会、王妃宮からの確認事項、商会とのやり取りの要約。
どれも感情とは無関係に見えて、実際には婚約破棄の余波そのものだ。
「お嬢様」
扉の外からマルセルの声がした。
「どうぞ」
入ってきた彼は、いつも通り乱れのない顔をしている。
だが、わずかに声を落として言った言葉は、今日の予定にはないものだった。
「第一王太子殿下付きの者が参っております」
アリアベルは手を止めた。
「また?」
「はい。ですが今回は、“家を通して”来ております」
それだけで、以前とは違うとわかる。
婚約破棄直後のユリヴェールは、家と家の問題を理解せぬまま、個人的に話せば何とかなると考えていた。
けれど今は違う。少なくとも、そういう形ではもう扉が開かないと知ったのだろう。
「内容は」
「殿下ご本人が、どうしてもお嬢様へ直接お話ししたいと」
アリアベルは視線を落とした。
来るとは思っていた。
今さら価値に気づき、今さら惜しみ、今さら言葉を重ねたくなる。そういう男だと、もうわかっている。
「お父様は」
「“必要はない”とのお考えです」
「でしょうね」
「ただし、お嬢様が受けて、はっきり終わらせたいとお思いになるなら、止めはなさらないと」
その言い方に、アリアベルは少しだけ息を吐いた。
さすが父だ。
会う必要はない。だが、会わぬことで後を引くなら、それもまた煩わしいと見ているのだろう。
「場所は」
「王宮ではなく、王家所有の離れの温室前庭をご希望です」
「ずいぶんと……」
アリアベルは少しだけ苦笑した。
「感傷的な場所を選ぶのね」
「おそらく、第三者の耳を避けたいのでしょう」
「それもあるでしょうけれど」
アリアベルは椅子の背へ静かにもたれた。
「自分に都合のよい空気を作りたいのよ。庭とか温室とか、そういう場所は、話の中身が浅くても少しだけ美しく見せてくれるもの」
マルセルは表情を崩さず頷く。
「いかがなさいますか」
少しだけ、考える。
会いたくはない。
もう十分に終わった相手だ。
言い訳も、後悔も、今さらの懺悔も、本来なら聞く義理はない。
けれど同時に、今ここではっきり切っておかなければ、彼はまだ“話せばわかる余地がある”と思い込み続けるかもしれない。
それは面倒だ。
ひどく面倒で、そして少しだけ危険でもある。
「受けるわ」
アリアベルは言った。
「ただし条件をつけて」
「承知いたしました」
「時間は短く。場所は向こうの希望で構わない。でも、外にはこちらの者を置くこと。完全な二人きりにはしない」
「かしこまりました」
「それから」
アリアベルはマルセルを見た。
「終わったら、二度と同じ機会を作らないと先に伝えて」
「はい」
その日の夕刻。
王家の離れにある温室前庭は、季節の花々が咲き始める前の静かな匂いに満ちていた。
大きな硝子の向こうには、育てられた緑が並び、庭石の間を細い水路が流れている。
日暮れ前の光が斜めに差し込み、どこか夢のように整えられた場所だった。
なるほど、とアリアベルは思う。
たしかに、こういう場所なら言い訳も少しは美しく聞こえるかもしれない。
ユリヴェールは、すでに待っていた。
以前より少し痩せたように見える。
頬の線がやや鋭くなり、目の下にはうっすら影があった。
けれど、それで“苦しんでいる男”として同情されるほどではない。
むしろ、最近までの苛立ちと寝不足が、ようやく顔へ出てきただけのようにも見える。
「アリアベル」
彼がその名を呼ぶ。
かつて婚約者として当然のように呼ばれていた名なのに、今は少しも懐かしくなかった。
「殿下」
アリアベルは一定の距離を保ったまま、一礼だけした。
「お時間は長く取れませんわ。ご用件を」
その言い方に、ユリヴェールはわずかに顔を曇らせた。
たぶん、もう少し感傷の余地があると思っていたのだろう。
「……そんなに急がずとも」
「急ぎます」
アリアベルは静かに言う。
「私にはもう、殿下との昔話に費やす時間はございません」
その一言で、空気が少し硬くなる。
ユリヴェールは何かを飲み込むように息を整え、それから言った。
「最近になって、ようやく見えてきたことがある」
アリアベルは答えない。
「お前が、どれだけ支えていたか」
まだ“お前”なのね、と思う。
そこに違和感がないこと自体が、もうこの人の限界なのだろう。
「夜会でも、外交でも、商会とのやり取りでも……」
ユリヴェールは続ける。
「今になって、皆がお前の名前を出す。お前がいなければ回らなかったのだと」
「そうでしょうね」
アリアベルは淡々と返した。
「それで?」
ユリヴェールの眉がわずかに寄る。
「それで、とは」
「気づいたのでしょう。私が何をしていたか。それはわかりました。では、その先は?」
彼は少しだけ視線を揺らした。
おそらく、もっと“やっとわかっていただけたのですね”のような反応を期待していたのだ。
けれど、そんなものが出るはずもない。
「私は……」
ユリヴェールは言葉を探す。
「私は、間違えていたのかもしれない」
かもしれない。
その曖昧さに、アリアベルは内心で冷えた。
「かもしれない、ではありませんわ」
「アリアベル」
「間違えていたのです」
まっすぐに言うと、彼は口をつぐんだ。
庭の向こうで風が葉を揺らす。
温室の硝子が、日暮れ前の光を鈍く返していた。
「殿下は、感情に流された」
アリアベルは続ける。
「しかも、その感情がどう作られたかも見ようとしないまま、公の場で婚約を破棄なさった」
「……私は、リネットを守るべきだと思った」
「ええ。そうでしょう」
「お前はいつも強くて、何があっても平然としていて」
その言葉に、アリアベルは目を細めた。
今さらだ。
本当に今さらだった。
「私は、あちらのほうが……」
ユリヴェールは言い淀む。
「弱く見えた」
アリアベルは一瞬だけ、笑いそうになった。
笑いたいのではない。
呆れが、あまりにもきれいな形で戻ってきたからだ。
「弱く見えたから、守ったのですか」
「そうだ」
「そして、強く見えた私は、何をされても平気だと思った?」
その問いに、ユリヴェールはすぐ答えられなかった。
それが答えだ。
アリアベルは、そこでようやく少しだけ感情を混ぜた声を出した。
「殿下が必要としていたのは、私ではなく、“傷つかない便利な誰か”だったのでしょう」
「違う!」
ユリヴェールが思わず声を荒げる。
「私は、お前のことを……」
だが、その先が続かない。
好きだった、というのか。
愛していた、と。
そのどちらも今の彼には薄すぎて、口へ乗せられないのだろう。
「何ですの」
アリアベルは逃がさなかった。
「殿下は、私のことを何だと思っていらしたの」
ユリヴェールは苦しげに息を吐いた。
「お前は、いつも正しくて、何でもできて……」
「答えになっておりませんわ」
「私は!」
彼は一歩だけ近づきかける。
だがアリアベルが動かないまま見返すと、結局そこで止まった。
「……お前が、必要だった」
ようやく出たのは、その言葉だった。
必要だった。
それは愛ではない。
少なくとも今のアリアベルには、そうとしか聞こえなかった。
「そうでしょうね」
彼女は静かに言った。
「王太子として、婚約者として、社交の場で、外交の場で、王宮の中で。私は必要だったでしょう」
「アリアベル」
「でも、それは私という人間ではなく、私が差し出していた働きです」
ユリヴェールの顔が苦しげに歪む。
やっと、自分の言葉の薄さに気づいたのかもしれない。
「違う」
「では、何が違うのですか」
「私は今、失ってからわかったんだ」
ユリヴェールの声が低くなる。
「お前がどれほど……どれほど自分にとって大きかったか」
その言葉は、たぶん彼なりの本気なのだろう。
けれど、アリアベルの胸は少しも揺れなかった。
失ってからわかった。
それは、遅れてきた理解ではある。
でも同時に、“失うまでは見ようとしなかった”という告白でもある。
「殿下」
アリアベルは穏やかに、しかしはっきりと言った。
「それは、今さらですわ」
ユリヴェールが息を呑む。
「私はもう、殿下に見つけていただく立場ではございません。失ってから価値に気づかれたところで、それは私への救いにはならないのです」
「だが!」
「だが、ではありません」
アリアベルの声は静かだった。
静かで、だからこそ少しも揺るがない。
「私が欲しかったのは、失ってから惜しまれることではなく、隣にいる時に正しく見てもらうことでした」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがきれいに落ち着くのを感じた。
そうなのだ。
ずっと言いたかったのは、たぶんそれだった。
婚約を続けたかったわけではない。
王太子妃の座に執着しているわけでもない。
ただ、自分が隣にいた時間、自分がしてきたこと、自分が何を支えていたかを、“その時に”見てもらいたかったのだ。
それを、失ってから“惜しい”と言われても、もう遅い。
ユリヴェールは顔を伏せるように少しだけ俯いた。
「……やり直せないのか」
その問いに、アリアベルは一切迷わなかった。
「できませんわ」
「一度きりでも」
「できません」
「私は、今なら――」
「今の殿下に、今の私へ差し出せるものは何ですの」
そこで彼は完全に言葉を失った。
王太子としての地位か。
婚約者の座か。
あるいは“今度こそ見る”という、あまりにも曖昧な約束か。
どれも、もう足りない。
アリアベルは続ける。
「殿下は今、ようやく自分の足元が見えなくなってきて、私の働きが必要だったと気づいた。それは理解します」
「……」
「でも、それと私が殿下のもとへ戻ることは、何の関係もありません」
風がまたひとつ吹き抜ける。
遠くで鳥が鳴いた。
日暮れはもうすぐだった。
「私はもう、以前の場所へ戻るつもりはございません」
アリアベルははっきり言う。
「そして、殿下が今必要としているのは、私ではなく、ご自分の愚かさと正面から向き合うことです」
その一言は、最後の扉を閉める音に近かった。
ユリヴェールはしばらく動かなかった。
アリアベルも待たない。
もう言うべきことは十分だ。
これ以上ここにいても、彼の後悔に付き合うだけになる。
「これで失礼いたします」
そう告げて一礼し、踵を返す。
背後で、彼がかすれた声で呼んだ。
「アリアベル」
足は止めない。
「……すまなかった」
その謝罪は、本音なのだろう。
だからこそ、なおさら遅い。
アリアベルは振り返らずに答えた。
「ええ。遅すぎましたわ」
それだけ残して、歩き出した。
前庭を抜けるころ、外で控えていたマルセルが静かに頭を下げる。
「お疲れさまでございました」
「ええ」
「終わりましたか」
アリアベルは、ようやくそこで小さく息を吐いた。
「ええ。終わらせたわ」
馬車へ向かいながら、胸の中に不思議な静けさが広がっていく。
痛くないわけではない。
長い時間をかけて積み重ねてきたものを、“今さら”の一言で全部切り離せるほど、人の心は単純ではない。
それでも、もう迷いはなかった。
今さらの復縁懇願。
失ってから気づいた価値。
遅れてきた謝罪。
どれも、昔のアリアベルなら少しは胸を揺らしたかもしれない。
でも今は違う。
辺境で見たもの。
正しく評価されたこと。
差し出された手。
そして、隣にいる時に見てもらえなかった痛み。
その全部が、今の自分の足元を支えている。
だから、もう戻らない。
戻れないのではなく、戻らないのだと、アリアベルははっきり思った。
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