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金
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お屋敷のお庭にすこし変わった風が吹いたかなって思うと、緑の木の葉がひゅうと舞った。たすきがけにした鈴の音も、ちりんと鳴って。
葉の数が二枚や三枚だったらきれいなだけでよかった。けれど、風の渦はけして少なくない量の葉を巻き込んで大きくなる。あぶなくはない、けどめんどうな相手──
嵐は一瞬だけ庭の静けさをみだすとかき消えて、あとにはちらばった葉っぱばかりが残った。まだ掃いていないところばかりだったのはさいわい、と思わなくちゃいけない。
だけどなんだか体に力が入らなくて、うしろの木に背中をあずけながら草むらに座りこんでしまった。
日差しが気持ちよすぎるのもよくない。ぽかぽかと照らされていたら、とろんとしてきてしまう。
もともと今日はおやすみだ。明日の修練の時間を長く取りたいと思ったし、めずらしくすることもなかったから落ち葉を掃きにきたけれど、お昼寝なんていうぜいたくもいい。
明日のこのあたりの掃除の当番はわたしだから、とつぜん舞いこんできた突風のあとかたづけをしたほうがいいのだけれど──
ことんとまぶたが落ちる。ああ、このままでは負けてしまいそう。
(姉さまの名前って、なんだっけ?)
眠気のせいか、少年のような聞き覚えのない声が聞こえた気がした。
(決まっているでしょう。ユズリハです)
どうせ空耳だろうと、見知った相手のように答えてしまう。頭の中で、だけれど。
(それは呼称だよね? そうじゃなくてさ、聞きたいのは真名)
真名、なんて自分でさえ忘れかけてしまいそうでいた。もちろん字は分かるけれど、どう読むんだったっけ。ヤカツさまかどなたかが記録していてくれそうなものだけど、じぶんではなかなか思いだせない。
記憶の糸を引いて思いだす。ぽんと答えがあたまに浮かぶと、反射的に唇をうごかしてしまっていた
「刀岐の──」
(あは。教えてくれてありがとう姉さま)
すこしめまいがして、世界の色が反転した、気がする。おだやかだったはずのお庭が、宵闇色に染められた。ただ鈴の音ばかりがりんりんと鳴る。りんりんりんりん、りんりんりんと。もう風も吹いていないのに──
そこでふつと意識がとぎれた。
* * *
主に呼び出されて、がちがちに緊張していた。
そのあたりを見回して思いだす。若くして陰陽道の大家であられるヤカツさまに仕えてしばらく、はれて独りだちをしてすぐの記憶みたい。
わたしの前に運ばれてきたのは──長い紅白ひものついた鈴だった。
きれいな鈴。大きさは親ゆびの関節ぐらいまでかな。おろしたばかりにしか見えないのに、なぜだかなつかしさも感じてしまう。
どんな音を鳴らすのかなとうっとりみとれてた──そしたら、仕えているヤカツさまに名前を呼ばれて。はっとなって頭をあげた。
「気に入ってくれたかい? その鈴は」
くすりと笑うヤカツさまの笑顔がとっても素敵だから──端正な顔立ちのヤカツさまに面とむかって聞かれたら、ただでさえこういうところには慣れないのによけい体がこわばってしまう。緊張したわたしの返事を、ヤカツさまはお立場の違いを感じないくらいおだやかに待ってくれていた。
「わたしにはまだものの価値というものがわかりません。けれど、きれいな音が鳴りそうな鈴だと思いました」
そう答えると、ヤカツさまはおもしろそうにくちびるを引き上げた。またずれた返事をしたかって考えて、はずかしさに体があつくなる。
「相変わらず真面目だねえ。その言葉を聞いて安心したよ。この鈴を預けられそうな者は今ユズリハくらいしかいないからね。私の鈴、預かってくれるかい?」
ヤカツさまはかわらず低くおちつきのある声ではなしてくれるから、わたしも冷静にもどれる。わたしのことを買ってくれているけれど、別に──わたしより向いてる人なんて他にもいただろう。
もちろん、個人的な気持ちなんてどうでもいい。
「はい」
「ではユズリハに預けるとしよう。──そうそう、一つだけ忘れないでいてほしいことがある。どんなことがあっても、決してその鈴の音が聞こえる範囲で真名を口に出してはいけないよ。さもないと──」
「はい」とだけ答えたわたしはもう、ヤカツさまから手渡されたときに鳴った蠱惑的な音しかきこえていなかった。ちりんと何度か聞こえたあとも、頭の中でくりかえし何度も何度もひびきわたるその音しかきこえなくて──
* * *
目が、さめた。
うすぼんやりとした視界に移るのは、どこかのお屋敷のなかのようだった。
日の光がはいってくるからまだ外は明るいのだと思う。けれど、どこが出口なのかはよくわからない。
「姉さま、気がついた?」
背中から声がするから、反射的にばっととびのいた。声の主は数え十九のわたしより若い、男の子のようだった。顔立ちのととのった顔に、背丈はわたしよりすこし高いくらいだろうか。本当に、この世のものとは思えないくらいきれいな顔立ちで──だからわたしは、この子があやかしのたぐいだろうと確信した。
思ったとおり、彼のあたまの上にひょこりと二つ、毛並みのいい耳が生えてきた。犬? ううん、きつねのようだ。山吹色の狩衣よりもっと輝きのある、金色の耳がひよひよとうごいた。
「姉さまは、相変わらず心の中ではよくしゃべるね」
「はい?」
「ああそんな怖い顔しないでよ、あまり読まないようにするからさ。乙女の秘密だもんね」
乙女だとかかまととぶった生き方をしたいわけじゃないけれど、それでなくたって読まれて気持ちいいものじゃない。鬼が出ようが蛇が出ようがせめて無駄死にはしないようにと、神経をはりつめた。
(こんなお庭で、あやかしと出くわすなんて……)
いつものように無意識にたすきがけしているはずの鈴に手をのばして、それがないことに気づく。ヤカツさまからあずかった、その鈴が。
(……!? 落とした? とられた? 命に代えてでも、取り戻さなくては)
「姉さまにとっては大事な鈴だったもんね?」
なぜかうれしそうにしている彼を見ると、気が立ってきてしまう。平常心を保たなくたなくては。きっと彼は、鈴について何か知っている。
「心は読まないって言ったのに、読むのですね」
「読まなくても分かるよ。姉さまは不安なときいつも鈴をにぎるくせがあるからね」
にこやかに返す彼に感じるのは、ただただ困惑ばかりだった。会ったことはない……はず。なのに見透かされている感じ。そういうのが、彼の策なのかもしれない。
「そんなことより、姉さまに食べて欲しいものがあるんだけど」
急に彼の姿を見失って、はっと目を見開く。たしかに近くにいるのはわかる、けれどどこにいるのかはわからなくなった。山川草木鳥獣虫魚の、いずれの気配もいっさいが聞こえない。目も耳もひらいているのに五感を封じられたような奇妙な感覚にさいなまれながら様子をうかがってると──うしろから腕をまわされ。むだにさけんでしまいそうになる。
(一手たりともむだにはできない)
「急急如律令」
これくらい近づいてくれているのは、かえって好都合なはずだった。
「おっと、無駄だよ。ちょっと物騒だもんね、姉さまのまじないはさ」
彼のいうとおり、ここぞというときに仕込んでおいたはずのまじないはまるで発動するようすがなかった。
水干の裏に秘めていたはずの呪符をさぐっても、さっぱりみつからない。
(あまつさえお庭にあやかしが入ってくるのを見逃して、しかもその手に落ちるなんて)
あわてたところで誰が助けに来てくれるわけでもない。だからって、動揺を隠しきれない。男の子の腕にからめとられながら、最期にできることを必死で考える。
「自分の命なのに、姉さまはいつも安売りしすぎだよね」
「この身なんて惜しくはありません」
強がり、なんかじゃなかった。
いったいどんな顔をして帰ればいいんだろう? このあやかしの手にかかってはみんな無事じゃすまないだろうし、無事で済むならそれはそれで──わたしの失態が重いとうことになる。ヤカツさまからあずかった大事な鈴だって、なくしてしまって──
「惜しいんだよ。僕にはさ」
(なにが惜しいのかはしらないけれど、ただ害をなすことが目的ならとっくにそうしていますよね)
この身に代えてでもしりぞけなくてはと頭では考えるものの、重い体は背後の彼をちょうどいい支えとさえ感じてきてしまっている。ううん、彼の望みをとおせばそれで済むのなら、おとなしく様子を見ようと。
交渉事なんてわたし、けして得意じゃない──
そんなことを考えていると、ほおをひんやりとしたものでつつかれた。あまい香りがするから、おかしだっていうことはわかる。
「あれ、お気に召さない?」
どう、出るべき? 食べても平気なものなのか。もう少し考えてからにしようと思ったけれど、ぱらぱらと粉の舞うのを感じ。
「粉がつくからやめてください」
「なら姉さま、口、開けてくれる?」
しぶしぶ口をひらいた。すかさず、ねじれた固形のおかしを押しこまれる。そのおかしをくわえて、のどにつっかえさせないよう気をつけながら口にふくんだ。噛むとぐにぐにとしたおかしは歯切れよく切れて、口のなかにほんわりとした甘みがひろがる。
(あまい……)
ひと掃除したあとだったので少し口さびしいのはあった。そんなに力のいる仕事もなかったけれど、条件反射でなにか食べたくなってたころだったのだと思う。
すべて飲み込んでしまいあとは口のなかに残るかおりばかりを楽しむだけになった。もう少し食べたいかな、と思うと横ですっと戸がひらく音がした。びくりと緊張する。おかしなことに、背中から抱きささえられていることに安心感さえ感じてきてしまっていた。不本意なはずなのに。
ひらいた戸からは、何人かちいさな稚児が入ってきた。男の子なのか女の子なのかよく分からない。これも彼の幻術なのか。その子たちはわたしの前にお膳をならべると、よく見慣れたものから見たことのないようなものまで色とりどりのおかしを皿に盛りたてていった。
いつの間にかわたしは、そのおかしを目で追ってしまっていて──
「姉さまは色気のない食生活を送っているものね」
「一汁三菜が足りていれば不足はありません。天地の神と畑を守ってくださる方々の恵みに満ちていますから」
されど、そうは言ったって目の前に出されれば食べたくはなってしまう。目に入らなければ、欲しいとも思わなかったのに。屋敷でのごはんは質素なものだけれど、足りないなんて思ったことはなかったのに。
また、背中の彼が食べさせようとしてくれるんじゃないかって、待ってしまう。
もう、彼がおかしを運んでくることはなかった。
いつからか、部屋の外から筝の音が聴こえていた。
ゆったりとした旋律が流れていた。
時間の流れをゆるやかにするような心地よい調子に、このまままどろんでしまえそう、なんて思って──
なのに、穏やかだった箏曲は急に激しくなった。おなかを揺らすような箏曲の勢いにあまり落ち着いてもいられなくって、いつもなら鈴にとどくはずのところに手をのばしてしまう。鈴に届くはずの手は──背中の彼につかまえられた。
「……!」
手をつかまえられたのには驚いたけれど、ただ、驚いたというだけで。なぜだか懐かしいという気さえしてしまっていた。何をされるでもなく、そのまま手はほどける。でも、彼の腕からはまだ抜けさせてくれそうにない。
「姉さまのために京じゅうから集めてきたんだ。少しでも食べてってよ。大丈夫、ここは現世とは違うから、お腹には溜まらないしね」
「あなたがそうおっしゃるなら、いただきます」
これ以上こらえるなんてできなくて、彼の言葉をいいわけにして一番近いおさらに手をのばした。
「僕はフヨウだよ。ユズリハ姉さま」
「フヨウ……」
はたと手が止まる。聞いたことのないはずの名前なのに、前から知っていたような気がする。それよりも、フヨウの男性にしてはすこし高めの男の子の声って、よく聴いた音色に似ている気がした。
また、おなじところに手をのばす。おなじように、フヨウににぎられた。
「あなただったのですね」
背中から、それまでよりも深くフヨウに腕を回される。なくしたはずの鈴のひもより、もっと確かにからまってくる。ううん、なくしてなんていなかったことに、もう気づいていた。
「ユズリハ姉さまが大事にしてくれていた鈴、それが僕だったんだ。現世じゃ見てることしかできなかったから、こうして逢えてうれしいよ。神隠ししてでも逢いたかったんだ、姉さまに。姉さまのこと、大好きだからね」
(大事にしていたのは、あなたじゃありませんでした)
でもそんなことは言えない。言わなくても、フヨウは勝手に心を読んでしまっているかもしれない。だからできるだけ何も考えないようにしようとして、またくせでフヨウの手をにぎる。だから、にぎったフヨウのことを意識して、そして同じことを考えてしまう。
ただ、抱きしめてくれてる腕だけがあたたかい。鈴と男の子の手じゃぜんぜん感覚がちがうけれど、すこし冷ややかな体温にいつもの彼のことを思いださせられた。ずっと大事にしてきたということだけが、本当のことだった。
「姉さまが欲しかったのはこれでしょ?」
とろうとしていた干菓子の香りがする。自分でさえわすれていた、さっきまで食べようとしていた干菓子の。ちょっと口をあけると、フヨウがひと口大の干菓子を食べさせてくれた。ほんのり甘い味わいが口のなかではじけた。でもその味はひとくち分だけはじけて散ってしまう。
「物足りなさそうな顔してないでよ」
「してません」
「お腹には溜まらないし、いくらでも食べていいんだからさ」
そしてまたフヨウの手から干菓子がはこばれる。食べる。食べてまた口がさみしくなってきたら、ちょうどいい頃合いにフヨウが次のおかしをとってきて──
ここちよかった。欲しいと言葉に出さなくても、たべたくなった頃合いにおかしを取ってきてくれるのが。何も言わなくても、だいたい思うようになることが。息をはくようにおかしを口にしてしまう。ほかには息しかしていない。
心地よくて。
心地がよすぎるから。
──このままじゃのみこまれると思った。
(したいこと。してほしいこと。そういうことは、自分で言葉にしないといけないのに)
でもそんな考えも筝の音色のなかに溶けこんで消えていってしまう。ほどよく思考を乱して、それでいて軽くしびれるような旋律を心いっぱいに汲まれてしまう。フヨウに背中をあずけながら、筝曲にまどろんでおかしばかりを口にしていた。
葉の数が二枚や三枚だったらきれいなだけでよかった。けれど、風の渦はけして少なくない量の葉を巻き込んで大きくなる。あぶなくはない、けどめんどうな相手──
嵐は一瞬だけ庭の静けさをみだすとかき消えて、あとにはちらばった葉っぱばかりが残った。まだ掃いていないところばかりだったのはさいわい、と思わなくちゃいけない。
だけどなんだか体に力が入らなくて、うしろの木に背中をあずけながら草むらに座りこんでしまった。
日差しが気持ちよすぎるのもよくない。ぽかぽかと照らされていたら、とろんとしてきてしまう。
もともと今日はおやすみだ。明日の修練の時間を長く取りたいと思ったし、めずらしくすることもなかったから落ち葉を掃きにきたけれど、お昼寝なんていうぜいたくもいい。
明日のこのあたりの掃除の当番はわたしだから、とつぜん舞いこんできた突風のあとかたづけをしたほうがいいのだけれど──
ことんとまぶたが落ちる。ああ、このままでは負けてしまいそう。
(姉さまの名前って、なんだっけ?)
眠気のせいか、少年のような聞き覚えのない声が聞こえた気がした。
(決まっているでしょう。ユズリハです)
どうせ空耳だろうと、見知った相手のように答えてしまう。頭の中で、だけれど。
(それは呼称だよね? そうじゃなくてさ、聞きたいのは真名)
真名、なんて自分でさえ忘れかけてしまいそうでいた。もちろん字は分かるけれど、どう読むんだったっけ。ヤカツさまかどなたかが記録していてくれそうなものだけど、じぶんではなかなか思いだせない。
記憶の糸を引いて思いだす。ぽんと答えがあたまに浮かぶと、反射的に唇をうごかしてしまっていた
「刀岐の──」
(あは。教えてくれてありがとう姉さま)
すこしめまいがして、世界の色が反転した、気がする。おだやかだったはずのお庭が、宵闇色に染められた。ただ鈴の音ばかりがりんりんと鳴る。りんりんりんりん、りんりんりんと。もう風も吹いていないのに──
そこでふつと意識がとぎれた。
* * *
主に呼び出されて、がちがちに緊張していた。
そのあたりを見回して思いだす。若くして陰陽道の大家であられるヤカツさまに仕えてしばらく、はれて独りだちをしてすぐの記憶みたい。
わたしの前に運ばれてきたのは──長い紅白ひものついた鈴だった。
きれいな鈴。大きさは親ゆびの関節ぐらいまでかな。おろしたばかりにしか見えないのに、なぜだかなつかしさも感じてしまう。
どんな音を鳴らすのかなとうっとりみとれてた──そしたら、仕えているヤカツさまに名前を呼ばれて。はっとなって頭をあげた。
「気に入ってくれたかい? その鈴は」
くすりと笑うヤカツさまの笑顔がとっても素敵だから──端正な顔立ちのヤカツさまに面とむかって聞かれたら、ただでさえこういうところには慣れないのによけい体がこわばってしまう。緊張したわたしの返事を、ヤカツさまはお立場の違いを感じないくらいおだやかに待ってくれていた。
「わたしにはまだものの価値というものがわかりません。けれど、きれいな音が鳴りそうな鈴だと思いました」
そう答えると、ヤカツさまはおもしろそうにくちびるを引き上げた。またずれた返事をしたかって考えて、はずかしさに体があつくなる。
「相変わらず真面目だねえ。その言葉を聞いて安心したよ。この鈴を預けられそうな者は今ユズリハくらいしかいないからね。私の鈴、預かってくれるかい?」
ヤカツさまはかわらず低くおちつきのある声ではなしてくれるから、わたしも冷静にもどれる。わたしのことを買ってくれているけれど、別に──わたしより向いてる人なんて他にもいただろう。
もちろん、個人的な気持ちなんてどうでもいい。
「はい」
「ではユズリハに預けるとしよう。──そうそう、一つだけ忘れないでいてほしいことがある。どんなことがあっても、決してその鈴の音が聞こえる範囲で真名を口に出してはいけないよ。さもないと──」
「はい」とだけ答えたわたしはもう、ヤカツさまから手渡されたときに鳴った蠱惑的な音しかきこえていなかった。ちりんと何度か聞こえたあとも、頭の中でくりかえし何度も何度もひびきわたるその音しかきこえなくて──
* * *
目が、さめた。
うすぼんやりとした視界に移るのは、どこかのお屋敷のなかのようだった。
日の光がはいってくるからまだ外は明るいのだと思う。けれど、どこが出口なのかはよくわからない。
「姉さま、気がついた?」
背中から声がするから、反射的にばっととびのいた。声の主は数え十九のわたしより若い、男の子のようだった。顔立ちのととのった顔に、背丈はわたしよりすこし高いくらいだろうか。本当に、この世のものとは思えないくらいきれいな顔立ちで──だからわたしは、この子があやかしのたぐいだろうと確信した。
思ったとおり、彼のあたまの上にひょこりと二つ、毛並みのいい耳が生えてきた。犬? ううん、きつねのようだ。山吹色の狩衣よりもっと輝きのある、金色の耳がひよひよとうごいた。
「姉さまは、相変わらず心の中ではよくしゃべるね」
「はい?」
「ああそんな怖い顔しないでよ、あまり読まないようにするからさ。乙女の秘密だもんね」
乙女だとかかまととぶった生き方をしたいわけじゃないけれど、それでなくたって読まれて気持ちいいものじゃない。鬼が出ようが蛇が出ようがせめて無駄死にはしないようにと、神経をはりつめた。
(こんなお庭で、あやかしと出くわすなんて……)
いつものように無意識にたすきがけしているはずの鈴に手をのばして、それがないことに気づく。ヤカツさまからあずかった、その鈴が。
(……!? 落とした? とられた? 命に代えてでも、取り戻さなくては)
「姉さまにとっては大事な鈴だったもんね?」
なぜかうれしそうにしている彼を見ると、気が立ってきてしまう。平常心を保たなくたなくては。きっと彼は、鈴について何か知っている。
「心は読まないって言ったのに、読むのですね」
「読まなくても分かるよ。姉さまは不安なときいつも鈴をにぎるくせがあるからね」
にこやかに返す彼に感じるのは、ただただ困惑ばかりだった。会ったことはない……はず。なのに見透かされている感じ。そういうのが、彼の策なのかもしれない。
「そんなことより、姉さまに食べて欲しいものがあるんだけど」
急に彼の姿を見失って、はっと目を見開く。たしかに近くにいるのはわかる、けれどどこにいるのかはわからなくなった。山川草木鳥獣虫魚の、いずれの気配もいっさいが聞こえない。目も耳もひらいているのに五感を封じられたような奇妙な感覚にさいなまれながら様子をうかがってると──うしろから腕をまわされ。むだにさけんでしまいそうになる。
(一手たりともむだにはできない)
「急急如律令」
これくらい近づいてくれているのは、かえって好都合なはずだった。
「おっと、無駄だよ。ちょっと物騒だもんね、姉さまのまじないはさ」
彼のいうとおり、ここぞというときに仕込んでおいたはずのまじないはまるで発動するようすがなかった。
水干の裏に秘めていたはずの呪符をさぐっても、さっぱりみつからない。
(あまつさえお庭にあやかしが入ってくるのを見逃して、しかもその手に落ちるなんて)
あわてたところで誰が助けに来てくれるわけでもない。だからって、動揺を隠しきれない。男の子の腕にからめとられながら、最期にできることを必死で考える。
「自分の命なのに、姉さまはいつも安売りしすぎだよね」
「この身なんて惜しくはありません」
強がり、なんかじゃなかった。
いったいどんな顔をして帰ればいいんだろう? このあやかしの手にかかってはみんな無事じゃすまないだろうし、無事で済むならそれはそれで──わたしの失態が重いとうことになる。ヤカツさまからあずかった大事な鈴だって、なくしてしまって──
「惜しいんだよ。僕にはさ」
(なにが惜しいのかはしらないけれど、ただ害をなすことが目的ならとっくにそうしていますよね)
この身に代えてでもしりぞけなくてはと頭では考えるものの、重い体は背後の彼をちょうどいい支えとさえ感じてきてしまっている。ううん、彼の望みをとおせばそれで済むのなら、おとなしく様子を見ようと。
交渉事なんてわたし、けして得意じゃない──
そんなことを考えていると、ほおをひんやりとしたものでつつかれた。あまい香りがするから、おかしだっていうことはわかる。
「あれ、お気に召さない?」
どう、出るべき? 食べても平気なものなのか。もう少し考えてからにしようと思ったけれど、ぱらぱらと粉の舞うのを感じ。
「粉がつくからやめてください」
「なら姉さま、口、開けてくれる?」
しぶしぶ口をひらいた。すかさず、ねじれた固形のおかしを押しこまれる。そのおかしをくわえて、のどにつっかえさせないよう気をつけながら口にふくんだ。噛むとぐにぐにとしたおかしは歯切れよく切れて、口のなかにほんわりとした甘みがひろがる。
(あまい……)
ひと掃除したあとだったので少し口さびしいのはあった。そんなに力のいる仕事もなかったけれど、条件反射でなにか食べたくなってたころだったのだと思う。
すべて飲み込んでしまいあとは口のなかに残るかおりばかりを楽しむだけになった。もう少し食べたいかな、と思うと横ですっと戸がひらく音がした。びくりと緊張する。おかしなことに、背中から抱きささえられていることに安心感さえ感じてきてしまっていた。不本意なはずなのに。
ひらいた戸からは、何人かちいさな稚児が入ってきた。男の子なのか女の子なのかよく分からない。これも彼の幻術なのか。その子たちはわたしの前にお膳をならべると、よく見慣れたものから見たことのないようなものまで色とりどりのおかしを皿に盛りたてていった。
いつの間にかわたしは、そのおかしを目で追ってしまっていて──
「姉さまは色気のない食生活を送っているものね」
「一汁三菜が足りていれば不足はありません。天地の神と畑を守ってくださる方々の恵みに満ちていますから」
されど、そうは言ったって目の前に出されれば食べたくはなってしまう。目に入らなければ、欲しいとも思わなかったのに。屋敷でのごはんは質素なものだけれど、足りないなんて思ったことはなかったのに。
また、背中の彼が食べさせようとしてくれるんじゃないかって、待ってしまう。
もう、彼がおかしを運んでくることはなかった。
いつからか、部屋の外から筝の音が聴こえていた。
ゆったりとした旋律が流れていた。
時間の流れをゆるやかにするような心地よい調子に、このまままどろんでしまえそう、なんて思って──
なのに、穏やかだった箏曲は急に激しくなった。おなかを揺らすような箏曲の勢いにあまり落ち着いてもいられなくって、いつもなら鈴にとどくはずのところに手をのばしてしまう。鈴に届くはずの手は──背中の彼につかまえられた。
「……!」
手をつかまえられたのには驚いたけれど、ただ、驚いたというだけで。なぜだか懐かしいという気さえしてしまっていた。何をされるでもなく、そのまま手はほどける。でも、彼の腕からはまだ抜けさせてくれそうにない。
「姉さまのために京じゅうから集めてきたんだ。少しでも食べてってよ。大丈夫、ここは現世とは違うから、お腹には溜まらないしね」
「あなたがそうおっしゃるなら、いただきます」
これ以上こらえるなんてできなくて、彼の言葉をいいわけにして一番近いおさらに手をのばした。
「僕はフヨウだよ。ユズリハ姉さま」
「フヨウ……」
はたと手が止まる。聞いたことのないはずの名前なのに、前から知っていたような気がする。それよりも、フヨウの男性にしてはすこし高めの男の子の声って、よく聴いた音色に似ている気がした。
また、おなじところに手をのばす。おなじように、フヨウににぎられた。
「あなただったのですね」
背中から、それまでよりも深くフヨウに腕を回される。なくしたはずの鈴のひもより、もっと確かにからまってくる。ううん、なくしてなんていなかったことに、もう気づいていた。
「ユズリハ姉さまが大事にしてくれていた鈴、それが僕だったんだ。現世じゃ見てることしかできなかったから、こうして逢えてうれしいよ。神隠ししてでも逢いたかったんだ、姉さまに。姉さまのこと、大好きだからね」
(大事にしていたのは、あなたじゃありませんでした)
でもそんなことは言えない。言わなくても、フヨウは勝手に心を読んでしまっているかもしれない。だからできるだけ何も考えないようにしようとして、またくせでフヨウの手をにぎる。だから、にぎったフヨウのことを意識して、そして同じことを考えてしまう。
ただ、抱きしめてくれてる腕だけがあたたかい。鈴と男の子の手じゃぜんぜん感覚がちがうけれど、すこし冷ややかな体温にいつもの彼のことを思いださせられた。ずっと大事にしてきたということだけが、本当のことだった。
「姉さまが欲しかったのはこれでしょ?」
とろうとしていた干菓子の香りがする。自分でさえわすれていた、さっきまで食べようとしていた干菓子の。ちょっと口をあけると、フヨウがひと口大の干菓子を食べさせてくれた。ほんのり甘い味わいが口のなかではじけた。でもその味はひとくち分だけはじけて散ってしまう。
「物足りなさそうな顔してないでよ」
「してません」
「お腹には溜まらないし、いくらでも食べていいんだからさ」
そしてまたフヨウの手から干菓子がはこばれる。食べる。食べてまた口がさみしくなってきたら、ちょうどいい頃合いにフヨウが次のおかしをとってきて──
ここちよかった。欲しいと言葉に出さなくても、たべたくなった頃合いにおかしを取ってきてくれるのが。何も言わなくても、だいたい思うようになることが。息をはくようにおかしを口にしてしまう。ほかには息しかしていない。
心地よくて。
心地がよすぎるから。
──このままじゃのみこまれると思った。
(したいこと。してほしいこと。そういうことは、自分で言葉にしないといけないのに)
でもそんな考えも筝の音色のなかに溶けこんで消えていってしまう。ほどよく思考を乱して、それでいて軽くしびれるような旋律を心いっぱいに汲まれてしまう。フヨウに背中をあずけながら、筝曲にまどろんでおかしばかりを口にしていた。
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