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~第六章 里菜の気持ち~
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翌日の五コマ終わりから『恋唄』の手話コーラスの練習が始まった。
軽快感溢れるサウンドに乗せられた手話。まずは、その手話を覚えるところからだ。
『なぁ、君に伝えたいんだ
君のことが好きだなんて言うのも
僕は照れるけれど』
冒頭の三行の歌詞。
「まず、曲の始まりにはみんな顔を下に向けてるの。そして、前奏が終わり次第、顔を上げて『あなた』の手話。『君に伝えたい』の部分で『伝える』の手話。『んだ』で、『好き』の手話。この手話は、『~したい』って意味も表すのよ。で、次の節に進むまで、曲が途切れる瞬間に『から』の手話」
『から』の手話は意訳で、手話コーラスではリズムを表現するために歌詞にないものを付け加えたり、逆にあるものを省いたりするのだそうだ。沙羅は、手を動かしながら説明する。
三人によって予めつけられた、歌詞を表現する手話。冒頭三行を覚えるだけでも、手話初心者の僕には中々難しい。
さらに、手話だけでなく口の動き(口話)、それに伴う顔の表情もつけなければならない。
「まずは、他のことは考えず、手話を覚えることが先決よ」
四苦八苦している僕を見て、三人は笑う。
でも、やはり焦ってしまう。
そんな時、ふと沙羅は顔を上げて廊下の方を見た。
「ちょっと失礼! トイレ行ってくるわ。練習、続けててね」
笑顔で立ち去る。
いや、レディーがトイレ行くなんて軽げに言うなよ。
そう思ったが、僕達は練習に集中することにした。
*
(手話コーラス否定派のあなたが練習を覗きに来るなんて、どういう風の吹きまわし?)
沙羅は廊下から立ち去ろうとした里菜の肩を叩き、悪戯な笑顔で引き留めて手話と口話で話した。
(別に……自己満足の手話コーラスが少しは改善されたのかなと思って)
里菜は、少し戸惑いながらも手話と口話で話す。すると、沙羅は自信満々の笑みを浮かべた。
(私が部長になってからは、このサークル、〈歩み〉では自己満足の手話コーラスはやっていない。〈本当の手話コーラス〉を目指している。誰の心も震動させる、〈本当の手話コーラス〉よ。だから、今年の親交祭の手話コーラスを見に来たら、あなたの考えも変わると思うわ)
(誰の心も震動させる……)
(そう。あなた、〈あの子〉が気になって来たんでしょ?)
(違うわよ)
里菜は赤くなり否定する。
(私は、〈音楽〉が嫌い。そのことに変わりはない。私には〈音〉が聞こえないから)
やはり、意固地に眉間に皺を寄せる。
(頑固ねぇ)
沙羅は溜息を吐く。
(でも、〈あの子〉の手話コーラスだけでも見に来てやれば? きっと、〈本当の手話コーラス〉を見ることができるわよ)
沙羅は、真剣な眼差しを向ける。
里菜は、『無言で』その場から立ち去った。
それは、僕達が練習に集中している間に行なわれた、僕の知らないやりとりだった。
*
「さてと。うちの班は男子二人、女子二人。二つのペアに分けないとね」
『トイレ』から帰ってきた沙羅は、いつも通り、パワフルに言った。
「ペア?」
「そう」
沙羅は、手話をつけながら説明する。
「実際のステージでの立ち位置。それは、ペア二人ずつ、右と左に分かれるの。『恋唄』は、男性が女性に気持ちを伝える歌。だから、男と女のペアを作った方がすんなりと入れる」
僕は、手話を見ながらふむふむと聞く。
「で、ステージの見栄え的にも、身長は近い者同士がペアになった方がいい。だから、割と長身の私はパンダと」
沙羅がパンダを見ると、パンダは右手でV字を作った。
「たっくんはチェリーとペアになるのがいいと思う」
僕がチェリーを見ると、チェリーはやはり赤くなり、俯いた。
「これから本番まで、空きコマにはそれぞれのペアで自己練習をやることになる。だから、たっくん。チェリーと仲良くね」
沙羅はウィンクを送る。
(仲良く、ったって……)
僕がチェリーに
「よろしくお願いします」
と言うと、チェリーは真っ赤になり小さくなった。
(大丈夫なんだろうか……)
少し不安を感じた。
「『真面目に』って手話はどうやるんだっけ? あ、そうそう、それ」
休み時間。
僕は里香に『恋唄』の歌詞の手話で、忘れてしまった部分を聞いていた。
「随分、やる気になってるじゃない」
休み時間にまで練習する僕を、里香は呆れ顔で見る。
「だって……絶対にあの人に『音楽』の素晴らしさを知ってもらうんだ」
「徒労に終わらなければいいけどね」
里香は小さく呟く。
「えっ? 何か言った?」
「いいえ。その『心を震動させる音楽』を伝えられるように、頑張りなよ」
「うん! あ、もうすぐ空きコマの自主練の時間だ。じゃあ里香、ありがとう!」
「熱くなってるわねぇ」
自主練のために部室へ向かう僕を見ながら里香は呟く。
「でも……方向は違っても、聾者のために熱くなるって好きだな。私からも、お姉ちゃんを説得してみるかな」
里香はそう言い、微笑んだのだった。
手話サークル『歩み』の部室は、社福棟から離れたプレハブの建物の二階の一室にある。僕が部室に入ると、チェリーは一人、端っこにちょこんと座っていて『こんにちは』の手話をした。
僕も
「こんにちは」
と言いながら手話をすると、赤くなって俯く。
気まずい沈黙が流れる……。
「そ、そうだ。僕、大体の手話を覚えてきたんです。見て下さい」
僕はCDを流す。覚えてきた手話をやって、チェリーに見せた。
チェリーは、目を丸くする。
右手を少し曲げて顔の横に添え、手首を使って前に出した。『凄い』という手話らしい。
というか、この人、手話でしか話すことができないんだろうか?
そう思っていたところに、
「でも、タイミング……」
初めて、この人の声を聞いたような気がした。
「タイミングが全然違う……」
「タイミング?」
僕が聞き返すと、チェリーは真っ赤な顔で頷き、部室のDVDプレイヤーに一つのDVDを入れた。部室のテレビ画面に、ステージが映される。
「これ……去年の手話コーラス……」
僕は見る。
ステージ上には、去年の、当時一回生だったチェリーと思われる人も映っていて、自分の見たことのない、もう引退した先輩と思われる人も映っていたのだが……
「バラバラ……」
そう。
同じ曲を表現するのに、ステージ上の演者の動き、タイミング、その全てを自分達の好きなように演じているかに見えた。
バラバラだったのだ。
これでは、聾者はどれが『本当の音楽』を表現しているのか分からない。
「これが、去年までの……『自己満足』の手話コーラス」
チェリーは、やはり赤いが、いつになくしっかりとした口調で言う。
「でも……部長が沙羅さんになってからは、『本当の手話コーラス』をみんなで作り上げる。だから……タイミングも動きも、揃えることが大事なの」
恥ずかしがりやのチェリーの中にも、パワフルな沙羅と同じく、確固たる意志を感じた気がした。
「ありがとうございます! 僕に、練習をつけて下さい!」
僕が力強く言うと、チェリーは恥ずかしさは吹き飛んだのか、眩しい笑顔を浮かべた。
CDをかけ、軽快なサウンドが流れ出す。
チェリーの、部室に入った時とはまるで別人なパワフルな動き。それに必死についていきながら、僕の中でのこの人に対する不安は吹き飛んだ。
これから本番までにこの人に追いつく、いや、追い越すくらいの気持ちで練習しよう。そう思ったのだった。
翌日。僕と里香は里菜のノートテイクをしていた。
僕も、最初に比べると随分まともにテイクができるようになってきた。先生の話の要所だけを瞬時に簡潔な言葉に変換して書く。
それと、里菜の表情。
分かり辛そうな表情をした時には、補足の説明を入れる。
そうこうしているうちに講義が終わり、里菜は溢れんばかりに白い歯を見せて『ありがとう』の手話をした。
僕は、ドキっとする。
沙羅から五コマ終わりの練習中に、里菜のことで何度もいじられる。その所為で、不必要に意識してしまう。
そのむず痒さを押し殺し、僕はノートの続きに書いた。
『前も書いたのですが……親交祭の手話コーラス、見に来て下さい。僕は恋歌をします』
ノートを見た後、里菜は僕を見つめる。
『音楽は、鼓膜を震動させるだけじゃない。心を震動させるんです。僕は、手話サークルの手話コーラスで、里菜さんの心を揺さぶることができると信じています』
里菜は、クスっと笑って僕の続きに書く。
『ありがとう。私も、ちょっと頑固すぎたかなぁと思ってた。親交祭、頑張って。見に行くわ。だから、絶対に、私の心を揺り動かしてね』
書いて、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
つい口で言ってしまった僕は、慌てて『ありがとう』の手話をした。
そんな僕達の様子を見ていた里香も、柔らかく微笑んでいた。
軽快感溢れるサウンドに乗せられた手話。まずは、その手話を覚えるところからだ。
『なぁ、君に伝えたいんだ
君のことが好きだなんて言うのも
僕は照れるけれど』
冒頭の三行の歌詞。
「まず、曲の始まりにはみんな顔を下に向けてるの。そして、前奏が終わり次第、顔を上げて『あなた』の手話。『君に伝えたい』の部分で『伝える』の手話。『んだ』で、『好き』の手話。この手話は、『~したい』って意味も表すのよ。で、次の節に進むまで、曲が途切れる瞬間に『から』の手話」
『から』の手話は意訳で、手話コーラスではリズムを表現するために歌詞にないものを付け加えたり、逆にあるものを省いたりするのだそうだ。沙羅は、手を動かしながら説明する。
三人によって予めつけられた、歌詞を表現する手話。冒頭三行を覚えるだけでも、手話初心者の僕には中々難しい。
さらに、手話だけでなく口の動き(口話)、それに伴う顔の表情もつけなければならない。
「まずは、他のことは考えず、手話を覚えることが先決よ」
四苦八苦している僕を見て、三人は笑う。
でも、やはり焦ってしまう。
そんな時、ふと沙羅は顔を上げて廊下の方を見た。
「ちょっと失礼! トイレ行ってくるわ。練習、続けててね」
笑顔で立ち去る。
いや、レディーがトイレ行くなんて軽げに言うなよ。
そう思ったが、僕達は練習に集中することにした。
*
(手話コーラス否定派のあなたが練習を覗きに来るなんて、どういう風の吹きまわし?)
沙羅は廊下から立ち去ろうとした里菜の肩を叩き、悪戯な笑顔で引き留めて手話と口話で話した。
(別に……自己満足の手話コーラスが少しは改善されたのかなと思って)
里菜は、少し戸惑いながらも手話と口話で話す。すると、沙羅は自信満々の笑みを浮かべた。
(私が部長になってからは、このサークル、〈歩み〉では自己満足の手話コーラスはやっていない。〈本当の手話コーラス〉を目指している。誰の心も震動させる、〈本当の手話コーラス〉よ。だから、今年の親交祭の手話コーラスを見に来たら、あなたの考えも変わると思うわ)
(誰の心も震動させる……)
(そう。あなた、〈あの子〉が気になって来たんでしょ?)
(違うわよ)
里菜は赤くなり否定する。
(私は、〈音楽〉が嫌い。そのことに変わりはない。私には〈音〉が聞こえないから)
やはり、意固地に眉間に皺を寄せる。
(頑固ねぇ)
沙羅は溜息を吐く。
(でも、〈あの子〉の手話コーラスだけでも見に来てやれば? きっと、〈本当の手話コーラス〉を見ることができるわよ)
沙羅は、真剣な眼差しを向ける。
里菜は、『無言で』その場から立ち去った。
それは、僕達が練習に集中している間に行なわれた、僕の知らないやりとりだった。
*
「さてと。うちの班は男子二人、女子二人。二つのペアに分けないとね」
『トイレ』から帰ってきた沙羅は、いつも通り、パワフルに言った。
「ペア?」
「そう」
沙羅は、手話をつけながら説明する。
「実際のステージでの立ち位置。それは、ペア二人ずつ、右と左に分かれるの。『恋唄』は、男性が女性に気持ちを伝える歌。だから、男と女のペアを作った方がすんなりと入れる」
僕は、手話を見ながらふむふむと聞く。
「で、ステージの見栄え的にも、身長は近い者同士がペアになった方がいい。だから、割と長身の私はパンダと」
沙羅がパンダを見ると、パンダは右手でV字を作った。
「たっくんはチェリーとペアになるのがいいと思う」
僕がチェリーを見ると、チェリーはやはり赤くなり、俯いた。
「これから本番まで、空きコマにはそれぞれのペアで自己練習をやることになる。だから、たっくん。チェリーと仲良くね」
沙羅はウィンクを送る。
(仲良く、ったって……)
僕がチェリーに
「よろしくお願いします」
と言うと、チェリーは真っ赤になり小さくなった。
(大丈夫なんだろうか……)
少し不安を感じた。
「『真面目に』って手話はどうやるんだっけ? あ、そうそう、それ」
休み時間。
僕は里香に『恋唄』の歌詞の手話で、忘れてしまった部分を聞いていた。
「随分、やる気になってるじゃない」
休み時間にまで練習する僕を、里香は呆れ顔で見る。
「だって……絶対にあの人に『音楽』の素晴らしさを知ってもらうんだ」
「徒労に終わらなければいいけどね」
里香は小さく呟く。
「えっ? 何か言った?」
「いいえ。その『心を震動させる音楽』を伝えられるように、頑張りなよ」
「うん! あ、もうすぐ空きコマの自主練の時間だ。じゃあ里香、ありがとう!」
「熱くなってるわねぇ」
自主練のために部室へ向かう僕を見ながら里香は呟く。
「でも……方向は違っても、聾者のために熱くなるって好きだな。私からも、お姉ちゃんを説得してみるかな」
里香はそう言い、微笑んだのだった。
手話サークル『歩み』の部室は、社福棟から離れたプレハブの建物の二階の一室にある。僕が部室に入ると、チェリーは一人、端っこにちょこんと座っていて『こんにちは』の手話をした。
僕も
「こんにちは」
と言いながら手話をすると、赤くなって俯く。
気まずい沈黙が流れる……。
「そ、そうだ。僕、大体の手話を覚えてきたんです。見て下さい」
僕はCDを流す。覚えてきた手話をやって、チェリーに見せた。
チェリーは、目を丸くする。
右手を少し曲げて顔の横に添え、手首を使って前に出した。『凄い』という手話らしい。
というか、この人、手話でしか話すことができないんだろうか?
そう思っていたところに、
「でも、タイミング……」
初めて、この人の声を聞いたような気がした。
「タイミングが全然違う……」
「タイミング?」
僕が聞き返すと、チェリーは真っ赤な顔で頷き、部室のDVDプレイヤーに一つのDVDを入れた。部室のテレビ画面に、ステージが映される。
「これ……去年の手話コーラス……」
僕は見る。
ステージ上には、去年の、当時一回生だったチェリーと思われる人も映っていて、自分の見たことのない、もう引退した先輩と思われる人も映っていたのだが……
「バラバラ……」
そう。
同じ曲を表現するのに、ステージ上の演者の動き、タイミング、その全てを自分達の好きなように演じているかに見えた。
バラバラだったのだ。
これでは、聾者はどれが『本当の音楽』を表現しているのか分からない。
「これが、去年までの……『自己満足』の手話コーラス」
チェリーは、やはり赤いが、いつになくしっかりとした口調で言う。
「でも……部長が沙羅さんになってからは、『本当の手話コーラス』をみんなで作り上げる。だから……タイミングも動きも、揃えることが大事なの」
恥ずかしがりやのチェリーの中にも、パワフルな沙羅と同じく、確固たる意志を感じた気がした。
「ありがとうございます! 僕に、練習をつけて下さい!」
僕が力強く言うと、チェリーは恥ずかしさは吹き飛んだのか、眩しい笑顔を浮かべた。
CDをかけ、軽快なサウンドが流れ出す。
チェリーの、部室に入った時とはまるで別人なパワフルな動き。それに必死についていきながら、僕の中でのこの人に対する不安は吹き飛んだ。
これから本番までにこの人に追いつく、いや、追い越すくらいの気持ちで練習しよう。そう思ったのだった。
翌日。僕と里香は里菜のノートテイクをしていた。
僕も、最初に比べると随分まともにテイクができるようになってきた。先生の話の要所だけを瞬時に簡潔な言葉に変換して書く。
それと、里菜の表情。
分かり辛そうな表情をした時には、補足の説明を入れる。
そうこうしているうちに講義が終わり、里菜は溢れんばかりに白い歯を見せて『ありがとう』の手話をした。
僕は、ドキっとする。
沙羅から五コマ終わりの練習中に、里菜のことで何度もいじられる。その所為で、不必要に意識してしまう。
そのむず痒さを押し殺し、僕はノートの続きに書いた。
『前も書いたのですが……親交祭の手話コーラス、見に来て下さい。僕は恋歌をします』
ノートを見た後、里菜は僕を見つめる。
『音楽は、鼓膜を震動させるだけじゃない。心を震動させるんです。僕は、手話サークルの手話コーラスで、里菜さんの心を揺さぶることができると信じています』
里菜は、クスっと笑って僕の続きに書く。
『ありがとう。私も、ちょっと頑固すぎたかなぁと思ってた。親交祭、頑張って。見に行くわ。だから、絶対に、私の心を揺り動かしてね』
書いて、柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
つい口で言ってしまった僕は、慌てて『ありがとう』の手話をした。
そんな僕達の様子を見ていた里香も、柔らかく微笑んでいた。
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