虚ろな光と揺るがぬ輝き

新宮シロ

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4 ~灰色の朝、涙、春の風~

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 ピピピピピッ……。
 朝の日差しが街の温度を上げている中、光の届いていない真っ暗な部屋の中でそれは鳴った。
 室内にある物の殆どが黒色。カーテンでさえ黒に染まった部屋。どこか無機質な感じがする空間。彼は施設での生活を経て十年以上この家に住んでいる。
 ピピピピピッ……。
 家主、天崎来夢の瞳は天井を映している。昨日、三村聡子に抱きしめられた感覚は既に消えていた。だがその瞬間感じていた心の暖かさはまだ残っている。
「母さん…」無意識に口から溢れた。その言葉は今まで認めまいとしていた自分の気持ちだと瞬時に理解した。
 十八年前、天崎家の長男として生まれた。上には当時三歳の姉がいたらしい。「らしい」というのはその姉が両親と共に、来夢の出生から数日後に亡くなっているからだ。父と母の遺体は見つかっているが姉の遺体は見つかっていない。来夢自身には特に目立った外傷は見られなかったが、保護されすぐに病院で検査の日々が始まった。異常も無く後遺症の心配も見られなかった。三年経つと退院を告げられ近くの養護施設で生活するようになった。
 それから数年が過ぎた頃に両親と姉の写真を見せてもらったことがある。そこに写っていたのは幸せそうに微笑む父母と手を繋ぐ少女はパッチリした目の快活そうな子だった。
 来夢はそれだけを確認するとすぐにアルバムを閉じ両親を含め家族の名前を聞くこともなかった。理由はただ怖かったのだ。三人の死には間違いなく自分自身が関係している。自分が死なせた三人を家族と思うことはおろか、名前すら知ってはいけない。その資格がない。そう、自分は生まれてはいけなかった命なのだろう。幼いながらもそうだと悟ってしまった少年は罪滅ぼしのつもりで何度か命を絶とうとした。最初の方は施設にある大きな遊具から飛び降りたり、浴槽で溺死を試みた。だがどれも軽傷で済み、溺死に至ってはその苦しさに絶えられなかった。数ヶ月間、幼な子が思いつく限りの方法で自殺を試みては失敗に終わってしまった。その最後の手段として飛び降り自殺を選んだ。施設の屋上に登り、そこから飛び降りる。シンプルに、流れに身を任せれば落下して死ねる。
 夜。施設内にいる他の子も、教員の先生、駐在の役員も殆どが寝静まった頃。来夢はゆっくりと布団から出た。夜間警備のスタッフを警戒しつつ廊下を抜け、階段を上った。屋上の扉の鍵が壊れているのは施設内では有名な話だ。ドアノブに手を掛けるとその冷たさに身震いした。呼吸を整え静かに鉄の筒をまわした。
 キィ…。と鳴った瞬間手を止め振り返る。数秒待っても誰こない。よし大丈夫。
 手の中の鉄の感触に全神経を集め、回しきる。そしてゆっくりドアを開ける。
 屋上に出ると振り返り両手でドアを閉める。再び屋上全体を見ると目の前の世界があまりにも広過ぎて息を飲んだ。まるで無限に広がる闇夜の世界。今から自分はその一部になる。そう思うと不思議と死の恐怖が薄れていった。
 ニヒルな笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩く。視線の先には来夢の倍くらいの高さはある鉄製の柵。
 そこから落ちればこの世界に溶け込み消える。生まれる意味も無く、生まれたことさえ世界に疎まれている自分自身が世界に消化される。さあもうすぐだ。 
 柵に手をかけ、足をかけよじ登っていく。柵の頂点に右手がかかった瞬間、ドンッ!と突然背中に大きな衝撃が走った。その衝撃が何なのか瞬時には理解できなかったが、刹那の時が過ぎ、その正体が声。それもとてつもなく大きな声を浴びせられたと脳が判断した。声の主は女性だった。その思考は僅かな時間で整理されたが、来夢の体はその強大な威圧感に強ばり、動けなくなってしまった。
 来夢がフリーズしていると背中から手を回され鉄の柵から一気に剥がされそのまま床に落ちた。衝撃を覚悟したが、痛みは無かった。来夢を剥がしたそれが彼を抱きしめた状態でクッションになってくれたのだ。
 振動で脳が震える中、落下の衝撃で緩んだその人の手を力尽くで払い、逃走すべく地面を蹴った。
 だが加速するより早く右手を掴まれ、次いで左肩を掴まれた。そのままの勢いで左に回されその人と正面で向き合う形になった。来夢は咄嗟に彼女の方を振り向く寸前に目を閉じ、下を向いた。
 下を向いたまま固まっていると彼女が膝をついた。荒い呼吸が顔にかかる。何度か大きな呼吸を繰り返した後、深く息を吸い来夢の両肩を力一杯掴んだ。
「来夢君!」
 こっちを、目の前の私を見て!と送られたその言葉の方へ恐る恐る目線を上げていく。すると予想外の光景が目に入った。担当の先生が真っ赤な顔を瞼から止めどなく溢れて出てくる大粒の涙でぐしゃぐしゃにしていたのだ。
「あ、う…」
 彼女のこの姿を見せていることが来夢には理解できなかった。自殺未遂で何度も怪我をしていた来夢に何も言わず、聞かず消毒し絆創膏を貼ってくれた。何度も、何度も。それ以上何もなかった。だから彼女もまたこれまで出会った大人たちと同じだと思っていた。故に彼女の流す涙の意味が分からなかった。
 ただ呻くしかできない少年を強く抱きしめて彼女は叫んだ。
「あなたは、生きてていいのっ!!」
 この闇も打ち破るかのように彼女の叫びが轟いた。
 ただ来夢は、その言葉に含まれる想いを明確に理解できなかった。ただ一つ確かなことは彼女が愛を持って言ってくれたこと。それを頭で理解する間も無く来夢の瞳からも自然と涙が溢れた。 
「あなたは生きてていいの」
 体を離し、いつもの優しい笑みを浮かべて言った。その笑顔が来夢が初めて他人からもらった愛だった。
 これ以来、来夢は自殺をしなくなった。
 だが施設を出てから自身に対する大人の視線、両親のいない自分に向ける同級生の目が彼の心に巨大な錠をかけてしまった。俺の存在は誰かの不幸になる。なら人との繋がりは持たない方がいい。独りで生きていくと誓った。
「…」
 三村から感じだものと、あの時あの女性から感じたものは似ていた。暖かくて安心する、人の心の温もり。思い出すとまた胸がポカポカしてくる。だが…。
「また消えちゃう…」
 最後の自殺未遂から数日後、担当の先生は辞職した。
 退職理由もその後どうなったのかも知らされなかったが、一つ確かな事実を得た。自分と深く関わると不幸になる。
 それから十数年友達すら作らなかった。三年目のクラスだが私語をしたこともない。
 三村はああ言っていたが転校生が来ても変わらないだろう。たがそれでいい。人との繋がりを持ってしまったら最後は今までみたいに…。
 左手で顔を覆い大きく息を吐き再び天を見た。
 ピピピピピッ……。
 何度目のスヌーズか。天井から視線を左にずらし時計を手に取る。ようやくアラームを切るといつもと変わらぬ身支度を始めた。
 戸締りをしていると乾いた風が体を包んだ。この時期は嫌いじゃない。日を追うごとに冷たくなっていく世界が自分の人生と重なっているような気がして安心する。
 いつもの道を進んでいると所々に水分を無くした葉が散らばっている。その枯葉の中央に虚しく巨体を晒す樹木から不思議な存在感がある。この裸の王様から何かメッセージが送られいるのでは。そんなことを毎年考えては白い息で濁し、歩いていく。
 いつも同じ時間に正門をくぐる。教室に入るのもいつもの時間。いつもと違うのはこの空間にある雰囲気だ。男女問わず今日から勉学を共にする女子生徒の話題で持ち切りだ。天崎来夢が席に着いても挨拶をする者はいない。ドアをくぐった際、一瞬だけ視線が集まるがすぐに散っていく。来夢もその視線の動向を何となく感じているが無視する。あの時からこうしてきたことだ。
 椅子に座ると決まって左側を見る。そこにあるのは昨日と変わらない風景。眺めて数分後にチャイムが鳴る、と同時に担任の三村聡子が入ってきた。
「おはようございます!」
 朝から元気のいい挨拶をして出欠確認をする。天崎なので一番最初に呼ばれるのだが、いつも彼の姿を確認してから三村はホッとした笑みを浮かべる。普段は全生徒との平等の為悟られないよう心掛けているようだが今日はその笑みが如実に現れていた。だがそんなことはこのクラスの生徒全てにとって周知の事なので、この日もその笑みには誰も触れない。
 確認を終えホームルームはついに本題に入った。そう、非彼女持ちに希望をもたらす話題。転校生。しかも(三村曰く)超可愛い女子。今日はクラスのほとんどが髪をセットしてきて気合も十分だ。
「ちょっと男子、目が血走ってるんだけど」
 岩田が呆れ笑いと共に発した。
 それに対抗するかの如くある男子生徒がぼやいた「転校生は清楚でお淑やかな子がいいなー」重ねてこの一言。
「岩田みたいに可愛げのねえ強気なのはもうごめんだなー」
 この言葉に梨亜のスイッチが入った。
「あら、あたしの可憐さが分からないなんて、とんだお子ちゃまね!」
 そう言い放つとスッと大倉が立ち上がり、右手で梨亜を制する。
「梨亜。やめときな。あんまり言うと泣いちゃうわよ」
 そして視線を例の男子生徒に向けて言った。
「私にフラれた時みたいに。びーびーとね。」
 その瞳には悪魔が映っていた。クラス中がその狂気を感じた。男の顔は真っ赤になり今にも溢れそうな涙を隠そうと机に突っ伏してしまった。
 久々に黒い女神の片鱗を見た所で、ゴホンと三村が仕切り直す。
「じゃあ転校生を紹介しますね。どうぞ」
 左手を口に当て扉の方へ言い放つ。今度は全ての視線がそのドアへと注がれた。ガラガラガラ、とゆっくり開かれその人が姿を表した。扉を閉めようと振り返ると綺麗な黒髪がフワリと宙を舞う。その時、空を舞うのが上質なベルベットかと錯覚するほど滑らかだった。2度美少女のベールが部屋を彩ると教卓まで進んだ。頬に笑を浮かべ一礼。その間に三村が黒板に彼女の名前を書いていく。
 顔を上げるとややハスキーだが、明るく通る声で名乗った。
「はじめまして。川崎まりあ(かわさき まりあ)と言います。よろしくお願いします」
 ふわりと春の風を感じた。目が離せなかった。呼吸も忘れ、天崎来夢は彼女に見惚れていた。

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